洛陽の巻・第十五回:謀士賈駆、助けを求めて北郷に降ること

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 華琳たちが仕事に出て行った後、俺は届けられた文書を読んでいた。
 桂花と風、それぞれが提出した警備体制に対する改善案だ。
 桂花の案は俺のもの以上に過激で、親衛隊以外全て放逐せよ、となっていた。確かに一本化するのは正しいと思うのだが、桂花の場合、男の警備兵を追い出したいだけのような気がしてならない。受け皿自体は想定されているし、そう悪いとも言えないが……。
 一方風は現状の体制をできる限り変えずに、いかに効率的に警備を強化するかという方針の案で、いつでも実行できそうな点が優れている。そのくせ、朝廷側の警備兵に対する権限が縮小されて、運用体制によっては朝廷の警備兵が飼い殺し状態になることが企図されているあたり、よく考えられた風らしい案だ。
 どの案が採用されるか、あるいは新しい案をつくるかは華琳次第だが、どちらにせよ朝廷の権力は削り取られるだろう。
 しかし、わからないのは朝廷の思惑だ。俺は、彼らがこの国を治めることを本気で望んでいるのかどうか、疑問でならなかった。
 現実的に言って、董卓が都に入った時点で、後漢王朝は滅びている。
 それでも各国の支配層の武将たちは漢の官位をもっており、それが宮廷序列を示すこととなっているのも事実だ。
 果たして、今上やその周辺はなにを考えているのか。

 扉を叩く音が、俺の思考を断ち切った。音の出所に近づいて行くと、扉の向こうだというのに気配を感じ取ったのか、どんどんと叩く音が消え、代わりに華雄の声が聞こえてくる。
「迎えの者が来たが、聞いているか?」
「ああ、華琳のところだろ。支度するから待っていてくれ」
「わかった」
 くぐもった華雄の声に返事をして、衣服を整える。久しぶりの外出なので気が逸るが、それで失礼なことをしてもいけないので、何度か深呼吸してから扉を開けた。
「それじゃ行こうか、華雄」
 使者の人は既に戻っているのか、元々親衛隊の歩哨の一人だったのか、華雄だけしかいない。俺は天下無双の美女を連れて回廊を歩きはじめた。
「どう? ここ数日の外の世界は」
「私もお前に張りつきっぱなしだ。わかるわけがなかろう」
 華雄の声が固い。警戒をしているというわけではなく、単純に機嫌が悪いように聞こえる。
 祭と二人交代で常に扉の外にいてくれたから、疲れているのだろうか。それにしても、怜悧な美貌の持ち主が硬質の表情でいるだけで迫力があるな。しかも、それが呂布を下せるほどの豪傑ときたら。
「華雄さん、その、怒ってらっしゃる?」
「私が? 仕えるべき主に対して? そんなばかな」
 大げさに驚いたふりをする華雄。あ、こりゃまずい。
「毎日毎日、お前に会えないものかと曹操の部屋に入れない武将たちが見舞いの品を持ってくるのを断り続けるのも、毎晩わずかに漏れ聞こえてくる嬌声に苦笑を浮かべつつ己の耳の良さを呪うのも、文官に仕事が回らないと泣きつかれるのをあしらうのも、部下の務めだ。そうだろう?」
「うう。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
 足を止め、ぺこぺこと頭を下げる。しばし、そうしてからおずおずと彼女の顔を見上げると、ふっと顔がゆるみ、普段の表情を取り戻す。
「ま、これくらいにしておこうか。人を心配させた罰だぞ」
「……うん、ごめん。毎日ありがとうな」
 華雄とは共に出撃したしょっぱなに気を失って心配かけているし、懸命に護衛をつとめてくれているのだから、まずは感謝の言葉をかけるべきだった。反省。
「……ふん。賈駆たちを待たせているのだろう。急ごうじゃないか」
「ああ、そうだな」
 ほんの少し顔を赤らめた華雄を連れて、俺は改めて華琳のもとへと向かうのだった。

 謁見の間の一つ、芒種の間に華雄と共に入る。顎をしゃくる華琳の指示で、華雄が分厚い扉を閉めた。
「悪い、遅くなった」
 数段高くなった場所に座す華琳に手招かれ、(きざはし)の脇に立つ。
 呂布と賈駆は俺たちに対する形で、華雄は俺たちと賈駆たちの中間あたりの壁に得物をもたれさせて立っていた。武器を手放しているのは信頼の証だろうが、もし華雄と呂布が組み合うような事態が起きたら、それだけで俺たち周囲の人間は大変なことになるだろう。
 今のぼーっとした呂布を見ているとそんな危険性はありそうにないが。
「さて、一刀も来たことだし、話をはじめましょうか」
 華琳の言葉に、賈駆が眼鏡をきらめかせる。
「そこの北郷、この間襲われたそうね」
 うっ。賈駆ほどの謀士なら知っていてもおかしくないが、改めて指摘されると体が震えるな。
「あら、一応秘密にしていたのだけれど、さすがね」
 華琳も目をきらきらと輝かせる。こういう能力ある相手を見る時の華琳の目は、獲物を狙う猛禽類のように鋭く愉しげだ。
「それで、恋を護衛に売り込みに来たの」
 その言葉に、華雄の体に緊張が走るのがわかった。手はまだ握りこんでいないが、金剛爆斧の柄にかかっている。それに応じたか、呂布の手がなにかを探すようにさまよったが、帯剣を許されていないのを思い出したか、ぎゅっと拳をつくる。
「賈駆よ、まさか、我らだけでは足りないとでも言うつもりか? いかに貴様が顔なじみとはいえ……」
「ああもうっ、その早とちりの癖はいい加減なおしなさいよ! 恋も構えないの! 恋を護衛にってのはあくまで形式よ、形式。……実際は助けを乞いにきてるのよ。悔しいけど」
 ばたばたと慌てたように叫んでいた賈駆の声が沈む。肩までがっくりと落ちて、なんだか痛々しい。
「助け?」
 はぁあ、と大きく溜め息をつき、賈駆は姿勢を戻す。
「もう、華雄に持っていこうとした道筋全部ぶちこわされちゃったから、表向きの話はとっぱらって簡潔に言うわ」
 そうして、彼女は俺のことをまっすぐに見つめてきた。
「ボクたちの身を預かってほしいの。北郷一刀に」
 は? 呆然とする俺をよそに、華琳は愉しそうに声をあげて笑いだした。
「この孟徳にではなく、一刀に、ね」
 その反応に微妙な顔になる賈駆。俺の自失した様を見て、説明の必要があると思ったのか、手を組み直して話し始める。
「最初から説明するわね。洛陽にきてからしばらくしてから、朱里からの書簡が届くようになったの。蜀に帰って来ませんか、ってね」
「それって……」
「ああ、あんたが責任を感じる必要はないわよ。これは長安から移ったからではなく、蜀の内国事情でしょうから」
 俺が長安から無理に洛陽に引っ越しさせたことを気にしていると思ったのか、先回りして解説してくれる。さすが、このあたりは話運びがうまいなあ。
「桃香を中心とした蜀の国家体制がようやく確立した、と見るべきね」
 華琳が言い添える。
 国家体制って、劉備勢力は集結してからずいぶん経っていると思うんだけどなあ。
 その俺の疑問に対して、賈駆は丁寧に説明してくれた。
 彼女いわく、戦時中の蜀は寄り合い所帯でしかなかったという。馬一族は西涼のための腰掛けと思い、董卓たちは行きどころをなくしたから居ついているだけ、南蛮に至っては面白そうだから、そんな理由で劉備たちの下にいたのが実際のところだと。
 そのためか、国家の機構も寄せ集めで急造だったらしい。官僚組織も現地のものと入蜀以前にあったものとを適当につなぎあわせただけで、ろくに機能しないしろものだったとか。それを、人的資源――主に諸葛亮と鳳統だろう――で無理矢理まわしていたのだそうな。
 しかし、それも戦中は機能していた。外にわかりやすい敵――俺たちや、冥琳たちがいたからだ。
 三国に平和が訪れて、そこに綻びが生じたのは間違いない、と彼女は続けた。
 残る脅威は異民族だが、南蛮は取り込んでいるし、結束を促す敵はもういない。となれば、無理を重ねた機構は破綻する。それをなんとかつなぎとめ、劉備たちを中心とした国家につくりなおすのにこれまでかかっていたのだろうというのが彼女の推測だった。
「完全に桃香を中心とした集権型か、桃香、愛紗(あいしゃ)、朱里あたりを中心とした多頭体制かはわからないけれど、いずれにせよ、ボクたちを呼び戻しても揺るがないものができたんでしょうね」
「でも、戻りたくはないようね、その様子では」
「誤解してほしくはないけど、あの国はいい国よ。ただ、ボクは……ううん、ボクたちみんな、そういうことに巻き込まれるのはもうこりごりなの」
 賈駆の言う、『そういうこと』とは、政治的な駆け引きやなにやらだろう。
 彼女たちが蜀に戻れば、その涼州への影響力は侮れない。馬超、馬岱とあわせて、蜀の西方への進出を警戒せざるを得なくなるだろう。
 だが、それは、危うい賭でもある。駆け引きのために求められた地位は、駆け引きによって脆くも崩れ去る。賈駆や陳宮の智謀や呂布の武そのものを評価しての誘いではない以上、磐石の居場所をつくることはできないだろう。
 董卓さんも内政には腕があると言う話だけれど、それを蜀で生かすのは難しそうだ。
「それで、助けを、ということか」
 こくりと彼女は頷く。隣の呂布も同じ気持ちなのか、こくこくと懸命に頭をふっていた。
「無視し続けるってのは……無理かな?」
「無理でしょうね。国家という巨大なものに対してつっぱねつづけるというのはよほどの裏付けか胆力が必要なのよ。詠たちが平気でも、月やねねがまいってしまうでしょう」
 そう言われてみれば、厳しいか。
 俺は常に華琳の庇護下にいたからそういうプレッシャーも受けずに済んでいるしな。賈駆も放っておくと踏ん張るところまで踏ん張って倒れちゃいそうな気がする。
「でも、一刀に降っても、政治の舞台から降りられるわけではないわよ? いっそ存在を全て消してどこかで匿う手もあるけれど?」
「それも考えたけど、どうせなら、自分たちの居場所をきちんと作り上げたいとも思うの」
「蜀ではそれはつくれない、と」
「あの朱里よ? もう誰も入り込めないような体制を作り上げているに違いないわ。白蓮と桔梗も帰ったら唖然とするんじゃないかしら」
 そりゃ、諸葛亮だものなあ。隙があるとは思えない。
 魏の場合、余人が思うよりも遥かにシステムは柔軟だ。トップである華琳が人材好きなので、元がどんな出自だろうと能力さえあればどこでもやっていけるのだ。
 なによりも華琳が完全に頂点に君臨しているのも大きい。
 覇王の権能を冒せるものなど元よりいないのだから、誰がどこにいようとしっかり職責を果たしていれば問題は起きない。
 そういう組織だからこそ、俺みたいな器用貧乏のなんでも屋が出る幕もあるわけだけど。
「実を言うと、周瑜にも打診をしたのよ」
 賈駆は勝ち気な瞳をきらめかせて、そう言った。
「そうしたら、本気で呉に骨を埋めるつもりなら歓迎する、と言われたわ。ただし、涼州には二度と帰れないことを覚悟していただきたい、と。そして、もし、この大陸のためを思い、自由に動くことも望まれるなら、北郷殿をご検討してはいかがかな、ともね」
 冥琳もまた無茶を言う。俺を買ってくれるのは嬉しいが、買いかぶりすぎだとも思う。それほどのものだとは自分では到底考えられないのだが……。
「直接魏に参加するよりは、多少桃香たちの感情も……という計算も冥琳のうちにはあるでしょうね」
「そうね。それと、呉は基本的に誰もが文武両道を修めているべきだという感覚が強いからね。恋やボクみたいなのは、いまいち使いづらいんでしょ」
「ここにいると、癖があろうとなかろうと、色々言いつけられるがな」
 華雄がからかいまじりの口調で呟く。緊急事態だと、適性うんぬん言っていられないのはある。そして、なぜだか知らないが、俺は緊急事態に巻き込まれがちなのだ。
「とはいえ、魏はこいつを切り捨てられないし、こいつは人を切り捨てるなんてこと考えもしない。そうじゃない?」
「ずいぶん見込まれたものだな」
 正直、俺が華琳の迷惑になるようなことがあれば――もちろん、そんな事態が起きないよう努力するが――すっぱりと切り捨ててほしいと思っている。華雄や祭たちに苦労をかけることになるかもしれないが、民や華琳はじめ魏のためにならないならば……。
「あの討伐行で判断したのよ。こいつなら、涼州への影響力を手に入れても変なことを考えたりしないだろうってね。それに実際、黄権……いえ、黄蓋を手に入れてもそれを利用して呉を崩そうだなんてしていないようだしね」
「過去の名声や政治力を全て無視して、まっさらな己そのものを評価してくれると踏んだ、というところかしら?」
「なんかその表現って……。まあ、間違ってはいないわね」
 微かに顔をしかめた賈駆は、諦めたように肩をすくめた。
「どう? お望みなら、黄権のように名を変えてもいいわ。ねねはまだまだ甘いところはあるけれど、知識だけならあんたには負けないでしょう。ボクの手際はこの間見知ったし、恋の武威は目の当たりにしたわよね。月は……あの子は、また侍女をやりたいなんて言っているけど、ボクとしてはなんとも言えないわね」
 呂布と賈駆はじっと俺を見てくる。いや、華琳と華雄も含めた、この場にいる四人の女性の視線を、俺は一身に受けていた。
 華雄は期待を込めて。華琳はおもしろがるように。賈駆と呂布のそれは……。
「わかった。俺でよければ引き受けさせてもらうよ」
 すがりつくような目をされたら、断ることは俺にはできない。賈駆と呂布が安堵か、今後のことを思ってか、そろって大きく息を吐く。
「ただ、俺は呉に大使として赴くことになっているんだ。呂布の家族たちはどうする?」
「それは……」
「まずは、詠が描いた計画通り、呂布を護衛に雇うことにしなさい。犬猫はねねにこの城内に連れてこさせて秋蘭の猫といっしょに面倒を見てればいいわ。半年くらい我慢できるでしょう?」
 澱みなく華琳が指示を下す。これは、ずいぶん前から賈駆たちを取り込むための段取りができていたな。
「……ねねがいいって言えば、それでいい」
 呂布は詠のほうをちらと見てからそう答えた。
「月と詠は、まずは一刀の侍女として呉へ赴く一行に紛れなさい。一刀に降るにしても、朱里の目から一時隠れてからのほうが都合もいいでしょう。戻ってきたら軍師として働けばいいわ。どう?」
「ん……さすが曹操ね。ボクの立てた策と九割方同じとはね」
「どんな道筋を通るにせよ、本気で取り組めば答えにはいつかたどり着くものよ」
 その言葉を聞いて、賈駆はにやりと頬を歪ませた。
「それが犠牲を強いる道筋でも、ね。いいわ、置いてくことになるねねには確認しないといけないけど、それで大方納得するわ。……で?」
 なんだか謎めいたことを言った後で、焦れたように俺に目線を送ってくる賈駆。
「ん? ああ、今後ともよろしく」
「ばかっ。違うでしょ。臣従の礼をいつ取ることにするかとか、俸祿をどうするのかとか……」
 桂花は極端だが、軍師というのは全体的に頭の程度が良すぎて、相手が理解していないと怒り始める癖があるのではないか。
 俺は賈駆の罵倒を聞きつつそんなことを考える。
「賈駆よ」
 だんだんっと地団駄踏んで力説する賈駆に、華雄が含み笑いで話しかけた。
「この主はそういうことには無頓着すぎて話にならんぞ。なにせ我らは決まった俸給もなく、ただ、戸棚の鍵を渡されるだけだからな」
「は?」
 華雄の言うことが理解できなかったようで、ぽかんと口をあける賈駆。その隣で、同じように呂布が小首をかしげている。
「一刀ってば、私が下賜する品や金銭を全て私室の戸棚に放り込んでるのよ。で、祭や華雄、張勲たちはその戸棚の鍵を渡されてるってわけ」
「邸とか、個別のものはちゃんと用意をするよ」
 それに、俺とは無関係の魏や漢の官位からもたらされる祿は管理下にないしな。実を言うと、祭などはかなり高い漢の官位を改めて取得していて、そこからの給金もかなり多いと思う。正式には俺より偉いんじゃないかな。
「ちょ、ちょっと待って。それじゃ、全部持ってかれてもおかしくないじゃない。誰が盗ったかすらわからないってこと?」
「宝剣とかの類は、さすがにそこには置いてないけどな」
 せっかく華琳がくれたものだし、そのあたりは共有するのは躊躇われる。
 賈駆は俺を穴があくほど凝視していたが、華雄に近づくと、真剣な顔で話しかけた。
「ねえ。華雄。こいつすんごいずれてる気がするんだけど」
「諦めろ」
 それ以上はあまり聞こえなかったが、なんだかひどい言われような気もする。それでも、なんとか納得がいったのかなんなのか、賈駆はしかたないというように小さく溜め息をついた。
「わかった。とにかく、ボクは一度邸に戻るわ。恋はこのまま護衛につくということでいい?」
「……ん、わかった」
「ああ、董卓さんたちによろしくな」
 彼女は俺の言葉を受けて、腰に手を当てて胸を張って見せた。強い光を放つ瞳が、俺のことをじっと見つめる。
「ボクの真名は詠。あんたに預けるわ」
 その宣言の意味をもはや間違えることなどできるわけもなかった。

 恋――呂布も真名を許してくれた――がシフトに入ったおかげで、護衛には常に二人がつくことができるようになり、また、だいぶ警備を厳しくしたこともあって、俺は以前よりは自由に動く事ができるようになった。
 生活空間は華琳の私室から、新たに用意された部屋に移り、仕事もそこですることになった。少々変わっているのは、その部屋に麗羽や美羽たちも一緒に入れられていることだ。
 いや、逆か。袁家のために用意された部屋に俺が参加することになったのだ。
 もはや勝手知ったる仲の面々だけに気は楽だが、やはりこの面子は少々騒がしい。しかし、その騒がしさが、ともすれば鬱々としかねない俺の気持ちを和らげてもくれるのだから文句を言ったらばちが当たるだろう。
 とはいえ、麗羽と美羽が喧嘩をはじめるとそんなことを言ってもいられないのだが。
 今日は、そんな喧嘩の後、お互いに冷却期間を置かせるために美羽を街に連れ出していた。実を言えばそれを口実に俺自身が街に出たかったというのもある。
 幸い、洛陽の城下であれば――華雄と恋の護衛と、さらに陰には明命の監視があることを条件に――出歩くことは許されたので、本当に久しぶりに街で買い物などしていた。
「あ、あれ、お嬢様?」
 七乃さんの声に顔を上げれば、先程まで俺の横で雑貨をいじっていた美羽の姿がない。
「なっ」
 小さく声をあげると、くいくい、と袖を引かれた。その方向へ体を向けると、恋が方天画戟の石突きを掲げていた。ぷらぷらとセキトを模した根付が揺れる。
「……あそこ」
 その先に、とろけた蜂蜜のような金髪があった。頭巾を深くかぶった旅人らしき人物の前で、その人の頭巾の奥を覗き込むようにしているのは紛れもなく美羽だ。
 旅人は彼女の視線をよけようと、あっち向いたりこっち向いたりしている。
「美羽、なにしてるんだ。こっちおいで!」
「お嬢様っ」
 七乃さんがたたっと走り寄り、ぺこぺこ頭巾の人に頭を下げて、美羽を抱き留める。
 俺も駆け寄りたいところだが、華雄と恋ががっちりと脇を抑えているので、そういうわけにもいかない。この二人が動こうとしない以上、危険はないと思っていいのだろうけど。
 じたばたともがきつつも七乃さんに連れられてこられた美羽の手をしっかりと握る。
「だめだろ、離れちゃ。危ないよ」
 素直に手を握られ、俺が促す方に喧騒の中を歩きつつ、美羽はちょっと唇をとがらせる。
「んー。じゃが、ありゃ、伯符じゃぞ」
「え?」
 予想だにしていなかった名前を聞き、さすがに足を止める。美羽が伯符というのなら、つまりは孫策、すなわち、三国の一角呉を治める女王ということだ。
 振り向けば、予想外に近く、その頭巾の人物は居た。距離から考えて、美羽を追って近づいてきたとしか思えない。さりげなく、華雄の得物が俺たちとその人との間に入り込んでいるのが恐ろしくも頼もしい。
「迂闊だわー。まさか袁術に見破られるとはねー」
 そう言って頭巾の奥から微笑みかけてきたのは、間違いなく冥琳の盟友にして主、この洛陽にいるはずのない雪蓮その人だった。

 しばし後、俺たちは冥琳の執務室で顔をつきあわせていた。
 いるのは祭、華琳、冥琳、雪蓮、それに俺、という五人。警備の空き時間で眠っていた祭は多少不機嫌そうだったが、酒を勧めるとそれも解消された。
「さて、そろそろ聞かせてもらいましょうか」
 お互いの健康を確認したりのたわいない会話の狭間に、不意に華琳が言う。いまは彼女もとっておきの酒を持ち込んでおり、俺もその御相伴に預かっていた。
 なぜよりによって大使の執務室で酒宴かというと、酒が無ければ気分がのらないと雪蓮が強く主張したからであり、なおかつ外に漏らしてくれるなという要請もまたあったからである。冥琳も最初は渋い顔だったが、雪蓮に何事か耳打ちされて納得したようだった。
「んー、なにをー?」
「あなたがここにいる理由よ」
「ああ、簡単よ。そろそろ引退しようかと思ってさ」
 その言葉を聞いて、飲んでいた酒がどこか変なところに入ったのか、げほげほとむせる。祭がすかさず俺の背を優しくなでてくれる。
 しかし、驚き苦しんでいる俺をよそに、他の四人はいたって冷静に見えた。
「そう。蓮華に譲るのね」
「うわ、華琳てば驚かないの。つまんなーい」
 口をとがらせて抗議する雪蓮に、華琳はにこやかに笑って見せる。
「だって、本気なんでしょう?」
「ええ」
 俺の咳き込むのがおさまったと見た祭が、酒杯を置いて立ち上がり、雪蓮に礼を取る。
「おめでとうございまする。ついにこれにて文台様がお建てになった呉は終わり、新たな呉が生まれましょう。よくぞ覚悟なされました」
 それまで酒に口をつけなかった冥琳が、一気に杯をあおり、深く椅子に体を預けた。
「もちろん雪蓮がそうするとなれば、私も退く。祭さまももはや呉にはおられず、まさに新たな呉だ」
 その声が疲れ切っているように聞こえたのは、俺の聞き間違いではあるまい。華琳は冥琳をちらとみると、からかいや侮蔑ではない、心からのねぎらいの笑みを浮かべた。
「継がせるべき相手がいるのだから、あなたたちは幸せよ」
 沈黙が落ちる。
 しばらくして、華琳の言葉を噛みしめていたのか瞑目していた雪蓮が目を見開く。すると彼女は普段通りの、飄々とした笑みを取り戻した。
「まあ、いますぐとはいかないわ。半年、いえ、あと一年かな。どう、冥琳」
「一年はほしい」
「ですって」
 からからと笑う雪蓮に苦虫をかみつぶしたかのような顔の冥琳だったが、やがて苦笑まじりの穏やかな笑みへと変わっていく。
「では、冥琳は呉に返さないといけないわね。大使として引き止めておくわけにもいかないでしょう」
「いや、華琳殿。あと半年は私は洛陽にいるつもりだ。内部で動けば動きが読まれやすいが、ここならば探られもしまい。細かいところまでしっかりお膳立てをして、戻って一気呵成に仕上げるというのがいい。その間、祭さまにもお手伝いをしていただきたい。外側の視点も持つ人間として」
 冥琳の言葉に、祭は声をあげて笑う。だが、その瞳に少し寂しそうな色が浮かんでいるのを俺は見逃さなかった。
「ほっ、人遣いの荒い。周家のご令嬢は、外に出ても儂を遣い倒すおつもりじゃ。……とはいえ、文台様へ果たせなかったご奉公の分は手を貸さんとのう」
「よろしいかな、一刀殿」
「祭が了承するならそれはいいんだけど。ただ、その、なんで急に引退なんて?」
 国主が引退して妹に国を譲るなんてよほどのことだ。体が弱くて政務ができないとか、歳をくって頭が働かないとかでもないというのに。
 なにしろ、目の前にははち切れんばかりに魅力にあふれた成熟した肉体が……おっと、華琳の目が細まったぞ。
「あら、急じゃないわよ。成都陥落以来ずっと考えていたもの」
 事も無げに言う雪蓮。それに対して祭は昔を思い出すように、遠い目をしていた。
「呉は負けた。負けたのじゃ。旧き世代はその責を負わねばならん。策殿はその任を全うされるために、戦後苦渋の中で過ごされておられたことじゃろう。そろそろ新たな世代へと引き継いでもよろしい時期じゃ」
 ぎゅうっと握りしめられている拳に、ゆっくりと手を置いてやる。はっと気づいたように祭は俺を見て、一瞬泣きだすかと思えるほどくしゃりと顔をゆがめた。
「大陸制覇のための集団から、統治するための国へと変わるというのは、実に難しいことなのよ」
 だから、勝たなければならなかった。と華琳は呟く。
 俺は詠から聞いた蜀のことを思い出した。これもまた戦乱の爪痕と言えるのだろうか。
 いずれにしても、雪蓮と冥琳は戦乱の時代のための呉に幕を下ろすつもりらしい。その理屈は頭ではわかるが、よほどの決意がなければできないことだ。二人を尊敬する要素がさらに増えた。
「……山越の問題もある。私や雪蓮はあやつらに憎まれすぎているからな。締めつけの時期はもうしばらく続こうが、蓮華様なら上手くやってくださるだろう」
「穏や亞莎はちょっと頼りないとも思うけど、上がつっかえてると伸びるものも伸びないしねー」
「でもさ、引退して二人はどうするの?」
 この二人ほどの才能が埋もれるのはもったいなさ過ぎると思うのだけれど。いっそ祭みたいに……とも思うが、さすがにそんなことは望めないか。
「冥琳と二人で諸国漫遊世直しの旅~」
 なんか、どこかで聞いたことある話だな。印籠でもつくるのかな?
「ってのも考えたけど、贋物騒ぎとか御家騒動起こされても困るしね。まあ、そのあたりは……ね」
「もうしばらく見極めなければな」
「ゆるりとお決めなされ」
 祭、冥琳、雪蓮の三者の間で何事か目配せがかわされる。さすがにこの三人の間に割ってはいることは不可能だった。
 華琳がぐいと杯を干した。雪蓮と目線をあわせ、張りのある声で宣言する。
「一年。その間はなにも起こさないようはかるわ。あなたがわざわざこちらまで出向いてくれた礼に、ね」
「ありがと。そのかわり、一刀たちはちゃんと歓待させてもらうわ」
「あたりまえよ。冥琳だってこちらでの待遇に文句はないはずよ?」
「明命がすっかり一刀殿の護衛に駆り出されていることくらいだな」
「おや、それはお主からぜひにと言い出したことではなかったか?」
「さ、祭さま、それは秘密だと、あれほどっ」
「あらあらー、冥琳てば赤くなっちゃって、公私混同はいけないんだー」
「どの口で言うかっ」
 わーわーとかしましく騒ぎあうみんなを見ているとなんとなく嬉しくなって、俺は一人杯を重ねるのだった。

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