洛陽の巻・第十四回:北郷、刃にその身をさらすこと

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「そういうわけで、真桜と俺が呉に派遣されることになったんだ」
 俺はそう言って、卓の向こうの冥琳に説明を終えた。彼女は顔をほころばせると、眼鏡の奥で瞳をきらめかせる。
「それはめでたいこと。李典殿と一刀殿の大使就任については本国に打診をしておきましょう。問題なく受け入れられるはず」
「ありがたいな。稟の代わりが務まるとは思えないけど、二人で精一杯がんばるよ」
 これで一安心だ。いかにこちらが決定しても、呉が受け入れないと表明したら、人選は最初からやり直しになってしまう。蜀に秋蘭を送るのだから春蘭を送れ、となってもおかしいことはないのだ。特に呉は三国で二番目に力を持っているのだし。
「祭さまはどうなさると?」
「いや、それが行きたくないらしい。物見遊山ならともかく仕事で行くのは勘弁してくれ、と」
「はは、あの方らしい」
 ひとしきり笑った後で、冥琳は顔を引き締める。こういう表情をすると、なんとも凛々しい。つい見とれそうになるくらいだ。
「実際のところ、祭さまは複雑な御立場になりますからな。一刀殿への影響等も考えて今回は避けたというところかと」
「そうなんだよな。祭だって帰りたくないなんてことはあるわけないしさ。とはいえ、気を遣わせる結果になるのに無理強いするのもな」
 ふっと自嘲の笑みを浮かべる俺を、冥琳は訝しげに覗き込んでくる。
「もっと……戦の後始末も何もかも終わったら、祭を呉に連れていってやれるかな、って思ってさ」
 今は無理でも、いつか……なんのわだかまりもなく、祭や俺や他のいろんな人が、いろんな場所を訪れることができる、そんな世の中にすることは不可能じゃない。俺はそう希望を持ってその言葉を発した。
「その時は、この私が案内を任されましょう」
 冥琳の返事は、ふざけているとは思えないほど、真剣な調子を帯びていた。はっと身を引き締めてしまうくらいに。彼女ほど、俺が夢想することの難しさに直面している者もいまい。
「そんなわけで、祭抜きの俺じゃあ、あんまり価値ないだろうけど許してほしい」
 冥琳の瞳が揺れる。何事か言おうとして、やめたかのようだ。しばらく黙った後、彼女はふと笑みを浮かべた。
「そのあたりも私としては承知としましょう。後は雪蓮の判断となりますが、十中八九問題にはならないかと。華琳殿には正式にそのように伝えましょう」
「ああ、頼む」
「では、仕事の話はひとまず終わりますかな。改めて、お祝いを申し上げる。お子さまが生まれるとはなんともめでたい」
 卓の向こうで、茶杯を掲げる冥琳。
 時間は遅いが、まさか大使の執務室で酒を酌み交わすわけにはいかない。俺も同じく置かれてた茶杯を手にとる。桃の花が描かれた、可憐な杯だった。冥琳の持っているのとおそろいらしい。
「うん……。まずは無事生まれてほしいね」
「とはいえ、個人的には……そう、あなたの女の一人としては、少々思うところもないではありませんがな」
「えっと、それって……」
 ちょっと意地悪な顔をして、冥琳は俺を眺めている。
「まさか、子を孕む覚悟がなくて、あなたに抱かれたとお思いか?」
 どきりとした。眼鏡の奥から見上げてくるような瞳に心臓が刺し貫かれたようだ。
「女が身をゆだねるということは、そういうことでもあると忘れてはなりません。殿方は、だいたい己の子の姿を見るまでは実感できないようですが、女子はもっともっと前から覚悟をするものですからな」
「その、俺は……」
 おずおずと言い出そうとすると、途端に冥琳が悪戯っぽく笑みを浮かべた。
「いや、これは苛めすぎですかな。私とて、嫉妬という感情はあるということでご勘弁願いたい」
 ぱたぱたと手を振って、それまでの雰囲気を振り払うようにする冥琳に、俺は喉につかえていた言葉をなんとか形にする。
「大きなことは言えないけど、その、ただ一つわかってほしい。俺は大事な人たちに、本気で対しなかったことなんてない。それだけは誇れることだと思ってる」
 もちろん、男と女では意識に差があるのはわかる。しかし、それでも力及ぶ限りは、俺は俺の全てをぶつけているはずだ。とはいえ、俺自身がまだまだ力不足なところはあるのは間違いないが……。
「そういうあなただから……」
 とろけるような笑み。冥琳の少女の部分がかいま見えるこの瞬間を、なによりも大切だと思う。
「別に順番を競っているわけではありませんからよろしいが、私も一刀殿との子を持ちたいと思っておりますぞ」
 まっすぐに俺を見て、そう言った後で、冗談めかして続けた。
「案外、三国の平和は一刀殿のお子が担ってくれるかもしれませんな?」
 た、たしかに、三国に子供ができそうでは……ある。
 俺は背中に冷や汗が流れるのを感じていた。

「明命に避けられている?」
 しばらく話を続けた後で、明命のことについて相談してみた。俺が呉に行く前に、彼女とのわだかまりも解消しておきたい。
「うん。どうにかならないかな」
 すっと目を細める冥琳。彼女は卓に身を乗り出して、俺の顔を覗き込んできた。
「一刀殿、あなたは我々が政の世界に生きていることはご承知でしょうな」
「あ、うん」
「各国の要人は、その国内でも国外でも、身辺を探られる。これは当然のこと。そして、一刀殿、あなたは間違いなく魏の要人」
「そ、そうなのかな。俺なんて……」
「神算の士郭嘉と子をつくり、覇王曹操の愛人でもある一刀殿が要人ではない、と」
「ご、ごめん」
 低い声で言われて、思わず謝ってしまう。冥琳は体を戻し、深く腰掛けなおした。
「これは冗談……。だが、あまりご自分を卑下なされない方がいい。いずれにせよ、あなたの身辺は我らも探っている。これは、個人では止めようがないこと。どうかご理解を」
「うん、それはわかっているよ。たぶん、桂花か誰かが冥琳たちのことだって探っているだろうし……」
 そのあたりは、個人のつきあいと国家としての安全対策を切り離して考えないといけない。そう考えると、一挙手一投足が注目される華琳の気苦労が忍ばれる。
「で、ありましょうな。さて、明命は呉において、潜入、調査を掌握する立場にある。つまり、あなたの女性遍歴はとっくに承知の上」
「あ、そっか……」
 ということは明命が俺に対して女性関係で幻滅したというのは思い込みだったのだろうか。では、別の理由で避けられているということか?
 うう、困ったな。
「それに、あの娘が本気になれば、私や祭さまとて捉えきれぬでしょう。遮蔽物も多い城中で、一刀殿が隠形に気づくと思われるか?」
「それは……無理だな」
 明命は直に相対している人間にも、印象を残さずにいられるような達人だ。俺ごときが気づけるはずがない。
 あれ、じゃあ……。
「明命が避けようと思ったなら、一刀殿、あなたは気づかぬまま終わるはず」
「……だったら」
「そう。意識的にせよ、無意識にせよ、明命はあなたを避けているのではなく、近づこうとして踏み出せないでいるだけでしょうな」
 俺の疑念を、冥琳が形にしてくれる。どうやら、明命に嫌われたというわけではないらしい。
 だとしたら……。俺は深く考えに沈んでいく。
「ふふ。これ以上を私の口から言わせますまいな。嫉妬の種をさらに増やすおつもりか?」
 思考の流れを断ち切るように、冥琳のからかうような声が響く。いつの間に俺の背にまわったのか、二本の腕が、肩から胸にまわされ、顔の横に冥琳の頭があった。もちろん、背中には大きな圧迫感。かぐわしい香りが思考をさらに鈍らせる。
「め、冥琳」
 俺の事をじっと見つめていた眼がすっと閉じる。導かれるように、その唇に己の熱くなった唇を重ねる。
 ぴちゃ、ぬちゅる……。
 どちらからともなく開いた唇の間で、お互いの舌を絡ませあう。冥琳の手が、俺の顔の形を確かめるように愛撫する。俺は、少し悪戯心を働かせて、彼女の耳を両手でふさいでやった。頭蓋に、なめさすり唾液をぬりつけあう音が響いたのか、びくりと一度体を震わせたものの、俺のなすがままになる冥琳。
 舌と舌、舌と口内がこすれあう感覚と、唾が混じり合う熱、それらが織りなす音に夢中になった彼女を、もっと夢中にさせたくて、にちゃにちゃとわざといやらしい音をたててやる。
「はぁ……ふっ」
 頭をふって、冥琳がその状態から逃れる。嫌がっているというのではなく、耐えきれなくなった、という感じだ。
「これ以上は……やめておきましょう。我慢できなくなります」
「我慢しなくたって……」
 かすれた声で呟くと、寂しそうに微笑まれた。その笑みを見ると、さすがに何も言えなくなった。
「ここは、仮にも仕事場……」
 冥琳は俺から手を離し、それでもお互いの肌の温度を感じるくらいに近くで何度か咳払いをして、普段の調子を取り戻そうと努力する。
「明命をよろしくお願いします」
 すっと頭を下げられた。
「あれは不器用な娘です。ですが、あれほどまっすぐな娘はいない。それが、いま一刀殿と明命が悩んでいる原因でしょう。それを忘れぬよう」
 そう言うと、冥琳は、謎めいた笑みを俺にくれたのだった。

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