洛陽の巻・第十一回:冀州烏桓背きて鄴を狙わんとすること

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 その日はぽかぽかしていて、庭に椅子を出して仕事をしていた俺はとても上機嫌だった。
 たとえ資料づくりに難航していても、やはり柔らかい日差しとちょうどいい具合の風を感じているのは気持ちいい。
 まだ肋がくっついてないので、こうして太陽を浴びるように推奨されているから、おおっぴらに庭で仕事ができるのもありがたい。
 鼻歌でも出てきそうな気分の時に、その声はかかった。
「そこの万年発情男、あんた、碁はできる?」
「ルール……じゃなかった、やり方は知ってるくらいだな。定石とかは知らない」
「ちっ、使えない」
 反射的に答えると、忌ま忌ましげに舌打ちされた。こんなことをするのは一人しかいない。魏の頭脳の一人、荀文若こと桂花だ。
「じゃあ、ああ、いえ、これは無理ね。孫子は読み終えたみたいだけど、一字一句憶えてるなんてことはないでしょうし。……もういつも迷惑ばっかりかけて、これだから男ってのは……」
 ぶつぶつと呟きつつ、手元の紙に何事か記していく猫耳軍師。ぴょこぴょこその頭巾が揺れるのは愛らしいんだけどなあ。
 しかし、なんだろうこの不機嫌さは。いつものだいたい五割増だ。
 まあ、中途半端に機嫌がいい時のほうが妙に厭味ったらしくなるんでそれはそれで面倒なのだが。
「なに怒ってるんだよ」
「あんたが勝手に厳顔との勝負なんて受けたからでしょうが!」
「あー」
 真っ赤になって怒鳴りつける桂花に、さすがに俺もまともに考えることにする。
 彼女はたまに無茶なことを言うが、魏――というよりは華琳――に関することではちゃんと話を聞いた方がいい場合が多い。たまに華琳への崇敬が暴走しすぎることもあるけどな。
「もしかして、勝負の方法考えてくれてるのか?」
「そうよっ。いくら全身精液の種馬でも、負ければ華琳様の面目が傷つくのよ!」
 それもそうだな。あの場では受ける方が妥当だったし、華琳もそれは認めたが、負けていいなんてことはけして言わないだろう。
「しかも、怪我のせいで日程がのびたし! おかげで変に簡単なのじゃなめられるじゃない。もう、どうせなら呂布に真っ二つにされてくればよかったのに!」
 そうなのだ。この間長安で呂布の方天画戟を受けて――思い出したくもない――肋が折れているせいで、厳顔との勝負は日延べしたのだった。
 厳顔としても怪我人に勝っても自慢にもならないだろうから。
 しかし、真っ二つは勘弁してほしい。呂布なら簡単に……いや、よく考えたら、周りの人間で俺を真っ二つにできない人間のほうが少ないんだよな。
「あんた、得意なことってなによ。言っておくけど、女とか言ったら殺すわよ」
 いや、さすがにそれは言いません。
 うーん、でも、なんだろうか。
 未来の技術とかは多少知っているが、しかし、それで勝負と言うのはありえないし。動物からは好かれやすいけど、それが役立つのは明命、呂布、風あたりを相手に遊ぶ時くらいのものだし……。
 延々と悩んでいると、なんだか哀れみの目で見られ始めた。
「……もしかして、ないの?」
「け、桂花は俺の得意なことって、な、なんだと思う?」
 桂花に同情されるという信じられない出来事に遭遇して心臓がばくばく言っている。
 桂花は黙ってじっと俺を見つめた。
 い、いや、まさか俺に取り柄がないなんて……え、ないの?
「女」
 心底嫌そうに言われた。自分で言うなって言ったくせに!
「……まじめな話、人たらしはそれなりでしょ。黄蓋は華琳様だって欲しがっていたくらいなんだから。でも、そんなのいまは役立たないのよ!」
「そ、そうだよな」
 はぁ、と大きく溜め息をつかれる。
「弓で勝負できればいいけど……。あんた、弓はひけるの」
「ああ、秋蘭に習ってる。祭も教えてくれてるしね。でも、さすがに厳顔相手には……」
 あ、そうだ、不意に思い出したことがある。俺は資料の竹簡の中に埋もれたそれを掘り出しはじめる。
「厳顔の弓……弩なのかな? あれって豪天砲っていうんだよな?」
「あんたにしてはよく知ってたわね。で?」
「豪天砲の設計図らしいんだよ、これ」
 美羽から預かったものをようやく取り出す。
「はぁ?」
「あとで真桜に見てもらおうと思ってたんだけど……。これで弱点とかわかるものかな」
 桂花は俺が差し出した何枚かの紙が折り畳まれたそれを受け取ろうとしない。何かいかがわしいものでも見るかのような視線が向けられている。
「……そもそも、それが本物かどうかが問題よ」
 それもそうだ。だが、美羽から入手経路を聞いている俺としては本物だと信じるしかない。
「これ、美羽経由だけど、元は冥琳から渡されたらしいよ」
「周瑜!?」
 俺の言葉に反応する桂花。ようやく設計図を手に取ってくれた。開かずに、ためつすがめつしている。
「そう、周瑜が……そう……」
 きっと、いま、彼女の頭の中では色々な計算が渦巻いているのだろう。
 たとえば冥琳が美羽をはめようとしてわざと贋物を掴ませる陰謀がありえるのかだとか、最初から冥琳が贋物を掴まされた可能性だとか。
 俺にはそれくらいしか思いつけないが、きっと、それに十倍するくらいの様々な可能性や意図が入り乱れているに違いない。
「……真桜と一緒に検証してみるわ。計算も必要だし」
 結局彼女はその紙を開くこともなく、そのまま懐にしまいこんだ。
「いい。わかってるとは思うけど、他言無用よ。これが使えるかどうかもまだわからないし。とにかく、あんたには勝ってもらうからね。せいぜい養生してはやく怪我をなおしておきなさい。女に手を出して悪化なんかさせたらコロス」
 それだけまくしたてると、俺の返答を待つこともなく、桂花は踵を返す。その背に、俺ははいはい、と少々いい加減な返事をする。
「はいは一回!」
 猛烈な勢いで怒られた。
 うん、桂花だ。

 魏において全ての決定者は曹孟徳である。
 瑣末事に関しては委任者が代行するが、しかし、その大元の権限も責任も頂点に立つ少女一人にある。
 故に、彼女の目の前で行われる討議は全て御前会議であり、いかなる形式であるかを問われない。たとえば荀彧との睦み合いの間ですら、時に国家の大事を決定するやりとりが行われかねないのだ。
 そういうわけなので、あまり形式張った会議の場というのがない。謁見の間や評議の間はあるが、華琳は道端だとか通路でも会議をはじめてしまうので、それほどの重要性を持っていない。どちらかというと、評議の間をはじめとした広間は側近たちが顔をあわせるためのものという性格が強い。
 だから、俺は、この秘密の会談のためだけにつくられた庵の存在を知らなかった。ひっそりと城の隅にある庵の周囲には水が流され、内部での物音や会話を漏らさないように工夫されている。
「目くらましにはこういうのも有効なのよ」
 庵の唯一の備品であるらしい円卓について悠然と構える華琳にそんな理由を聞いて、俺は感心したものだ。
「基本目くらましだけど、たまにこういう場所を重要な案件のために扱うと、間諜たちをさらに混乱させられるってわけ。雪蓮も桃香もその手の策謀を好む性質じゃないし、最近はやっていなかったんだけどね。なにやら相手が相手らしいし」
 円卓にある席は八つ。それ以上の人数はとても入れないような狭い庵の中は、いま、稟、風、桂花という軍師勢に俺と華琳、そして、わたわたと資料をひっくり返してはまた整理しなおしたりしている美羽しかいなかった。
「美羽、いい加減落ち着けよ」
「む、無理なのじゃ。七乃はどこかや!」
 いや、七乃さんはいないから。一人でやるって大見得切ったのは美羽じゃないか。
「袁術、落ち着きなさい。大筋は承知しているし、それほど緊張する必要はないわ」
 華琳が珍しく優しく声をかける。美羽の策がお気に召したのか、今日は機嫌がいい。
「し、しかしじゃの。妾はこのようなことは……」
「まあ、彼女の立場では、献策を受けることはあっても、提案を吟味されるということはなかったでしょうからね、しかたないのかもしれません」
 稟が、くい、と眼鏡をあげながら評する。ああ、もうそういうことすると、眼鏡の奥が見えなくて、余計怖いのに……。
「そうですねー。経験の問題もありますしねー」
「おうおう、嬢ちゃん、ここが踏ん張りどころだぜ」
 風が呟き、宝譿がハッパをかける。なんか、宝譿は久しぶりだな。その宝譿が美羽に飴玉を差し出している。
「頭がまわらない時は甘いものですよー」
「う、うむ、ありがたいのじゃ」
 おっかなびっくり受け取り、口に放り込む美羽。ころころと飴を口の中で転がしているうちに落ち着いてきたのか、嬉しそうな顔になってきた。
「さ、はじめましょう。一刀、ちゃんと補佐してあげなさいよ」
 そう華琳が宣言すると、部屋の空気が明らかに変わる。きっとそれに呑まれそうになったのだろう、顔を青ざめさせた美羽が、なにかを決意したかのような顔つきになった。口の中で噛み砕いたのか、ごりっ、と飴の割れる音がする。
「よ、よし、皆のもの、この袁公路のありがたい策を聞くがよいぞ」
「……元気になりすぎ」
 桂花がぼそりと呟く声も、おそらくは美羽の耳には入らないよう配慮してくれたのだろう。俺には聞こえるように言うあたりが、こう、桂花らしいわけだが。
「む、むぅ。まず、国家の基(もとい)はなにか、それは、食じゃ! そして、衣服じゃ。飢えず凍えずがあれば、人も国も生きてゆけるのじゃ。なれど、今はそれがままならぬ。それを補おうというのが今回の策じゃの。衣服については、まずは食い物があれば、布を織る者も出てくるじゃろうということで、今回は食の生産についての話じゃ! む、むむう……」
「大丈夫、美羽。続けて」
 ちらちらと俺に視線を送ってくる美羽を励ましてやる。今のところまったく問題はない。華琳も機嫌損ねていないしな。
「いま、この国は兵を減らしておる。戦乱がなくなったのじゃから、たしかにそれも一つの策じゃが、妾はこの方針の変更を提案するのじゃ。よほど軍を辞めたいという兵はともかく、それ以外の兵は軍に止め、屯田を拡大させるべきなのじゃ。
 実際、軍を離れた兵が農地へ帰っている例は思ったより少ないようでの。街へ住み着く者のほうが……あれ、どこじゃったかな」
「あなたが言いたいのは農地への定着率と街への残留率の比較でしょう。たしかに、袁術の言う通り、故郷の農地へ帰った者は三割程度です」
 資料を手渡そうとした俺を横目で見ながら、稟がフォローしてくれる。
「他は街へ残っているわけね」
「いえ、街で定職についている者は同じく三割ほどです。残りの四割あまりは、傭兵になっているか犯罪集団に入っているか、そんなところだと思われます」
 華琳が渋面をつくる。犯罪者に堕ちたようなのは論外にしろ、傭兵も治安の面では歓迎できるものではない。たしかに自警のために街や隊商がそれらの傭兵を雇ったりすることはあるが、本来それは国が保証すべきことなのだから。
「傭兵をつくるくらいなら、軍に雇ったまま、街やら街道やらへ警備部隊を配置したほうがよいのじゃ。そこで屯田させれば食もまかなえよう?」
「一理あるわね」
「ただ、やはり軍を保ったまま屯田だけ拡大してもしようがないと思うのじゃ。戦闘部隊と生産が主な部隊が混在しては指揮もままならぬのではないかという懸念もあっての。そこで、そうじゃ、これは一刀が命名したのじゃが『郷士軍』をつくればよいのではないかの」
「『郷士軍』?」
 華琳の視線が俺に向く。ここは俺が説明すべきだろう。
「うん。警備隊と、削減する予定だった数の兵をあわせて、半農半武……いや、より農業の比率の高い兵をまとめて郷士軍として独立させるんだ。一線級の兵を現在の軍と警備隊から切り離して常備軍にする、と言うほうが正しいかもしれないね」
「軍に残った兵は、戦闘を知り尽くす巧者として鍛え上げるのじゃ」
 現実問題、戦闘だけに特化した常備軍をつくる余裕は、この時代にはまだない。北方や西方の辺境警護の軍でさえ、平時には畑を耕して自分の食い扶持を収穫しないと生きていけないのだ。軍に戦闘任務だけを任せていられるようにするには、生産以上に流通網を発達させなければならない。
「それと、郷士軍は基本、一地方から動かないようにするのがいいと思う。そうすることで故郷を離れたくない者たちも吸収できる。一方で常備軍はどこに配属されても文句は言わないような兵を集めるわけだな」
「聞く限りは悪くない案だけど、軍制をそれだけ変更するとなると混乱も大きいし、実際に得られる利益と勘案しなければならないわね」
「うむ。一刀たちに手伝うてもろうて、いくつか計算してみたのじゃ。これを見りゃれ」
 資料を手近な稟に渡す美羽。軍師たちは競うようにしてその紙束を覗き込む。
「……ただ、難しくなってしまうので、今後の政情変化やらは取り入れられなかったのじゃー」
 残念そうに美羽が呟く。あんまり手伝いすぎると美羽の案ではなくなってしまうし、俺自身も手が回らなかったのだが、ちょっとかわいそうになる。
「ざっと見ましたが、郷士軍と軍の割合等、少々夢想的な部分がありますね。計算はやりなおすべきでしょう。しかし、大筋としては悪くないと私は判断します」
「いずれにせよ軍部との折衝が必要ですねー。ただ、兵を減らさず、屯田を増やす方針には賛成ですかね。初期に費用はかかりますが、戦乱が終わった今やらないと、もう好機はないかとー」
「警備と屯田を兼ねさせるのは、評価してもいいでしょうか。他は少々……たしかに利はありますが、これほど大規模になると、慎重に検討しませんと」
 三人の軍師がそれぞれに意見を出す。中でも桂花が検討すると言っているのは驚きだ。彼女が考慮に値する案だというのは、よほどのことなのだから。
「ふむ……」
 資料を渡された華琳が記された数字を追う。ひとしきり眺めた後で彼女はそれを卓の上に置いた。その表情はまるで変わらず、気に入ったのかどうかもよくわからない。
「この件は後ほど判断するとして、もう一つあるわよね」
「そうなのじゃ! こちらが本題なのじゃ!」
 腕を振り上げ、愉しそうに宣言する美羽。だいぶ調子が出てきたようだな。
「妾は常々、宦官というものは害悪じゃと考えておった。言うておくが、そなたの祖父御を侮辱しておるわけではないので、お、怒る必要はないであろ」
「わかっているわ。私もあんなもの害悪だと思っているし、祖父に聞いたって同じことを言うでしょうよ」
 宦官を祖父に持つ華琳が吐き捨てるように言う。俺の知っている歴史だと、曹操は宦官自体は惡ではないにしろその運用に気をつけねばならない、としている。しかし、華琳の性格からすれば、もっと強烈なことを考えていたとしてもおかしくない。
「何進大将軍が謀殺された後、妾と麗羽とでずいぶん誅戮したのじゃが、再び増えて万を数えると聞いた。漢朝に実態がなくなったとはいえ、魏からの庇護により給金だけはもらえると思うて、隠れ家から出てきおったのじゃろか。しかし、穀潰しを抱える余裕なぞないはず。そこで、妾は、宦官を政から全て追放し、黄河の治水に投入することを提案するのじゃ」
「治水?」
 華琳が怪訝な顔をする。先に提出した試案では宦官も同じく屯田開発につぎこむということになっていたからな。
「聖王禹の故事にならうまでもなく、黄河の治水とそれにともなう水の配分、田畑の整備こそが古来よりの王朝の礎である……というのは一刀の言。妾もその通りじゃと思う。屯田を増やすためにも治水は不可欠じゃろう。じゃからして、宦官による治水集団をつくり、既存の水路の管理、改修にあてさせるのじゃ。もちろん、宦官なんぞあてにはならんから、監督官も必要じゃが……そんなもの、宮廷であやつらを飼っておくよりはずいぶんましであろ」
 美羽のやつ、だんだん元気になってきたのはいいが、説明を重ねるうちに少々感情的になっているな。そう思った俺は、立ち上がり発言する。
「少し補足させてほしい。俺が別の世界――天でもなんでもいいけど、そういう場所――にいたことは知っていると思う。そこはこの世界とよく似た場所で、よく似た感じに歴史が動いていた。でも、だいぶ歴史が進んでたわけだけど、そのおかげで、この時代やそれ以前のことがよく研究もされていたんだ。
 さっき美羽が言った、治水とその配分で国の基礎が築かれたというのも歴史研究の世界ではよく言われていることだ。禹王は実際には水神の擬人化だと言われていたけどね。
 また、それらの研究によると、なぜ戦乱の時代には涼州が注目されるのか、という点をこう説明している。涼州は異民族の侵攻を受けやすい辺境の地で、そもそも治水整備、田畑の開墾がなおざりにされている。しかし、戦乱の時期には中央の治水の整備状況が悪くなり、かつ農村から人が辺境へと逃げる。このために涼州のような辺境の地位が相対的に上がるんだ、とね。
 他にも要因があるけど、水路や堤防をはじめとする生産に関わる様々な施設や建造物がしっかり管理されなくなる、というのは国力低下の最大の原因だ。もちろん、そのために作物の出来が悪くなれば人々は飢え、さらに整備は後回しにされて悪循環となるわけだ。
 美羽の案はそれを防ぐために一定の集団を常に国内の整備に投入するということでもある。宦官を、というのは手近でかつ政治に関わる余計な要因を排除できるという多重の効果を見込んでのことになるな」
 現代世界に帰ってから中国の歴史について勉強したことをなんとか思い出して説明をしていく。細かいところはともかく、大枠としては間違った論ではないはずだ。
 ああ、また風がこっくりこっくりしてる。あれでも聞いてるからいいか。
 頬杖をつき、何事か探るように美羽を見つめる華琳。さすがに眼力にあてられたか、美羽はびくびくしている。
「宦官の実数は? 桂花」
「先月の数ですと、九八〇二人。万はいっておりませんが、そのあたりですね。袁紹、袁術が暴れ回った折りに殺されたと思われていた者が、地方に隠れて戦後帰還した例もあります。しぶといものです」
「案自体についてはどう思う?」
「よろしいのではないですか。内宮の宦官どもなんて辟易の種ですし」
 これまた感情的な論を展開する桂花。彼女にとってみれば、華琳に心の底から服従しない漢朝の宦官は敵に等しい。
「稟」
「天子がしっかりしていれば災害は起きない、などという馬鹿馬鹿しい説を儒者が唱えたせいで、地方においては洪水をはじめ様々な天災に対する備えが疎かになっています。宦官を投入するかどうかは別として、治水・土木整備事業を行う役職の創設は望ましいことかと」
「風」
「稟ちゃんの意見におおむね賛成ですが、人手をどうするか、という問題はありますね。宦官については排除するのには賛成ですが、そこまで一気に放逐できるかどうかは怪しいところかとー」
 やっぱりつっこみ待ちだったか……。華琳に声をかけられたら、ぱちりと目を開ける風。頼むから俺に恨みがましい目を向けるのはやめてくれ。そこまでつっこみ入れにいけないってば。
 沈思黙考に入る華琳。右手がかすかに動いているのは、頭の中で何事か書いているのか計算しているのか。
 その様子を俺たちは静かに眺めていたが、おずおずと美羽が切り出した。
「官位をやったらどうであろ?」
「官位?」
「漢の官位なんぞもはや役にはたたんじゃろが、宦官どもはそうは思わんじゃろ。たしか、いまは漢の官自体大幅にあいておると聞くぞ」
 その言葉に桂花が答える。
「たしかに……我等が掌握後、全ての官位は大幅に引き締めましたからね。十常侍も中常侍を下ろしましたし」
「売官がひどかったですしねー」
 官位を売ることで国家予算を補てんする時代があったのだそうだ。色々な側面があり、一概に悪いことだとは言い切れない部分――新規の人材確保など――もあるが、それもいきすぎると弊害しか生まない。
「そういえば、麗羽が行方不明だからって、大将軍のままおいてあったわね」
「そうですね、人和ちゃんたちから聞いて行方はわかってましたけど、面倒でしたのでー。変えます?」
「いいんじゃない、麗羽も別になにも言ってこないし」
 面倒程度で放置か大将軍。それにしても、麗羽って大将軍なのか……。そういえば、美羽が建てた国では、七乃さんが大将軍だったそうだ。半年も保たなかったらしいけど。
「宦官のやつらはいまだに漢の官位で祿をもらっているし、官位が上がれば金が増えるとしか思わないでしょうね」
「それらの官が、土木工事をやるということに法を変えておけばいいわけだな」
 おお、さすがじゃな、一刀、と美羽が腕を突き上げて喜ぶ。なんだ、そこまでは考えてなかったのか。
「おそらく一番の難物であろう十常侍どもには、中常侍を再びやると言うてやればよい。なんじゃったら、大長秋でもくれてやればよかろ」
 さすがに華琳がこの言葉に驚きを隠さない。大長秋は宦官の最高位。帝の側近中の側近……だったと思う。反董卓連合の時に聞いた覚えがある。
「大長秋に土嚢を積ませろというの?」
「そうじゃ、おもしろいであろ?」
 くふふ、と美羽が意地悪そうな笑みを漏らす。さすがに呆れたのか、華琳が口をあけた。かと思うと、その端が持ち上がり凄絶な笑みを形作る。
「袁術、真名を許す。以後は華琳と呼ぶがいいわ」
「うむ、では、妾のことも美羽と呼ぶがよいぞ」
 あの曹孟徳が袁公路を認めるという信じられない場面なのに、なんでこんなにもぴりぴりと張りつめた空気をしているんだろうね、まったく。とはいえ、二人ともお互いに対する悪意があるというわけではないんだよな。
 華琳が頬杖をつくのをやめる。
「稟、あなたは軍制改革の案について再検討。実際に行うと仮定して、計算もやりなおしなさい」
「承知いたしました」
「風、あなたは宦官と治水事業の件を。あなたなら大丈夫でしょうけれど、機密保持にはくれぐれも気をつけて」
「わかりましたー」
「桂花、二つの案件を監督なさい。そうね、七割は実行する心づもりで動かすこと。それでも不可能と考えるなら報告を」
「はっ」
「美羽。あなたのところの張勲もだけど、忙しくなるわよ」
 にやりと笑みを向ける華琳。もう本当にこき使うと決めたぞ、こりゃ。
「わかったのじゃ!」
 話の急な展開に少々呆然としていた美羽が嬉しそうに破顔する。今度は邪気のない笑みに、俺もつられて微笑んでしまう。
「一刀」
「ん」
「祭を貸してもらえる? あの老獪さが必要よ」
 真摯な問いかけに、息を呑む。祭の力が必要というのはわからないでもない。政軍あわせて裏も表も知り尽くす彼女に匹敵する人材というと魏では秋蘭しかいないが、三軍師を動かす以上、逆に夏侯の看板は動かせない。少なくとも表向きは。
「あー、うん、祭がいいならね」
「説得なさい」
 有無を言わせぬ言葉に、了解、と答える。本気で祭が嫌がるならば無理強いすることはできないが、いまや美羽とも仲は悪くないし、特に問題はないだろう。
「よし、ここにある資料は全て焼きなさい。灰は外の水に流し、誰にも知られぬようにせよ!」
 曹孟徳の命がかかり、まさにそのようになった。

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