閑話の六:冥琳の御遣い観察報告その二

 呉の正使、冥琳のもとには、部下からの報告書、本国からの書簡がひきもきらず届けられる。常と変わらぬ光景だ。
 だが、その日、明命が持ってきた報告書はいつにもまして分厚かった。
「なんだ? これは」
「はいっ、天の御遣い実態報告第二報です!」
「……なに?」
 たしかに北郷一刀のことを探るように命じはした。
 だが、あれは会談が始まる前、彼女たちが大使として赴任するよりもさらに前のことだ。
 ……しまった。期限を設けていなかったか……。
 背を冷や汗が流れるのを感じる周公瑾。
 ともあれ気を取り直して書類をめくる。情報は少しでもあったほうがいいのはたしかだ。
「一刀殿についてまわったのもそのためか?」
「いえ! 為人を知るためには有益でしたが、一刀様のまわりでは機密情報に触れぬようにしておりました。その後情報を集めたため報告が遅れました。申し訳ありません!」
 それはありがたい。信頼を利用して秘密を暴くようなことをしたと思われては困る。政治的にはもちろん、個人的にも、だ。
「それで……なにかわかったか?」
 事細かに行状の記された書類から顔をあげず尋ねる冥琳。
 まったく、なんだ、この毎朝毎晩の女の名前は!
「はい、色々わかってきました」
「ほう」
「まず、一刀さ……北郷は現在無位無官です。漢どころか魏の官位も一切ありません」
 ん、なんだ、この聞き慣れない名前は? まさかそこらの女官にも手を出しているのか……?
 あ、なんだ、猫か。ええい、明命め。いくら好きだからといって猫の名前まで記録するな。紛らわしい。
「当然、給金等はありませんから、彼に給付される金銭は、全て曹家および夏侯家の私費から出ています」
「曹操の私兵扱いか。となると、その下の祭さまもそうなるか、少々業腹なことだな」
 詳細に記されすぎて、煩雑になっている報告書を脇にやり、明命の話に集中する。
「しかし、その決裁権は軍事においては夏侯惇に、政務においては荀彧に並びます」
 冥琳の眉が跳ね上がる。
「……ばかを言うな、明命」
「残念ながら」
 表情を変えず答える明命に、冥琳はいらついたように言葉をつむぐ。
「それでは、魏軍五〇万のうち、一〇万までを無許可で動かせる上、州牧を自分の判断ですげ替えることができることになるのだぞ」
「はい、その通りです」
「それでは、まるで丞相ではないか」
 そのような大権、尋常ではない。通常は王が幼年で政務がとれない場合くらいにしか集中しえない権力だ。呉で言えば、冥琳自身と王妹たる孫権の権力をあわせるくらいとなろうか。
「しかし、実際、瑣末事以外で北郷の印章が用いられた形跡がないのです。重要事項は常に重臣の印章と並列しています。実際には彼の印章よりも決裁権の低い者たちのそれと」
「なんだそれは」
「おそらく、彼自身は己が曹操に次するほどの権力を与えられていることを知らないのではないでしょうか」
 一瞬耳を疑う。まじめに見つめてくる明命の視線をそらして、冥琳は考えを巡らせる。
「……曹操はなにをしたいのだ」
 独り言のように呟く彼女を、明命は邪魔をしないように控えている。とんとんと指で卓を叩く音だけが、部屋の中に響く。
「夫とするためか? いや、それならば官位を与え、功績をあげさせるほうがよかろう。そもそも重臣の間で北郷一刀の存在は認められている。いまさら婚姻に反対はなかろうし、曹家の存続のためにも支持されるはずだ。では、いったい……」
 その後も続く呟きが一段落したところで、明命が口を挟む。
「軍師筋を探ればよいのでしょうが、さすがに荀彧、程昱、郭嘉ともに備えが万全で……。出来ないことはありませんが」
「いまは平時、無用な挑発となろうな……。いや、軍師に探りを入れるのはやめておこう。それより、明命、個人的な感想としてどう思う」
「感想、ですか……。最初は、華琳殿が一刀様に媚びているのかとも思ったのですが、一刀様自身、権力を与えられて喜ぶような方ではありませんし、どうにもわかりません」
「まして、権力に溺れることもなし、か。さてさて……」
 女色には溺れておられるようだがな、と冥琳は皮肉な笑みを漏らす。
 いや、違う。
 溺れているのはまわりの女であって、北郷という人間ではない。そこが、恐ろしい。
 自分とて、色仕掛け半分と己を騙していたではないか。
 ふるふると頭をふって、思考を切り換える。
「曹孟徳は不必要なことはすまい。ならば、それが必要となる時がくるかもしれぬということだ。誰かが王に匹敵する大権をふるわねばならぬ時が」
 二人の顔が引き締まり、厳しくなる。そのような事態を二人共に想像したのだ。
「戦、ですか」
「わからぬ、だが、警戒せねばならん。明命、これは秘中の秘だ。本国には私が伝える。お前は蜀にこのことを悟られぬよう努めよ」
「我等が知っていることを悟られず、蜀が知らねば知らぬまま、知っているのならば、それが重要事ではないと認識させればよいのですね」
「そうだ。魏の片棒をかつぐようで忌ま忌ましくもあるが、しかたあるまい。蓮華(れんふぁ)さまと思春から我等へと大使の任を変えたこと、存外に当たっていたのかもしれん。明命、今後も頼むぞ」
「はっ」
 ところで、と明命は胸元から畳まれた紙束を取り出す。
「関連というわけでもないですが、豪天砲の設計図が届きました。いかがいたしましょう。魏に流すのは難しくありませんが」
「いや……私が届けよう。個人的な贈り物としてな。言っておくが一刀殿にではないぞ」
 それを聞いて明命は持っていた紙束を冥琳の前に差し出す。彼女はそれを受け取ると、丁寧に布で包みだした。
「では、華琳殿に?」
「いやいや。袁術に、さ」
「袁術?」
 さすがにしかめ面をする明命。呉の国内には、未だに袁術へ複雑な感情を抱えている者が多い。
「そうだ。あれは、もはや甘やかされた子供ではないぞ。いや、まだまだその気はあるがな。なにせ、一刀殿に祭さまが間近にいる。ここらでひとつ、きちんとよしみを通じておくのも悪くない」
「はあ……。実際に長く顔をあわせておられた冥琳さまの言葉ならそれが正しいのでしょうが……。我が呉が袁術に、とは……」
「もっとやわらかくなれ、明命。まっすぐなのはいい事だが、我等は蓮華さまたちと違い、汚れ仕事もせねばならぬ立場。柔軟に、けれど己を保つべく努めよ」
 冗談まじりの口調はしかし、真摯な内容を隠すためのものだろう。それに気づいた明命は、感じ入ったように、ただでさえまっすぐな姿勢をびしっとただした。
「ただ、これを渡したとして……。はて、一刀殿は勝ってくれるだろうかな」
「一刀様は勝つと思います!」
 きらきらと目を輝かせ、絶対の信頼を表情に浮かべる彼女に、そうだな、と答えて冥琳は笑みを見せた。
 それはとてもとても愉しげな笑みだった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です