閑話の七:郭嘉の策動

「鮮卑の調略はこれで……。南匈奴の間にはこれを……」
 竹簡を見ながらぶつぶつと呟くのは、魏の頭脳のひとつ『神算の人』郭奉孝。その真名を稟という少女。
 魏軍の三軍師の中でも沈着冷静をもって知られる智謀の士。
「烏桓は取り込み済みとはいえども……公孫賛を使うか?」
 彼女の座る卓には、おおまかな大陸の地図が広げられている。
 もし北郷一刀という男が見れば、かなり不備があると考えてしまいそうなしろものだが、それでもこの時代では貴重品だ。
 彼女の持つ地図は様々に書き込みがなされており、一部の海岸線や山脈が書き直されたりもしている。
 その地図の上を、黒の手袋をつけた稟の指が行き来する。呟く言葉からして、いわゆる五胡と言われる異民族達への対処であろう。眼鏡の奥の瞳はいつになく強く光っていた。
「稟ちゃーん、お邪魔してよろしいですかー?」
 その思考は、部屋の外からかかった声で途切れた。
「えっ。ちょ、ちょっと待ってください」
 わたわたと竹簡と地図を丸め、きょろきょろ部屋の中をみまわす。
 その様は、まるでいかがわしい本を見つけられた時のようだ。なんとか手に持っていたものを棚におさめた稟は手をぱんぱんとはたき、きりっとした普段の立ち姿を取り戻した。
「いいですよ、風」
 その声に応えて部屋に入ってきたのは、頭の上に人形(?)をのせた少女、風。姓名を程昱。これもまた魏が誇る頭脳であった。
「今日はなんの用事ですか?」
「いえいえー。そろそろ評議の時間なので、どうせなら稟ちゃんと一緒に行こうかと思いまして」
「もうそんな時間でしたか?」
 言いながら窓を見上げ、日の傾き具合を見る稟。
「ふむ……。たしかに」
「おやおや。時間を忘れるほどなんに夢中になっていたのやら」
 風のからかうような言葉に、稟は小さく自嘲気味の笑みを漏らした。
 おや、と風の顔が翳る。くいとあげられた眼鏡が反射して、稟の表情を隠した。
「大したことではありませんよ」
 その顔をじっと見つめていた風だったが、不意に瞼が落ちる。
「ぐぅ」
「寝ないっ」
 容赦なく入るつっこみ。
「おおっ。……そういえば稟ちゃん、最近鼻血を噴きませんね」
「ええ、ありがたいことです」
 前触れもなく変わる話題に躊躇うことなくのれるのは、長年のつきあいだからだろうか。
「華琳様の閨にも呼ばれるようになったとか」
 頭の上で、宝譿が、『やいやい、姉ちゃん、よくやったじゃねえか』と茶々を入れる。
「ええ……。すぐ戻されましたが」
「おや、それは、なぜに」
「困ったことに、今度は逆に何ひとつ感じなくなってしまったのですよ」
 淡々と語る言葉の中に、寂しさとも苦しさともつかぬものが混じっているのをもちろん風は聞き逃しはしない。
「それは……いつからです?」
「一刀殿がいなくなってから、とあなたは言わせたいのでしょう?」
「たしかにそうかもしれませんね」
 嫌味のように言った言葉にまっすぐ返してくる風に、稟は苦笑で応えるしかない。
「戦が終わり、気が惚けているだけでしょう」
「戦がなくなってからが私たちの本領ですよ、稟ちゃん」
 その言葉に、稟は頷いて見せたものの、気が変わったかのように、
「そうでしょうか、本当に」
 と独りごちた。
 しばしの沈黙の間、風が自分を凝視しているのに気づき、取り繕うような笑顔を浮かべる。
「冗談ですよ。さあ、行きましょう、風」
 動揺を隠すように足早に部屋を出て行く稟。取り残された部屋の中を見渡して、風はそっとため息をつく。
 それから、稟の背中を追いつつ、彼女は小さく呟く。聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりの大きさで。
「でも、稟ちゃん、本当はどうなのですか」
 それに答える声はなかった。

 稟の視線の先で、一人の男が魏の重臣たち、そして、魏の主その人に揉みくちゃにされている。
 かつて天より来たり、戦の終焉と共に天へと帰った男。
 そして、いま、再びこの地へと降り来ったその男の名は、北郷一刀。
「よかった……。本当に……」
 涙ぐむ稟の傍らに、すっと風が近づく。彼女は一刀に駆け寄っているものだと思っていた稟はその突然の出現に虚を衝かれる。
「ええ、本当に。これで稟ちゃんも斬首されなくてすみますね」
「……やはり、気づいていましたか」
 お互いにしか聞こえない低い声で二人はやりとりをする。
「はい。でも、華琳様は止めないでいいとおっしゃってましたから。本当に稟ちゃんの計画通り五胡を手懐けて中原に侵入されても撃退するだけの軍は蓄えてますし、異民族の力を削ぐのは好都合ですからねー」
「さすがは華琳様ですね。しかし、これはあなたも言っている通り、異民族を規定の方向に向かわせるための策。斬首などと言われる筋合いはありませんよ」
 横目でじとっと睨んでくる風の視線をしれっと受け止めて見せる稟。彼女の視線は一刀と、それにじゃれつく華琳から一時も離れることがない。
「本当に、乱が起こればお兄さんが戻ってくると信じていたのですか?」
 風は世間話でもするくらいの軽い口調でそんなことを言った。稟もまた、笑いまじりに返答する。
「さあ……。どうでしょう?」
 長い長い沈黙。まわりでは一刀の帰還を喜ぶ黄色い声と嗚咽が、だんだんと彼の不在をなじる声に変わりつつある。
 ふと、風は微笑みを浮かべた。
「でも、これで、安心して鼻血が噴けますよ、稟ちゃん」
 それに応じる声はもちろんなかった。程昱の腹に抱きつくようにして泣き崩れる郭嘉は誰にもその涙でぐちゃぐちゃの顔を見せようとしなかったから。

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