西涼の巻・第二十三回:荀文若、不覚にも墨を切らすこと

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「体は大丈夫なのか?」
「風には散歩を勧められるくらいだし、大丈夫でしょ」
「木犀は?」
「稟と桔梗、それに紫苑が来てるからね。預けてきたわ。璃々が赤ん坊を見たがるせいで、紫苑はほとんどあそこで仕事しているようなものよね」
 桂花は自分から話を振ることはないが、尋ねれば答えてはくれる。
 いやあ、昔に比べれば丸くなったものだよなあ。
「まあ、副使の桔梗もいるわけだしね」
「それにしたって……いえ、まあ、私たちは便利でいいけどね」
 そこで、にやりと笑って彼女はあのいつもの口調で言う。
「あんた、呉の大使も孕ませたら? 大使の部屋を作る必要がなくなるわ」
 ぐうの音もでなかった。
 まさか、既に思春とは関係を持っています、なんて口が裂けても言えやしない。
 養育棟に入り、面倒を見てもらっていた桔梗から木犀を受け取る桂花。そこでのやりとりからすると、どうやら木犀は乳も分けてもらっているようだ。
 異母姉妹で乳姉妹か。
 自室に戻り、桂花は赤ん坊用の寝台に優しくわが子を寝かせる。
 その頬に浮かぶ笑みは、信じられないほど柔らかなものだった。華琳相手でもこんな表情を浮かべる彼女を見たことはない。
 やはり、母親なのだなあ。
 ちらっと釘を刺すように俺を見て、机に向かう。
「心配しなくとも、桂花の許しもなく抱いたりしないよ」
 俺にも抱かせてくれとは何度か頼んでいる。
 あまりしつこくしても逆効果だろうから、今日は先に告げておいた。
 それに対して、桂花は馬鹿にしたように大きく息を吐いた。
「当たり前よ。男の手なんて触れさせないわ。汚らしい」
 女性も拒否してるくせに。
 とはいえ、喋れないうちなら、この程度の溺愛は許容範囲だろう。
 歩ける大きさになってもずっと母親が抱っこしていると、歩くのが遅れるなんてこともあるらしいが、そこまで行ったらさすがに俺も華琳も注意するはずだ。
「まあ、でも、見てるのはかまわないだろ?」
 寝ている木犀は、ときたま手を握ったり開いたりする。
 それを見ているだけで、愛おしくてたまらない。
「……署名するまではね」
 渋々といった感じで首肯する桂花。
 そのまま机に向かい、書類を書き始めた。しかし、途中でなにかを探し始め、引き出しを何カ所も開けては閉め、開けては閉めを繰り返す。
 鋭い舌打ち。
「墨が切れたわ」
 ふむ。じゃあ、俺が取ってくるか。
 桔梗か稟なら持っているだろう。そう腰を浮かせかけたところで、桂花が立ち上がった。
「ちょっと。墨を取りに出てくるから」
「いや、それなら俺が」
 部屋を横切ろうとするのを呼び止めた俺に、彼女は小馬鹿にしたような様子で吐き捨てる。
「あんた私が好んでる墨がどれだか知ってるの?」
「ああ。知ってるよ?」
 当然のように応じた俺に、猫耳軍師殿は目を丸くした。
「え? 知ってるの!? なんで?」
「そりゃあ、愛する桂花の好みだからな」
「うぇえ……」
 ことさらかっこつけて言ってみたら、本気で吐きそうな表情をされた。
 桂花とだからこれもじゃれ合いのうちだが、他の人間にこんな顔されたら、たまらないだろうな。
 いや、まあ、桂花だってわざわざかわいい顔を歪ませることはないと思うけどさ。
「まじめな話、魏の幹部の好む道具はだいたいわかるぜ」
「うわ、きもっ」
「ひどっ」
 そこは、こう『あんたとのつきあいもなんだかんだ言って長いもんね』とかそういう方向に行っていただきたかった!
「まあ……いいわ。で、この荀文若が使うに足ると認めた道具というのは、簡単に手に入るようなものだったかしら?」
「あ……」
 言われてみればその通りだ。
 稟にしても桔梗にしても墨は持っているだろうが、なかなか珍しいものを好んでいる桂花のお気に入りは所有していないだろう。
 これが危急の折なら書ければなんでもいいと言えるが、書類仕事も多い桂花なら、なるべく自分の好きなようにやりたいと思うことだろう。
「結局、私が自室に取りに行くのが一番早いでしょ。言っておくけどあんたが入って取ってくるなんて論外だからね」
「う……。まあ、そうか」
「じゃあ、行ってくるから」
 足早に出て行く桂花が扉を抜けたところで、もう一度こちらに顔を出してびしっと指を差して来る。
「ちゃんと、木犀の世話するのよ!」
「わかったよ」
 ぱたぱたと足音が遠ざかっていく。
「うーん……」
 俺はじっと木犀を眺めながら、首を傾げた。どうも先ほどの桂花の雰囲気が気にかかる。
 呼び止めた後はいつも通りだったものの、その前がなんだかおかしくはなかったか。
 そもそも、わざわざ墨が切れたなどと口にするだろうか?
 ここには俺しかいないのだから、俺のことなど構わず、黙って出て行くのが普段の桂花ではなかろうか。
「怒られるかな? 怒られるだろうな。まあ、でも……な」
 すーすー寝ている木犀を片方の目で見ながら立ち上がり、机に近づく。悪いとは思いつつ、引き出しを開けてみた。
 すると、最初に開けた一番上の引き出しに、彼女が愛用する墨が三つも入っていた。
「なるほどなるほど」
 相変わらずひねくれてるな。
 とはいえ、そこがまたかわいいのだが。華琳もきっと同じ意見だろう。
「ともあれ」
 お膳立てを整えてくれたのだ。活かさなければ桂花にも失礼というものだ。
 慎重に寝台に向かい、壊れ物のようにわが子の下に手を入れる。
 ゆっくりと、しっかりと、娘を胸に抱く。
 帰って来たら、礼を言おう。
 俺はそう思った。
 桂花は烈火のごとく怒って――あるいは怒るふりをして――俺を罵るだろうが、それでもいい。
 彼女のしてくれたことに、礼を言おう。
 だが、いまは、この重みを心に刻もう。

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西涼の巻・第二十三回:荀文若、不覚にも墨を切らすこと」への2件のフィードバック

  1. 久々にコメントを(2016年に入って初のコメントかな?)。
    桂花らしいと言えば桂花らしいのですが、もう少し素直になれないのかなぁ····デレれば破壊力高いのに。でも、これもまた桂花の魅力かな?
    色々と新作アニメが始まりましたがその中でも「アクティヴレイド-機動強襲室第八係-」はブッ飛んでて面白いですねぇ毎回楽しみです。
    太陽系第9惑星の存在が可能性段階ではあるものも発表されましたが、もし本当に第9惑星が確認されたらどんな名称がつけられるのかが興味深いです。

    •  桂花はどこかで本気で男なんて生き物は無駄だと思ってる部分があるからこそ、デレた時の破壊力がすさまじいと思うのです!
       まあ、それでもだんだん丸くなってきているとは思いますけどもw

       アニメは今期だと『おしえて!ギャル子ちゃん』がスキですねー。時間がなくてあまり続き物を見ていられないというのもありますけども。
       第九惑星は実際にあるかどうかなど、解明が進むと楽しいですねー。実にわくわくします。

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