西涼の巻・第八回:北郷一刀、父となること

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 おぎゃー、おぎゃー。

 赤ん坊の元気な声が部屋中にこだまする中、俺はすっかり放心していた。
 寝台にはまだ少し汗ばんだ稟が寝ており、その横で大声を上げて泣いているのが、俺と彼女の娘。
 そして、周囲は俺と稟へ祝福の言葉をかける人々で溢れている。
 そのことを知覚してはいるはずなのだが、どうにも頭に入ってこない。
 見えるのはやつれた稟と、その脇にいる真っ赤な肌のしわしわの赤子の姿だけだ。
 赤ん坊って本当に赤いんだなあなどと俺はよくわからない感想を持ってみたりする。
 霞の駆る絶影のすさまじさに半ば気を失いつつも深更の洛陽に到着したと思ったら、すでに稟は産室に入っていると聞かされ、夜明けと共に産声を聞くことになった。
 それからどれほど経っているのだろう。
 俺は寝台脇の椅子に座り込み、ばんばん肩を叩かれたり、抱きつかれたりしながら、ただただ笑みを抑えることができない。
 初めて自分の子を抱いた時の感触が、ずっと手に残っているような気さえした。
「さ、そろそろ稟が疲れてしまうから皆は遠慮なさい。後は私と一刀が残るから」
 華琳の言葉に従って、部屋から人が減っていく。
 相変わらずぼーっと幸福感に包まれている俺に、稟が顔を向けて話しかけてくる。
「名を、つけてやってください」
「あ、ああ。そうだな。わかった。でも、こっちの風習をそれほど知らないし、誰かに知恵を貸してもらって……」
 俺の感覚では普通でも、こちらでは変な名前をつけるわけにはいかない。
「ああ、それなら大丈夫。私が候補を挙げておいたから、ここから選んで。それで私も名付け親の一人になれるしね」
 そう言って手渡される紙の束。一枚に一文字ずつ名前候補が書いてあるらしい。
 あの華琳が選んだものだから、ふさわしい名前に違いない。
「ああ、意味も書いてくれているのか」
 良く見ると、大きく一文字書かれた下に、その字の持つ意味まで書かれていた。さすが華琳、抜かりがない。
 一枚一枚その意味を熟読しながら、字の形なども考えつつ読み進めていく。通して見た後で、もう一度上からめくった。
 その中で、一つ気になる文字があった。
「これは……どうかな」
 俺は、その紙を二人に見せる。
 そこに書かれているのは『奕』。
 意味は、うつくしい、かがやく、つづく。
郭奕(かくえき)
 いつの間にか泣き疲れたか、寝息を立てているわが子をなでながら、稟は微笑む。
 その笑みのあまりの透明さにどきりとした。
 なぜか、汗で額にはりついた髪が、母の美しさと力強さを象徴しているように思えたから。
「よい名前ですね」
 稟も気に入ってくれたようだ。
 子供を抱いている稟を、静かに俺たちは見つめている。
 すると、扉をあけて、小さな影が滑り込んできた。
「はいはいー。しばらくは稟ちゃんも寝かせてあげないとだめですよー」
「あら、風。どこにいってたの?」
 なんだかいろんな書物を抱えている風に華琳が尋ねる。
 そう言うからには、さっき部屋にいた面々の中にはいなかったのだろう。どうも印象が乱れているな。
「風はお産婆さんについて、色々聞いていたですよー。とりあえずは風が本を読みつつ、様子を見てようと思いましてー」
「そう。じゃあ、ここは風に任せましょうか」
「じゃあ、稟。またくるよ」
「はい」
 さすがに疲れているのだろう。稟の返答も力がない。それに、瞼も落ちそうだ。
 部屋を出る時にもう一度振り返ると、すでに子供とそろって寝息を立てていた。
「そうそう。これは後でもいいけど、幼名も考えてあげなさい。しばらくは幼名で呼ばれるのだし」
 部屋を出ると横を歩く華琳にそう言われる。
「幼名も一文字なんだっけ?」
「いいえ、このあたりはそうでもないわ。南の風習だと、一文字に阿をつけて呼ぶようだけどね」
 幼名か……。
 どんなのがいいのだろう。女の子だし、やっぱり可愛らしい呼び方がいいのだろうけれど。
「そういえば、真名は?」
「真名はまだまだ先。下手に誰でも彼でも教えてしまったら大変だもの」
「ああ、そういうものか」
 そんな気はしていたが、真名はかなり慎重につけるもののようだな。このあたりは、もっと落ち着いてから考えればいいだろう。
「ところで、稟の体の方は大丈夫なのかな?」
「ええ、出産が予定よりだいぶ早まったのは驚いたけど、子供もしっかりしているし、大丈夫よ。逆に健康すぎてすくすく大きくなりすぎたのかもね」
「そうか」
 ほっと一息つくと、華琳が苦笑いを浮かべていた。
「あなたこそ大丈夫? 私、同じことを何度も説明している気がするけど? 私だけじゃなくて、風や凪あたりにもだいぶ食い下がってたわよね?」
「そ、そうだったか? すまん」
 そんな記憶は……うっすらあるような気もするな。
 しかし、いくら大丈夫と念押しされても、心配なものは心配だったしな。後で風たちにも謝っておこう。
「まあ、しかたないわ。これからどうせ蓮華たちを迎えて酒宴も続くし、数日は惚けていてもいいけど、その後は、子供の面倒で手が放せない稟の分も働いてもらうわよ」
「うん、そうだな。気合い入れなおさないとな」
「そうね、まずは五日後に、漢中についての報告と対策をまとめてちょうだい。五斗米道への対処。いいわね」
 慌てて矢立を取り出し、懐紙に書き留める。
「ああ……えっと、よし、書いた。これで忘れないだろう」
 その様子を眺めていた華琳はくすくす笑った後で、俺の背中を一つ大きく叩いた。
「まあ、がんばりなさいな、お父さん」

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西涼の巻・第八回:北郷一刀、父となること」への2件のフィードバック

  1. 名実ともに父親になった一刀。子供に何をしてあげられるか?何を伝え教えられるか?何を残せるか?親と言うのは何かと難しく大変なものですから。

    •  難しいですよねえ。
       一刀さんの場合、腹違いの兄弟姉妹が多数いることが約束されているので余計に、父の存在を示すことは大事ですしね。
       まあ、それでもそういうことで悩めるのは幸せなんだと思いますがw

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