北郷朝五十皇家列伝・基礎概念-帝位継承と天命下降説

 この理論については大部の著『帝位継承と天命下降説』に詳しい。
 以下、その引用をし、わかりにくいところには筆者が注を付した。
 まずは根本理念についてみていこう。

 これまで伝統的な天子の概念をみてきたが、三国時代の曹操とその周辺の読書人たちは、天子の絶対性に疑問を提示した。
 まず、儒家の教義であり、当時受け入れられていた天人相関説1を土台として、一代の天子の人生の中でも、天からの命を受け取る量は一定ではなく、治世の中で上昇下降し、全盛期を迎えて、いずれは衰えていく、という説を唱えた。
 天命を受け続ける天子であるならば、老いも死にもしないはずだ、というのが彼らの主張であり、すなわち、老いや死を迎える皇帝たちは、すでに天命から見放されているのだ、という論で……(中略)……
 (この論に基づいて)天命がある程度衰えたならば、次代の、より強く天命を受けられる天子に継承を行うべきであるという天命継承説が、北郷朝における帝位継承の大原則となる。
 通例、中華王朝での帝位は、死亡継承が普通であった。軍の掌握等を背景に子や兄弟に強引に廃位に追い込まれる例もあるが、ごく稀なことである。
 通常は皇帝位につけば死ぬまで帝であるというのがそれまでの慣例であった。
 これは、一面として、政治の安定を招く。しかし、当然だが短所も存在する。
 皇太子を定めていたとしても、皇后や外戚に反故にされ、皇帝死後に継承争いが起き、王朝が疲弊する可能性や……(中略)……
 北郷朝においては、この死亡継承を取りやめ基本を生前継承とした。
 不慮の事故や急な病により継承以前に没した例はあるが、二十四代の中では、周家(刀周家)の弑逆継承を除けばわずか二例にすぎない。
 この生前継承を理論的に支えたのが、曹操たち――すなわち、北郷朝のそもそもの企画者たち――が提唱した天命下降説2に他ならない。

 人は老い、衰える。
 その基本的な事象を、天子という存在だからと否定していた歴代王朝とは違い、北郷朝は建前としては天子の聖性を保ちながら、手遅れになる前に交代させることを企図した。
 これこそ、五十もの皇家を抱える北郷朝であったればこそ採用できた方式であろう。また、これにより継承時の紛争を回避し、当然に王朝の寿命を長くすることに成功したことは、評価に値する。
 では、具体的な帝位継承の機構はいかなるものなのか、同著より引用を続ける。

 皇帝候補選びは、最短で十年、最長で十五年程度かけるのが通例である。新帝が即位すると、その時点で五歳から二十五歳程度の全ての皇族(男女問わず-原註)の行動が七選帝皇家の面々による評定にさらされることとなる。3
 ただし、あまりにも根拠地が遠い皇家の人間の場合は、自ら皇帝候補を辞退する旨の書を送ってくるのが習わしである。
 もちろん、この慣習に従わず遠隔の皇家に連なる者でも皇帝候補であり続けることは可能であるが、その場合は、最終選別の十年後の時点で、帝国本土でなんらかの官職を得ていることが条件となる。
 また、特定の皇家に連なる人間は当初から皇帝候補選定から外されている。4
 具体的な行動評価の指針に関しては、選帝皇家各家でその基準が異なり、たとえば、選帝皇家筆頭の劉家5では、主に人格面の評価をし……(中略)……
 ある帝の即位十年に、次の帝の最終候補者三人が選別される。十八回中十五例という高い割合で、男一名女二名という組み合わせであったが、これは特に定められていたわけではない。皇家の男女比が女性に傾いていたことが、大きな要因だったと思われる。6なお、この組み合わせの場合、血が濃すぎる例を除いて、三名は婚姻することが多く……(中略)……
 三名に絞られた後、二年から五年後に皇族会議が開催される。
 この期間の長さは、その時点における皇帝の年齢や体調、候補者の年齢等によって定められるものであり、その間、皇帝候補たちは、次代の皇帝という重責に堪えて職務を遂行できるか、地位に奢って徒党を組もうとしないか等、より慎重に行動を観察される。
 皇族会議は知っての通り皇家の代表者が参加して開かれる会議で、ここでの決定は帝を動かすほどの強制力を持つ。
 定期的には十年に一度だが、皇家代表であれば、誰でも年に一度は招集が可能だった。この会議には代理であっても皇家の人間しか参加できないため、いかに遠隔の皇家も、帝国本土に皇族を一人は駐留させていた。
 皇太子決定の皇族会議は特例として、皇家の代表者に加えて、現役の皇帝と、(生存していた場合-原註)皇帝経験者の参加が強制される。
 皇帝及び皇帝経験者には、出身皇家の票とは別に投票権が付与された。7
 皇族会議において三名の候補者は面談を受け、自らの行動評価を聞いて、それに対して意見を述べることが出来る。
 その後、投票となり、選ばれた一名は新しい天子となることが約束される。残り二人は、新帝が即位した後にそれぞれ大将軍(もしくは大司馬-原註)と丞相につき、兵権と政権を担うこととなる。
 これは、皇族たちがもし天命を受けるべき人物を選び損なっていた場合、残り二人こそがその任を受けるはずで、三名が補い合えば国家は安定するであろうという考えからである。8

 このように、北郷朝における帝位継承者の選抜機構は、皇家全体に目を向け、優秀な人材を取りこぼさないように配慮された仕組みである一方、一見、権力主体が定まらないようにも見える。
 つまり、五十ある皇家のあちこちの血統に皇帝権力が移り変わり、安定しないのではないか、という点である。
 ここで、忘れてはならないのが、皇家同士が、結束を保つためにも血の拡散を防ごうとしていたことで……(中略)……
 三名の最終候補者が男一、女二という構成である場合、後に婚姻することが多いことは記されているが、それ以外の場合でも、この候補者三名はなんらかの形で血を交えることが多かった。また、六代桓帝あたりからは皇帝が男性の場合、全ての皇家から妻を娶るのが慣例であった。
 これにより、名目上は各々の皇家に属していても、初期候補者は直近三代ほどの皇帝の血を引いていることがほとんどで……(後略)


  1. この場合はこの説のうち、王家が天命を受け天子を継承していくが、やがて徳が衰微すると新たな徳を持つ王家にその座を譲り、王朝が交代していくという部分 

  2. そのうち天命継承説 

  3. 現実的には七選帝皇家は常にこの行動評価をし続けている 

  4. 美袁家、七選帝皇家など 

  5. 蜀劉家または靖王劉家 

  6. 三名全てが女性だった例もある 

  7. ちなみに、これは皇帝を退いた後の唯一に近い特権である 

  8. ここでは、七選帝皇家が候補者選びを誤ることが想定されていない 

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