西涼の巻・第十二回:北郷一刀、ようやくに修羅場の意味を知ること

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「シャオには後にしようとか言っておいて、袁術は抱くっておかしいよ……って、あれ。お姉ちゃん? 思春?」
 わめき散らした後で、ぽかーんと口を開けている蓮華と思春に気づいたらしい。
 あなたのお姉さんが、ぷるぷる震えているのも気づいてください。小蓮さん。
「小蓮のみならず、袁術だと……!?」
 振り返った彼女から、刺すような視線がやってくる。
 その紅潮しきった顔が、以前、呉の宮廷で糾弾された時より何倍も恐ろしいのは何故だろう。
 いからせた肩の背後に、めらめらと燃える怒りの炎が見えるようだ。
「あのような小娘を相手にしたというのか」
「ま、まあ、美羽を抱いたのは事実だが……」
 彼女の腕が振り下ろされる。
 卓がばんっと大きな音を立て、ゆらゆらと揺れた。
「北郷、貴様を見直そうとしていた自分が愚かしくてたまらぬ。思春。この男のどこがいいのか知らないけれど、私は友としてあなたを祝福することはできないわ」
「蓮華、さま……」
「失礼する」
 そう言い捨てて、つかつかと去っていく背中に、誰も声をかけることができなかった。
 しばらく後、はっと気づいたように腰を上げる思春に、もつれあう明命とシャオを解きほぐした祭が振り返る。
「思春、ぬしはやめたほうがよいな。そう忠告するとしよう。呉を出たこの身にできるのはあくまで忠言でしかない。じゃが、いま行っても売り言葉に買い言葉。こじれるだけじゃろう」
「ならばどうしろと……」
 ぎりりと奥歯を噛みしめる音が聞こえたように思うほど、その声は悲痛だった。
「明命、おぬしが行ってやれ。ここは儂が」
「はっ。それでは、一刀様、失礼いたします」
「ああ」
 ぺこりと元気よく頭を下げて出て行く明命。
 そのいつも通りの姿を見て、俺はようやく普段の心地に戻れたような気がした。
「さてと。どうなっておるのですかな?」
 扉をしっかりと閉めた祭が向き直る。
 シャオは俺の隣に座って、不機嫌そうな顔で見上げてくるばかり。思春は思春で顔をうつむかせて無言を貫いている。
「あー、うん。蓮華はこれまで知らなかったんだけど、思春と俺との仲が知れてね。俺が思春に足る人物かどうか、その覚悟はあるか、という話をしていたところだったのさ」
 祭が蓮華の席の茶杯を素早く片づけ、皆の前に新たに杯を置いていく。
 シャオの前の茶杯以外は、酒杯だ。
 そこに俺の秘蔵の酒を取り出して注いでいく祭。
 手際いいのはいいが、毎度隠し場所を変えているのにすぐに見つけ出すのはどういうことだろう。
 いや、別に飲まれるのが嫌なわけじゃなく、最近では祭が見つけられるかどうか遊んでいるだけなんだけどさ。
 その分、見つけられるとちょっと悔しい。
「えー? お姉ちゃん、思春と一刀のこと気づいてなかったのー?」
「なっ……。小蓮様は気づいておられたというのですか!?」
「あったりまえじゃなーい。船旅の様子見てて気づかないほうがおかしいよー」
 驚く思春に対して、小蓮はあっけらかんと答える。
 思春は、少し考える素振りで尋ねた。
「特に無理に隠そうとは思っていませんでしたが、普段の行動で、そのような兆しが読み取れるものでしょうか?」
「簡単じゃ、思春。距離じゃよ、距離」
 椅子に座るなり早速酒杯を呷りながら、祭が指摘する。
「距離?」
「そうじゃ。人と人は、その親しさで、お互いにとる距離が決まる。たとえば、道端でたまたま会うて話すだけでも、その位置取りでお互いの関係がわかるものじゃ。もちろん、これを意図的に行うような者もおるがな」
 心理学用語でいうパーソナルスペースってやつかな。
 まあ、親しくない人があまりにも近くにいるのは、落ち着かないものだ。
「ましてや、ぬしは武人。信用しておらぬものを、その内懐に入れるわけがなかろう。ぬしの動作は、旦那様を信頼しきっていることを示しておるわ」
「し、しかし、公務においてはこやつは曹操の側近。それを尊重しているだけで……」
「そんな違い、女の子だったらだいたいわかるよー」
 反論してみるものの、シャオに笑い飛ばされた。それに対して、思春は少しショックを受けたような顔をしていた。
「そ、そうですか……。しかし、蓮華様は……」
「お姉ちゃんは思春と近すぎてわかりにくかったのかもねー。……単純に鈍いだけの可能性もあるけど……」
 さすがに後半は小さい声だ。
 蓮華が人の心の機微に疎いとは思えないが、多少堅物の感があるから、恋愛やそういった関係に関してはあまり鋭くないことはあるかもしれない。
 気づいていても無意識に否定していたりとか。
「で、小蓮様が押し入ってこられたことで、権殿はすっかりお冠で出ていってしまった、と」
「うん。一応納得してくれそうだったんだけどね」
「まったく、権殿も早合点がすぎる。袁術を抱いたという言葉だけでそれとは……。あのあたり、やはり熱情の血筋か」
「袁術までと呆れられるお気持ちはわからないでもないが……」
 うう、思春さん。
 そんな刀を抜きたそうな目で俺を見るのはやめてください。
「あ、それよ。どういうこと、一刀」
「どういうことって言われてもなあ」
 一人一人に対する態度を口で説明しても理解されないであろうことはわかっている。
 なにより、その時の空気というものが理解されないだろう。
「シャオには、二年や三年待てって言っておいて、袁術は抱くってのはおかしくない? 季衣や流琉の時は戦時だからしかたないって納得したけど、いまは違うでしょ」
 実はいま現在も準戦時体制なのだが、まあ、美羽を抱いた時点でそんなことを意識していたわけではないからなあ。
「貴様、小蓮様に手を出す予約をしていたのか……」
 あれ、思春さん。そこに食いつくの?
 彼女の手が本当に刀の柄にかかっているのを見て、俺は震え上がらずにいられなかった。
 自分のことではともかく、孫家の人間に関わることで彼女を怒らせたら、言い訳なんか聞いてもらえそうにない。
「小蓮様も思春も落ち着け。そのように男を責めるのは、よい女とは言えませんぞ」
 不満げに口をつぐむ思春と小蓮を見て、祭は苦笑を浮かべる。
「小蓮様。袁術が旦那様に迫った折の話は聞かれたか?」
「えっと、季衣たちの話だと、はじめての月のものが来たとかなんとか」
 なんで季衣はそんなことまで知っているんだ。
 そう疑問に思いつつ、その答えを知っている俺は、嘆息するしかない。
 美羽が話したんだろうなあ……。
「儂は与り知らぬことじゃが、袁術とて実際に初潮を迎えたは、随分前の話じゃろうて。少なくとも昨日今日という話ではありますまい。じゃというに、そのことを言うた意味が、小蓮様にはわかりませぬか?」
 小蓮は祭の言葉の意味について考えているようだったが、どうしても答えが見つからないようで、何度か顔色を変えた後でむくれながら問い返した。
「……どういうことよ」
「袁術は、自分が大人であるということを言うたわけですな。孕んでもよいという意志を言葉にすることで示してのけたということじゃ」
「でも、そんなの、シャオだって……!」
 激昂する小蓮を、祭はまあまあとなだめる。
 俺は口を挟めないと察して、酒を飲みながら眺めているしかなかった。
「よろしいか? 大事なのは、初潮うんぬんではないのじゃ。それは子供と大人の境を示すものでもなんでもないのじゃからの。ただ、欲望のままに抱いてくれと言うではなく、己の全てを相手に捧げてもよいという強烈な意志、それこそがその境を決めるのじゃ」
「そんなの……」
「考えてもみなされ。袁術にとって、袁家の名と血こそが誇るべきもの。その袁術が、己の血脈に、この世界では伝統など少しもない旦那様の血を入れたいと言う。そのことを決意するに、どれほどの胆力がいったと思われます」
 祭の言葉は正しいだろう。
 麗羽にしろ、美羽にしろ、とてつもない名族であり、そこに無名の俺の血を入れることは、それまでの常識からすればおぞましいとも言える行為のはずだ。
 もちろん、抱いたからすぐに子供ができるとは限らないが、そのことを覚悟していなかったとは思えない。
「無論、袁術を愚かしい小娘と思うて、その決意の意味を侮るも、小蓮様次第。じゃが、それでは、己を子供と白状しているも同然ですぞ」
 もはや、小蓮は口を開かない。
 ただ、その大きな目の端に、ほんの少し涙を溜めながら、彼女の言葉を聞いている。
「この祭、赤壁にての心残りといえば、儂の知る手練手管を小蓮様にお教えできなかったこと。生まれ変わり、いま、それをお教えしておる。じゃが、生かすも殺すも小蓮様次第。ただ、旦那様が小蓮様を嫌っておるのでないくらい、聡明な小蓮様ならおわかりのはずじゃ。大事に思うが故に、手折るをためらう男の心もありまするぞ」
 祭の言葉を噛みしめるように、何事か小さくぶつぶつと呟いていた小蓮は顔を上げると、俺をじっと見つめてきた。
「一刀……」
 その手がさっと動き、俺の前にあった酒杯をかっさらうと、一気に傾け、なみなみと注がれていた酒を飲み干してしまう。
「しゃ、シャオ?」
「小蓮様っ」
 俺と思春が慌てる中、小蓮がぷはーっと息を吐く。
「シャオ、絶対、一刀にシャオのこと認めさせてみせるから。一刀から抱きたいって言わせてやるんだから! 覚悟しててよね! って、このお酒おいしっ」
「おお、その意気、その意気」
 小蓮の宣言は、とても嬉しいものだった。たとえ、こちらを見ている思春の痛いほどの視線があったとしても。
 そして、きっと彼女の言うその時は近いだろうという予感も、またあった。
 だが、なぜかそのことに一抹の寂しさを感じている。
 あるいは、俺はこの娘に、大事な大事な姫君に、子供でい続けてもらいたいのかもしれない。
 二杯目をねだって思春に止められている彼女を、目を細めて眺めながら、俺は身勝手にもそんなことを考えていた。

「さて、小蓮様のほうはこれでよいとして……」
「あー。お姉ちゃんはだめだよ。しばらくは怒りっぱなしだと思うよ」
「まあ、そうでしょうな」
 結局、小さめの酒杯を用意され、それに注がれた酒を舐めるように飲みながら言う小蓮に、祭が同意する。
 思春は一人黙って酒杯を傾けていた。
「姉様よりましだけどね。姉様ったら、怒ってるのに笑うでしょ。怖くって」
「王ともなれば、それが必要なこともありますからな」
 酒杯を空にした思春に、祭がすかさず酒を注ぐ。
「まあ、飲め、思春」
「飲んでおります」
「そうじゃな」
 そんな風にじゃれあっている二人を見ながら、俺は誰に問い掛けるでもなく呟く。
「しばらく待つしかないか……」
「蓮華様は、頭で理解しようとなされておるために、戸惑ってしまうのでしょうな。しばらくすれば、得心することが出来ましょう。心配めさるな」
 そうして、祭は呆れたように続けるのだった。
「人を嫌うは勝手に理屈がついてくるが、人を好くのに理屈なんぞいらんというに」
 と。

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