洛陽の巻・第十三回:曹孟徳、世界を手に入れること

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 目の前に壷がある。
 素焼きの壷に粘土の封印。乾燥した粘土はがっちりとその中身を覆っていて、手を出すにはそれを割り砕くしかない。
「ま、悩んでいても……」
 持ち上げ、封印部分を思い切り卓の角に叩きつける。がつり、と音がした後、ぼろぼろと崩れていく粘土をどけ、中から取り出したのはこの時代には似つかわしくない代物――冊のシステム手帳だ。
 埃拭って、中身を見ずにそれを懐に入れる。ぱんぱん、と服の上から存在を確認するように叩いた。
 部屋を出ると、すでに夜は明けかけていた。
 曙光が強く差し込んで、眼にしみる。
「さて、華琳は起きてるかな」
 華琳の私室への通路はどこも、数多くの親衛隊の警備兵――美少女揃い―が控えているが、俺はフリーパスだ。
 さすがに帯剣して私室に入れるのは春蘭、秋蘭、それに親衛隊長である季衣と流琉だけだから、俺も武器は帯びていないが、改めてチェックされるということもない。
 しかし、本当に美少女ばかりだな。華琳の趣味で選んでいるのだろうが、親衛隊に選ばれるくらいだから文武に長けているのは間違いないだろう。将来の幹部候補生たち、というわけだ。
 この世界は、俺の知っている世界に比べて、女性が社会へ関与する度合いが非常に高い。
 三国のトップがそろって女性なのだから、それもあたりまえなのかもしれないが、男性しか政に関われないような社会では埋もれていたはずの人材を活用することが可能となるのはいい効果だ。
 宦官を追放できたのも、宮中で働く女性人材を確保できるという目論見あったればこそだし。
 華琳の部屋に行き着く前に、おそらくはそこから出てきたのであろう秋蘭と行き当たった。昨晩は、秋蘭とお楽しみだったか。
「おや、ずいぶん早いな」
「ちょっと華琳に話がね」
「そうか……しかし、華琳様は姉者と一緒に夢の中だ。昨夜は遅くまで仕事をなさっておられたのを我らが無理に閨に誘ったほどだし、もうしばし寝かせてさしあげたいのだが……」
 少し戸惑うように視線をさまよわせる秋蘭。その先には華琳の部屋がある。華琳の体も心配ではあるが、俺の用事が大事ならば取り次がぬわけにもいくまい、という困り具合が秋蘭らしい。
「そっか、じゃあ、しばらく散歩でもしない? 秋蘭」
「一刀とか?」
 少し驚いたように言う秋蘭。
「うん、忙しいなら……」
「いや、そんなことはない。そうだな、歩こう」
 そう言うと、秋蘭は先に立って歩き始めた。

「二人きりで過ごすのは久しぶりじゃないか?」
「あー、そういえばそうか。秋蘭はいつも春蘭と一緒だからな」
 二人で早朝の庭を歩く。園丁の人達が、忙しそうに水をやったり、のびすぎた草を刈り込んだりしている。
「そうだな、姉者の側が一番落ち着くからな。華琳様のお側に姉者と共にあるのが我ら姉妹の有り様なのさ」
「そうかもな」
 妙に納得する。春蘭と秋蘭は、華琳の側になくてはならないものだ。ただ、気をつけてやらないと、華琳も秋蘭も根をつめすぎてしまうからな……。春蘭の無限の体力は置いておいて。
「とはいえ、しばらくは姉者とも離れるがな」
「ああ、蜀へ行くんだったっけ」
 冥琳や明命、伯珪さんに桔梗が魏に大使として赴任しているように、魏からも協力体制を強化するために大使を送ることになっている。秋蘭が蜀へ、稟が呉へ赴く予定だ。
「しかし、秋蘭は魏の柱石だろう。長い間国外に出していいのかな」
 秋蘭の冷静さや老獪さは他に代えがたい。呉に赴く稟の能力を国外に止めるのも痛いが、彼女は元々異民族対策を主としているため、呉で越族の実態を調査するなど得られるものも容易に想像できる。一方で蜀への秋蘭派遣は、牽制の意味が強いように思う。
「華琳様は、呉よりも蜀を警戒しておられる」
 余人に聞こえないよう、低い声で俺に囁く秋蘭。
「呉は大使として、あの周瑜を駐留させている。周瑜に変わる前の内諾では孫権。いずれにせよ、国の重鎮中の重鎮だ。一方、公孫賛、厳顔の二人は武将として名は知れているが、蜀に参陣したのは後になってから。魏への信頼度合いで言えば、大きく水をあけているようにしか思えまい」
「軍師の性格の違いのような気もするけどね」
 そもそも宿将といえる将が義姉妹の二人しかいない蜀では、信頼度合いを示すのも大変だ。とはいえ、呉と比べるとアンバランスさが目立つのは否定しようがない。
 このあたり、軍師の後継として陸遜、呂蒙がおり、孫家という確固とした存在がある呉と、伏竜鳳雛と桃園三姉妹、どの人材が欠けても国家経営に困難を生じる蜀の構造的な違いでもある。
 呉の信頼に関しては、祭が洛陽にいるということも大きく関わっているにしても、だ。
「しかし、それが己の首を絞めている。華琳様は、公孫賛が正使と聞いて、孟獲も招くことを決めたのだからな」
「ああ、そうだったんだ。それは知らなかったな」
 孟獲……というよりは孟獲ちゃんと呼びたくなる愛らしい生き物は、南蛮を代表する立場で魏に駐留している。
 実際は美味しいものをたらふく食べるためにいるような気がしないでもないが……。
 ともあれ、彼女は蜀のさらに南を支配する立場で、蜀に服属しているはずなのだが、華琳が彼女も招聘することに決めてしまった。これは南蛮を三国に並ぶ一つの独立地帯だと認めたに等しい。
 もちろんそれは蜀の南方交易への影響力を大幅に削ぐ結果となる。
「孟獲本人にその意図がどれほど伝わっているかはわからんが。諸葛亮あたりは、臍を噛む思いだろうな」
「孟獲ちゃんも軽く了承しちゃったろうしなあ」
「華琳様はかなり本気で大使制度を活用しようと思っておられたからな。邪魔者を押しつけるような人選に怒り心頭だったのだろう」
「伯珪さんや桔梗は邪魔者なの?」
 蜀における桔梗たちの地位っていうのは、どんなものなのだろう。蜀の人達とは、いまだにあまり接触する機会がないのが残念だ。祭や美羽のおかげで呉とは関わりが深いんだけど。
「公孫賛はもとはといえば、劉備を庇護していた立場だ。それが国家を再生する時期にいられては、劉備の地位が少々……。まあ、これはおそらく諸葛亮の気のまわしすぎなのだがな。伯珪殿はそのようなこと考えられまい。しかし、一度抱いた疑念は晴れない。結局、厳顔をお目付役に大使とした、といったところだろう」
「うーん」
「伯珪殿も厳顔も、貧乏籤をひかされたわけだ。そして、大使を貧乏籤とした諸葛亮が、より大きな貧乏籤をひいたわけだな」
「難しいね」
「そうだな」
 辛気臭い話はこれくらいにしよう、と秋蘭は肩をすくめた。
「桔梗といえば、すっかりやりこめたそうだな」
 さすがは同じ弓将として興味があるのか、目を輝かせて聞いてくる秋蘭。
 普段は何事にも動じないから、こうして身を乗り出して迫られるとちょっと怖い。ただでさえクールビューティなんだから。
「まぐれだよ、まぐれ。それに指揮官としては……」
「うむ。確かに、一軍の将としては褒められた行為ではない。今回は厳顔に非があるにせよ、味方を背後から襲った、と言われては一刀の名にも傷がつくしな」
「俺の名前なんていくら傷ついてもいいけどね」
「北郷!」
 びりびりと空気が震える声で怒鳴りつけられる。耳に近かったせいか、頭にきーんと響いた。
「貴様の名が傷つけば、それを盟友とする華琳様の御名が傷つくとなぜわからぬ! そのように軽々しく言っていいことか!」
 秋蘭の大喝が庭に響き、園丁がさぁっと汐が引くように姿を消していく。
「それに! お前の名が傷ついて、魏の重鎮で心を痛めぬ者がいると思うか。華琳様はじめ、我ら全てがそのことに憤激するだろう。いや、魏だけではない、呉や蜀の中にもそのような者に負けたのか、と落胆する者が出るに決まっているではないか」
 はぁはぁ、と肩で息をするほどの興奮は、いかに彼女が俺の言葉にショックを受けたかを物語っていた。
「ごめん……。軽率だった」
 心の底から謝る。いま、自分は本当に考えなしで言った。そう思えたからだ。
 他人にどう思われようと自分の中で高い誇りを保つとかそんなことも考えずに照れだけで言ってしまった。その軽さが、彼女には許せなかったのだ。
 俺が頭を下げるのを見て、秋蘭の表情が和らぐ。嫌な役目を押しつけてしまった。
「その……言いすぎたかもしれんが、しかし……」
「うん、わかってる。秋蘭、ありがとう」
 謝罪の意味を込めて、精一杯の笑顔で礼を言う。俺を見つめる秋蘭の顔がわずかにほころんだ。
「う、うむ。そうだ。少し手並みを見せてもらおうかな。桔梗と対したなら、一刀の腕も格段にあがっているだろう」
「えー。どうだろうなあ。それは……まぐれだと思うけどなあ」
 そう言いながら、俺たちは練兵場へと向かった。

「うーむ」
 とりあえず十射してみての秋蘭の感想はそんなものだった。
「確かに腕は上がっている。実戦を経験し、それをものにしているようではあるが……」
 俺に矢をつがえずに弓を引かせ、四方から観察する秋蘭。
「矢を持っていると思って引いているな?」
「ああ、もちろん」
 矢がなくとも、それをイメージして弓を引くことは何度もしている。普段の俺の打ち方と相違はないはずだ。
「やはり、桔梗に勝てるほどとは……」
「言っただろ、まぐれだって」
「二射まではいい。桔梗も背後からの矢には油断していただろうし、対応をとれなかったろう。だが、三射か……」
 ぶつぶつと呟きつつ、俺の姿勢をチェックする秋蘭。不意に体に触れてくるものだから、どきどきする。
「うむ。休んでいいぞ」
声に応えて弦を戻す。彼女の顔を見るとなんだか複雑そうな表情をしていた。
「なにかわかった?」
「ああ。さっきも言った通り、一刀は強くなっている。今後も鍛練を重ねれば、いいところまでいくだろう。だが、いま再び桔梗とやれば、負けるだろうな」
「そんなところだろうなあ。しかし、戦場のあれはなんだったんだろうね」
 秋蘭の評価は正直嬉しかった。やはり、強くなっていると言われるのは喜ばしい。しかし、桔梗に勝てるほどでもないというのも確かなところだろう。彼女は俺をじっと見て、なんだか深く考えに没頭しているようだった。
「そういう……時がある。まさに天命を得た瞬間というものが」
 どこか遠い眼をして、彼女は語る。秋蘭もまた、天命を受けた瞬間があったのだろうか。
「……それは人の一生の中で一度あるかないかというところだろう。だが、天に愛された者ならば、二度、あるいは三度引き寄せられるのかもしれん」
 天に愛された者、と聞いて、俺は即座に華琳のことを思い出していた。その事を素直に言葉にする。
「天に愛された者……華琳みたいな人のことだな。そうだよな、あいつは頑張り屋だから、神様もたまにはとんでもないものをくれてやらないと不公平だよな」
「いや、私は……」
 秋蘭が少し戸惑う気配がある。
「ん?」
「……なんでもない。いずれにせよ、今後はそのようなことはないと思ったほうがいい。己の身を危険にさらすようなことはしないでくれるとありがたい」
「うん、最初の大軍指揮で舞い上がっていたみたいだからな。今後は注意するよ」
 本当に心配してくれているのだろう。いつもより言い方が柔らかい。普段のきつい言い方だって、俺のことを思ってのことなのだが、こんな秋蘭もまた可愛らしい。
 そんな秋蘭と何を話すでもなく、寄り添って散策する。実は、戦の最中のほうが、こういうのんびりとした時間はよくあったのではないか。
 そう思い返したりもする。
 おそらく、戦場で荒んだ心をお互いになんとかしようと、皆ができる限り穏やかな時間を過ごすことに必死だったのだろう。
 そう考えると、意識せずにこうして二人歩いていられる今が、本当に贅沢に思える。
 ふと、後ろから足にまとわりつくものがあった。秋蘭と同じタイミングで足を止め、足元を見下ろす。
 ぬぁーん。
 間の抜けた声と一緒に俺を見上げる小さな頭が二つ。一つは俺、一つは秋蘭の足の間に入り込んでいる。
「おや、孝明に孝和」
 すりすりと頭を秋蘭の足にこすりつける黒ぶちの孝和。虎縞の孝明のほうは、足でがしがしと俺に昇ってこようとしている。
「なんだ、腹が減ったか? そうか、そんな時間か。よし、一刀、華琳様も起きていらっしゃるだろう。そろそろ行こうか」
 孝和を抱えあげる秋蘭と、孝明抱えあげる俺。二匹は俺たちの腕の中で、満足そうにごろごろと声をあげる。その声がなんだか妙に合わさって響くのが面白い。
「一つ聞いていいかい、秋蘭」
「なんだ?」
「猫に皇帝や皇后の名前ばかりつけるのは、朝廷へのいやがらせ?」
 孝明、孝和共に、後漢の皇帝の諡号のはずだ。はっきり言って、秋蘭でなければ、引っ立てられてもおかしくない。
「はっは、まさか。そんな桂花みたいなことをすると思うか? いい名前ばかりじゃないか」
 そう言いながら、秋蘭は片目を瞑って見せた。
 その朗らかな笑顔にそれ以上何も言うことは出来なかった。

 ひとしきり春蘭と秋蘭のいつもの漫才をみた後で、俺は華琳の私室に足を踏み入れた。
「早いわね、一刀」
 華琳は生まれたままの姿に薄衣一枚という格好で、卓に腰掛けていた。朝の光に、華琳の白い肌がきらきらと輝いて、目を奪われる。
「今日は行儀が悪いな」
「私室でくらい気を抜かせてくれてもいいんじゃない?」
「したければ、どこででもするくせに」
 彼女は笑う。覇王の笑みで。少女の笑みで。
「それはもちろんよ。私は曹孟徳ですもの」
 理由になっているのかいないのかよくわからないことを言う華琳。それでもそれが通ってしまうのが曹操という人間のすさまじさだろう。
「それで、今日は何かしら。この間の討伐の報告ならもう……あ、そうだ。桂花がぼやいてたわよ。絶対に勝てる勝負を考えついたのに! って」
「その前に、『あの全身精液の大馬鹿でも』とでもついていたろ?」
「あの子がなんにせよ言及する男なんてあなた一人よ」
 それは誇っていいのやら、悲しんでいいのやら。
 微妙な表情をしている俺をよそに、華琳は顔をしかめる。
「そっちは正直大した問題じゃないけれど、烏桓一部族を雇いあげるなんて、無茶をする。高くつくわよ」
「それに値するぐらいのものを持ってきたよ」
 懐からシステム手帳を取り出す。
「ん?……その本は、なに?」
「本じゃなくて、手帳。俺があっちで勉強したことを書き留めてきたり、あっちで出てる情報をまとめたものだよ」
 言いつつ手帳を開き、ぱちんとリングを開けて、リフィルを取り出す。
 独特な折り方で、開く時に引っ掛かりができないように畳まれたそれは、一枚の地図。広げるとA3の大きさになるはずだ。ああ、久しぶりだな、A判の紙を見るのも。
「そこ、いいかい?」
 華琳が座っている卓を指す。俺の行動に何か感じたのか、華琳の顔が引き締まっている。
「少し待ちなさい」
「ん」
 言い捨てて、俺の返事を待たずに、さらに奥の部屋へ立ち去る華琳。あちらは本当にプライベートな空間なのだろうな。
 俺は、一人卓に座って、地図の折り目をのばす作業に没頭する。もう一枚、システム手帳から地図のリフィルを取り出し、これも同じようにのばしていく。
 奥から戻ってきた華琳は完全に服を着込んでいた。様々な官位の象徴たる飾りやなにやらはつけていないものの、宮中で過ごす時そのままだ。珍しく、朱までひいている。いつも凛々しいが、やはり、こうしておしゃれをすると女っぷりが格別だな。
「また、今度はびしっとしてきたな」
「それだけの価値あるものを見せてくれるんじゃないの?」
「まあね。予想しているとは思うけど、地図だよ」
 一枚をつまみあげる。華琳の眼がそれに吸いよせられるように動く。
「あなたの世界の、ね」
「そうだ、俺の世界の全図だ」
 A3の表裏に、それぞれ北半球と南半球が描かれた地図だ。華琳はそれを俺から受け取ると、なにか恐ろしいものを見るかのように覗き込んだ。簡単に裏表の説明と、どちらが北か、縮尺はどんなものか、というようなことを解説してみせる。
 食い入るように見つめる地図を持つ華琳の指が、微かに震えていることに気づく。
「これが……世界」
「おそらく、こちらでも通用するはずだ。こちらの地図を見たけれど、それほど離れていないからな」
「私たちがいるのは?」
「このあたりだな」
 中国大陸を指す。さすがに洛陽の位置を正確に示せたりはしないが、黄河くらいは判別できる。この地図だとわかりやすいのは、北京――いまで言う薊と黄河、長江あたりか。
 華琳は無言だ。何度か裏と表をひっくり返して、全体像を浮かび上がらせようとしている。俺たちの世界では世界が丸い惑星上にあるということがそもそもの常識――とはいえ、実感があるわけじゃない――だが、この時代にそんな知識はないし、世界の広さそのものだって想像の埒外だろう。
「これが、世界……」
 もう一度繰り返し、華琳はごくりと息をのむ。
「もう一枚は、この部分の拡大図」
 同じくA3の表面に東アジア全体図が描かれた地図を渡す。世界地図に重ね、そちらをさらに目を皿のようにして凝視する華琳。
「漢の版図、示せる?」
「だいたいでいいなら。涼州がどこらへんまでとかはわからないぞ」
 言いながら、指で後漢の版図と思われるあたりをぐるりとなぞっていく。その指を彼女の視線が追っているのを感じる。
「海岸線は同じ……。いえ、でも、細かいところは違う……。いや、測量の……」
「これがそのまま使えるとは限らない。大規模な埋め立てとかがあったりするからな」
「でも、これはすごい……。文字はさっぱりわからないし、細部は詰めないといけないでしょうけど。……でも……」
 華琳は、ぶつぶつと俺には聞こえないくらいに早口で言葉を連ねていたが、一つ大きく息を吸い、吐き出した。
「一刀、なぜこれを、いま?」
「覚悟が決まった、というのかな」
 なるべく重くならないよう、けれど、軽薄には聞こえないよう、言葉を選んだ。
 司馬懿処刑をはじめとした『歴史』との乖離に対する感覚を説明しようと思ったら、時間がかかりすぎる。
「別にこれまで覚悟がなかったってわけじゃないけど……。なんて言えばいいんだろうな。俺も……その、この世界の一員なんだと、そうであっていいんだと気づいたというか、安心した、というか。そんな感じなんだ」
 言葉を探しながら、つっかえつっかえ話すのを、華琳はじっと待っていてくれた。
 その時浮かんでいた表情を見て、俺は、あの時のことを思い出す。蜀に攻めこまれ、華琳も俺も一歩間違えれば死を免れ得なかった日のことを。
「そう。わかった」
 俺に向けて優しく頷いた後、がらりと表情を変え魏の覇王の顔になった彼女は部屋の扉まで歩いて行き、扉を開けて親衛隊を呼ばわった。駆け寄ってくる女性兵に、何事か指示を下し、再び部屋に戻ってくる。
「桂花たちを呼ぶ必要があるわ。この地図、もらっていいのよね」
「ああ、好きにしてくれ」
 ある意味で、二枚の地図を渡すことで、肩の荷が下りたと思ってるくらいだ。
「また、細かい記号だとか文字の話は……あら?」
 華琳はアジア地図の裏を見て、疑問を顔に浮かべる。
「この裏は?」
「ああ、日本列島だな。俺の故郷だったところだよ。朝鮮半島……あー、楽浪郡……だったっけ? そこから東に海を渡ったところにある島々さ」
 以前は見慣れていたその列島を、いまはなつかしく感じる。けれど、そう、けれど……。
「故郷だった、ね……」
「ああ、故郷だった場所さ」
 俺の心情を慮ったか、彼女は、それ以上は何も言わないでいてくれた。

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