北郷朝五十皇家列伝・孫高家の項[孫策]

 孫策からはじまる孫家は、孫高家と呼ばれ、その姉妹から続く孫世家[孫権流]、小孫家[孫尚香流]と共に三孫家と呼ばれる。
 孫策は北郷朝成立前に一度死亡したと世間には発表されていたものの、後に呉の王位継承を円滑に行うための偽装であったことが明らかとなる。しかし、この行為により、孫高家の血筋は帝国の成立後も、呉公(及び追贈王位の呉王)を継ぐことはなくなり……(中略)……
 中華王朝としての北郷朝の終焉をいつと定めるかという議論は古くからあるが、趙・楚二国の成立により統一は破綻し、地方政権となったとするのが一般的である。
 地方政権となった後の、いわゆる『後北郷朝』最初の皇帝となったのが孫高家の聖武帝であり……(中略)……
 聖武帝の即位には血塗られた経緯があることはよく知られている。
 趙と楚の前身となる勢力が南北に興った際、当時の皇帝(第二十三代懐帝)は年若く、血気に逸りがちであった。彼はこれら二つの軍を同時に討とうとして、逆に攻め寄せられることとなる。
 その結果として、南では成都を失って楚が建国され、自ら出陣した北では長安に迫られる事態を招いた。
 成都陥落の報を聞いた懐帝は長安守備の陣を解き、洛陽へ撤退することを決定する。
 これは軍を再編し、根拠地に拠って守るという意図だけを見れば正しい行動とも思える。
 しかしながら、首都圏を構成する重要な都市である長安を一時的にでも放棄することは、国家の威信を傷つけ、軍の士気を下げることとなる。
 これらの損失と、軍事的要請を天秤にかけたとしても、この時点での長安放棄は拙速な判断であったといえよう。
 なにより、長安を根拠地とする賈家、董家をはじめ馬家などの涼州諸皇家が趙へ取り込まれる危険性を考えると、一武将としてはともかく、皇帝が下していい決断ではなかった。

 事ここに至って、陣中にあった刀周家の主が動く。
 懐帝を弑逆し、二十四代皇帝となって、趙軍に猛然と襲いかかったのである。この結果、趙軍の勢いは減じ、ついに渭水の北に押し戻され……(中略)……

 刀周家の緊急招集による皇族会議で帝位を譲られた聖武帝は、帝国本土の国家を大幅に編成しなおし、すでに遊牧生活に移っていた涼国の民を北方の顔家に吸収させていくことで、楚趙間に空白地帯を作り上げた。
 建国間もない二国は、文字通り無人の野を行くようにこの地帯を制圧し、ついに国境を接する。
 これにより、新興二国は、あたるを幸い、ただひたすらに進めば――彼らいうところの『圧政者』である帝国の――領土を手に入れられるという状況から、複雑な国際政治の舞台に引きずり出されることに……(中略)……
 このように、聖武帝はたしかに諡号の通り、趙・楚二国を相手に戦いを重ねた皇帝ではあったが、卓越した政治的感覚を兼ね備えた人物でもあった。

 また、この時代、中華王朝としての北郷朝が瓦解したことにより、帝国皇帝の二重性――中華本土の皇帝であると同時に、世界各地の皇家の上に立つ帝である――が浮き彫りになり、いわゆる「北郷帝国」(諸氏の連合帝国、または皇家帝国連合とも呼ばれる。もちろん、知っての通り、正式名称はいかなる言語でも『帝国』)の概念が意識され、中華本土を拠り所としない、全帝国の上に立つただ一人の皇帝、すなわち泰皇帝の地位の確立が……(後略)

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