北郷朝五十皇家列伝・甘家の項[甘寧]

 甘家は甘寧にはじまる皇家であり、いわゆる孫家集団に属する。
 孫呉の成立に関わった諸皇家の中でも、孫高家及び周家が江南の経営から一歩引いた立場であったのに対し、甘家は代々呉公を継ぐ孫世家と密接に関わりながら、南方の土地、ことに江水流域の開発、水運の整備に力を注いだ。

 そういった積極的な地元への関与が続いたこともあったのだろう。
 甘家は江東・江南の人々に慕われ、初代甘寧は武神として崇められることになる。
 この時期は太祖太帝をはじめとして、呂布、華雄、関羽、周泰などが続々と民間信仰において神の座を占め始めた頃であり、この動きもその流れの中で生まれたものであったろう。

 しかし、ここで注目すべきは、同時代に生きた武人として、華雄、呂布の人間離れした活躍――それは、複数の史書や同時代の書物にはっきりと記されているのに、後世の学者から、当人の実在すら疑われるほどの荒唐無稽なものである――に比べると、甘寧、周泰などは一段落ちると考えざるをえないことである。
 それでも、南方の人々は地元の神として、呂布、華雄に勝るほどの信仰を、彼女たちに捧げた。

 そこに、この当時では、まだまだ開拓の続く活気溢れる土地であった南方の、華北・中原の人々に対する対抗心や反発といったものが見え隠れ……(中略)……

 後に楚が建国される時には、この甘家の傍系の人物が帝に推戴されることとなる。
 北郷の血を取り入れることで権威を増そうとしたのは――あちらは失敗したが――趙と同じ意図であろう。しかし、成都を都としているのに蜀漢ゆかりの人物、それこそ靖王劉家の人物や関家の人間を戴かなかった理由はなんであろうか。
 この疑問に関しては、一般には以下のように理解されている。
 趙は巴蜀をその拠点とし、そこから荊州、揚州の南方をかすめて東に尾を伸ばすような形で支配域を広げようとしていた。
 巴蜀はそもそもの勢力拠点であり、基盤である。そこでの支配を盤石にするならば皇家の血として選ぶべきは蜀漢縁故の者であったろう。しかし、楚はそれよりも拡大策を選んだ。そのために南方でも東側により信奉者の多い武神甘寧の末をその主とし、東方への侵攻を企図したのだった。

 この意図が成功したかといえば、それは疑わしいものであったが、北郷の血を用いてその権威を高めるという狙いは成功し……(中略)……

 なお、楚の帝に関しては、趙の初期の皇帝たち――つまりは荀家の一員であった者たち――に対するような暗殺の試みがなされた形跡はない。
 これは、後朝の初代皇帝となった孫高家の聖武帝から手を出さぬよう命が出ていたのではないかと疑える部分がある。現実的に、南方に遷移した後朝にとって、最も近しい隣人とも言える楚に対して、敵対するにせよ融和策をとるにせよ、甘家の者が頂点にあることが有利にはたらくと……(後略)

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