洛陽の巻・第八回:死せる董仲穎、その姿を長安に現すこと

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 長安行きの旅は大人数でのものだった。
 鎮西府を開府するためという理由もあって、霞とその配下の張遼隊が全員、それに一部の文官――大多数は黄河経由ですでに移動中――建設中の城砦に補充される人足……諸々をあわせると二千を超える人の群れとなってしまった。
 曹魏の迅速な進軍速度に慣れていた俺は、文官を含めた足どりの遅さにいらつくより先に驚いてしまったが、幸い、城砦に立ち寄った後は――人足や文官の大半を残してこられたこともあり――普通の進軍速度に近づいていた。
 俺以外にも兵たちが不満に思っていたらしく、ようやくほっとした空気が流れている。神速でうたわれる張遼隊にしてみれば、文官たちのペースは地を這うようなものだったろうからな。つきあわされる残りの文官たちが少々かわいそうではあるが……。
 支給された天幕で地図を広げ、明日はどのあたりまで行けるだろうと考えていた俺は、目の隅でちろちろと揺れる火に、ふと顔をあげた。見れば獣脂に浸った灯心がもう燃え尽きそう。
「そろそろ寝るか……」
 火の始末を終え、暗闇の中で夜具を着込む。着込むというのは、ゆるいかいまきのようなもので、かぶって寝る形ではないためだ。
 危急の時には動きやすいため、野営には重宝する。
 元々は遊牧民たちのものだというが、張遼隊のような部隊ではそういうものを取り入れるのに忌避感が少ない。実際に異民族たちの脅威と向き合っている彼らだからこそ、敵が使っていようとなんだろうと利便性が高い方がいいと素直に思えるのだろう。
 そんなことを考察しているような、あるいは夢の中にいるような時、天幕の入り口が開かれる気配を感じた。途端に目が冴える。体を動かさないように、指だけで傍らにあるはずの剣のありかを探ろうとする。
「うちや、一刀」
「ああ、霞か……驚かすなよ」
 聞き慣れた声に、緊張感が溶けて行く。音もなく、霞の体が俺の横、というよりは後ろに滑り込んできた。
「ふふ、一刀もよう気づくようになったやないか」
「あ……うん」
 首筋に霞の息があたる。甘い香りが鼻をくすぐる。暗闇の中、小さな衣擦れやふと香ってくる霞の香りが、存在感をいやまして伝えてくる。
「うちもいれてぇな」
 夜具の袖の片方から腕をぬき、霞にかけてやる。すると、霞はその袖に腕を入れたようで、ぴったりと俺の背中にくっついてきた。やわらかな感触が俺の脚にも背中にも首筋にも触れてくる。
「し、霞……あんまり……」
「せやかて、くっつかんと狭いし寒いやん」
「そりゃそうだけど……」
 どうしてももぞもぞしてしまう。むくむくと起き上がる俺の分身に、たまたまなのか意図的なのか、霞の指がかする。
「や、元気やん」
「そりゃ、まあ、霞がくっついてたら……な」
「ごめんな。我慢してな、さすがに鎮西将軍のだらしない喘ぎを部下に聞かせるわけにはいかんねん」
 霞の声は本当に申し訳なさそうで、からかう気配はない。それよりも俺を気遣う気持ちが声にこもっている。
「ほんまは、うちかて我慢しとうないよ。ううん、我慢しきれんで、こうして忍んできてしもてん。ただな……うち、こうして触れ合ってるだけでも嬉しいんよ、一刀」
「そんなの、俺だっていっしょだよ。まあ、生理的反応はともかくとして、だ」
 霞の手に自分の手を重ね、指を絡ませる。偃月刀をふりまわすにはふさわしくないほど小さく、やわらかな手。その手を俺の心臓の上に持っていく。どきどきとうるさいほどの音をかなでるその鼓動は、霞に伝わっているだろうか。
「あったかいわあ……」
 言いながら、霞は俺の肩と床の間に頭をねじこんでくる。霞の髪でこすりあげられるのがくすぐったいが、身をよじると彼女にぶつかりそうなので我慢していた。
 そのまま、しばらくの間、俺たちはなにを話すでもなく、お互いの体温と息づかいだけを感じていた。
 それは、とても幸せな時間だった。
「なあ、一刀」
 どれくらいの時が経ったろう。夢とも現ともつかぬ暗闇の中で、静かな声が響く。
「うちと羅馬にいくって約束……おぼえてる?」
 その問いかけは、たどたどしく普段の彼女とはとてもかけ離れていて。
「ああ」
 俺は、素直にそう答えるしかなかったのだ。
「行こう、あの彼方に。……でも、ごめん。二人きりじゃ無理かもしれない」
 ぎゅっと絡んだ指に力が込められる。伝わってくるのは、震え、だろうか。
「それに戦、終わらへんしなあ……。三国平定しても、外にも内にも敵ばっかや」
「なんだよ、霞が終わらせてくれるんだろ?」
「ぷっ、なんや、うちまかせかい! しゃあないなあ。孟ちゃんも惇ちゃんもみーんな連れて、羅馬まで進撃したろやないか」
 ぼんやりと、けれど、ほんの少し明るくなった声。だが、それはすがりつくような声に変わる。嗚咽に消えそうな、赤ん坊がぐずるような声に、俺は胸が締めつけられる。
「だから、な、だから……もう消えたりせぇへんといて……」
 体ごと俺にしがみついてくる霞。脚が、腕が、指が、全て俺を二度と離すまいと力強く引き寄せる。俺はそれに抗することなく、絡んでくる体を抱き返した。
「ああ。二度と……二度とあんなことはないよ」
 言葉で言ったとて、安心などできはしないだろう。俺だって不安がないとは言えない。
 この世界に帰った時、もう二度と元の世界に戻ることはできないだろうと言われはしたけれど……。
 だが、俺には言葉で約束することしかできない。真摯な約束で、この地につなぎとめる鎖を少しでも太くすることしか。
「霞、俺は……」
 言葉を続けようとした時、急に絡みつく圧力がなくなった。俺を手放した霞の体は夜具からもすり抜けて飛び上がり、忍ばせていたらしい懐剣を出口へ向けている。
「誰やっ」
 見れば、天幕の布地の向こうに、ぼんやりとした灯が揺れている。
「あっ、わ、わっ」
 殺気を向けられたのを感じたのか、小さいながらも悲鳴のようなものが漏れ聞こえてくる。
「わたくしは、声が聞こえましたもので、何事かとっ」
 ああ、この声は袁紹だ。霞も気づいたのか、剣をしまい、出口の布をめくって確認する。
「あちゃー。あんた、さすがに間ぁ悪いわ」
「う、うるさいですわよ。張遼さん。だいたい、なんであなたがここにいるんですの!?」
 俺も起き上がって霞の後ろから覗き込んでみると、袁紹が手元に持っている灯のおかげで、彼女の白い顔と、特徴的な金の髪が闇の中に浮かびあがっていた。
 下から照らされているものだから、少々怖くなってしまっているのはご愛嬌だ。
「えー、そりゃあ、うち、一刀の女やしー」
「な、な、な……」
 霞に向けて、わたわたと手を動かし口をぱくぱくと開いたり閉じたりするものの声が出ないらしく、袁紹は一度気を取り直そうと深呼吸してから、あらためて指さした。
「は、破廉恥なっ」
「えー。破廉恥なことはしてへんよ、なあ?」
「あ、まあ……そうだな」
 添い寝は破廉恥に入らない……よな? いや、どうなんだろうな。
「そもそも、あんたはなんでこんな夜更けに一刀のとこ来たん?」
 答えがわかっているかのようなにやにや顔で問いかける霞。袁紹はその問いに見るからに顔を赤らめた。
「わ、わたくしは……ですから、わ、我が君の天幕で声が聞こえるのを確認しようとっ」
「文醜も顔良も連れんでか? 荒事なんて向かんやろ、あんた」
「と、斗詩さんも猪々子さんも寝ていらっしゃるから、わたくしが来たのですわ。それがいけませんのっ」
 真っ赤な顔で抗弁する袁紹は必死だ。対する霞はにやついて意味ありげな笑みを浮かべるばかり。
「いやー、かまへんけどなー」
 くくっ、と彼女は笑う。挑発するような笑いに、憤然と息をはく袁紹。霞は追い打ちのように言葉をつむぐ。
「せやったら、袁紹は離れた天幕に寝とっても、一刀の天幕の抑えた声が聞こえるんやなー。すごいわ、ほんま」
「そ、それは……」
 じり、と袁紹の足がさがる。
「どうなん? 耳がそれだけええんやったら、隠密部隊にも入れると違うかなー」
 唐突にあああああ、もうっ、と小さい声を連続であげると、袁紹は俺たちに顔を向けたまま、高速で後ずさりはじめた。
「と、ともかく、我が君の就寝を邪魔したりしないで、さっさと自分の天幕に戻りなさい。いいですわね、張遼さんっ」
 奇妙な走法で走り去る袁紹はそれだけ言って闇に消えて行く。おいてけぼりにされた俺としては呆然とするしかない。
「な、なんだったんだ、あれ」
 思わず漏らした俺に、呆れた様子の霞はさらに驚愕の一言を告げるのだった。
「あー? 一刀、そりゃ、あかんわ。袁紹は、あんたに夜這いをかけにきたに決まっとるやん。うちと同じや」
 あの袁紹が、俺に……?

 長安についても、呂布にすぐに会いにいけるというわけでもない。
 霞も華雄もいることだし、訪ねて行って門前払いというほどでもないだろうが、きちんと筋を通す方がいいだろう。まずは霞のほうから使者を立ててもらい、会談の日取りを決めてもらう手筈になっていた。
 だから、長安についたその日、時間の空いた俺は街をぶらつくことにした。忙しそうな霞たちの邪魔をしたくなかったという理由もある。
 護衛には華雄についてもらい、特に目的もなく大都市を散策する。
 袁紹たちも誘おうと思ったのだが、この間の夜以来、話しかけようとすると逃げ出すのでどうしようもない。話す時間を作りたいところなのだけれど。
「やっぱり洛陽とは雰囲気が違うなあ」
「慣れの問題もあるだろうが、西方のものが流れてくるところだからな」
 市場で買った梨を二人でかじりつつ、町外れを歩く。このあたりは屋敷町なのか、白塗りの壁がずっと続いている中に、ぽつんぽつんと門があるという感じだ。
 各屋敷の切れ目がどこなのかいまいちわからないのは防犯上の問題か、あるいは壁の強度を高めるだろうか。
「静かな一角だな。もっと人のいるほうへ行こうか」
 そう言って方向転換しようとしたところで、足元にどんっとぶつかってきたものがあった。
「んー?」
 下を見ると、道路にこてんと転がってもがいているのは、一匹の犬だ。足が短めなのでなかなか起き上がれないらしい。
「おやおや、ごめんな」
 抱き起こすと、抵抗することもなく抱き上げられる。しかも、わふわふっ、と鳴き声をあげて、俺の顔を舐めてくる始末だ。
 人懐っこい犬だな。いや、梨の果汁を舐めとっているのかもしれない。そうすると食い意地のはった犬ということになる。
「わはは、くすぐったい」
 よく見れば犬は赤いスカーフのようなものをつけていた。首輪のようなものだろうか。だとすると飼い犬だろう。
「おや、この犬は……?」
 華雄が犬を見て顎に手を当てて考えはじめる。
 なにか見覚えがあるのだろうか。俺も見覚えがあるような気がしないでもないんだよな、こいつ。
 首筋を指でかいてやると、気持ちよさそうにくぅーんと声をあげる。
「セキトー、セキトー」
 なにかを探しているような声が道の向こうから聞こえてきた。
「ん、おまえのご主人様かな?」
「セキト、どこいったのー?」
 その声の方を向いた華雄が硬直し、異様な緊張感が募るのがわかる。あれ、一体何があったんだ?
「まさ……か……」
 愕然とした呟きが彼女の口から漏れる。そう、まるで死者に出会ったとでも言うような。
「董卓さまっ」
 喉も張り裂けんばかりに叫んだその声の先、大音声に硬直する一人の少女の姿があった。
 以前、董白、と自己紹介されたあのお姫様がそこにいた。

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