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洛陽の巻・第二回:黄公覆、生まれ変わりて北郷に従うこと

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「それで、昨晩は黄蓋を寝かしつけていたってわけ」
 流琉の試作品のコロッケ――俺からみてもなかなかうまくできていて、じゃがいもの代用になにかの根菜を使っているらしく、再現度よりも美味しさのほうに驚いた――をつまみつつ、華琳が問いかけてくる。なんだか睨まれているような気がするんだが、気のせいだろうか。
「俺から離れようとしなかったからなあ」
 あの状態で一人にすることはとても考えられない。もちろん、華琳の言いつけ通り季衣たちも同じ部屋にいて、代わる代わる一晩中様子をみていたのだけれど。
 おかげで朝食を摂り損ねたが、華琳にできあがった料理を披露する場に居合わせられたおかげで昼食ももういらなさそうだ。この厨房にいたらいつでもつまみ食いできると言えばできるんだけど。
「ふぅーん。あら、これ美味しい」
「なんで怒ってるんだ、華琳。ほら、これも食べてみてよ」
 いくつか具材を選んで手巻き寿司をつくって置いてやる。具材が煮染めた魚や玉子焼きなどの熱の通ったものしかないのが新鮮な寿司に慣れた人間としては物足りないところだが、生の食材は出しにくいとなるとしかたない。
 それに狭い卓とはいえ、具材の皿だけでかなりを占めているくらいで、華やかさも充分だろう。酢飯もかなりよく再現されているし、美味しいのは間違いない。
 華琳は俺がつくった手巻き寿司を珍しげにつまんでほむほむと頬張る。
「べっつにー。流琉、この衣はどれくらいの間パリッとしているかしら。宴の間にへたってしまうと厄介ね。こちらの『てまきずし』のほうは、誰かつくるのを実演する人間を置いておくべきかもしれないわ」
「揚げ物は、直前に揚げるしかないかと……余ることは無いと思いますので。『てまきずし』のほうは、やっぱり兄様が実際やってみてくれると助かるんですけど……」
「ああ、いいよ」
 宴席では特に役目を言いつけられていないので、それくらいはできるはずだ。
「それで、結局、黄蓋とはろくに話はできなかったのね。ん、香辛料の香りね」
 鍋をかき混ぜると、カレーのあの香りが漂ってくる。俺にとってはなつかしいくらいだが、やはり、こちらの人にとっては珍しいのだろう。あの華琳がひくひくと可愛らしい鼻をうごめかせているくらいだ。
「いや、そうでもないよ。起きてから色々話を聞いたから」
「だいぶ恐縮されてましたね。兄様、『かれぇ』というのは、こういう感じでいいんでしょうか」
 今回は量はつくってないのだろう、小皿にカレーを取り分けてくれる流琉。少々赤味が強い色あいは、俺の知っているカレーよりは辛そうだが、カレー粉ではなく香辛料からつくっていくとこうなってしまうのはしかたないところだろう。一口含むと、思った通り少々辛いが、俺のよく知るカレーの味だ。
「うん、これはほんとよく再現しているよ。あとは、ご飯にこれをかけると最高なんだけど……。黄蓋さんはこれまでも、やっぱり大きな火を見るとああなったことがあるらしい。追い払われたりして大変だったみたいだ」
「ふぅーん。田舎だと、ちょっと変わってるだけで狂人だと思われることも……わっ。す、少しからいわね、これ」
「はい、兄様のおっしゃっていた香辛料を組みあわせるとどうしてもこれくらいの刺激は」
「ん、ま、まあ、美味しいから、その、いいのだけど……一刀の言う通り、単体よりなにかにつけるほうがいい……かもしれないわね。それで? 黄蓋は赤壁以来どうしてきたのかしら?」
 慣れないカレーの味に目を白黒させつつもずいと身を乗り出してくる華琳に向けて、俺は黄蓋さんがぽつりぽつりと話したことをまとめて話しはじめた。
 黄蓋さんは、どうやら赤壁以後半年くらいは生死の境をさまよっていたようだ。気づくと襄陽の街にある、五斗米道の義舎で看病されていたらしい。
 体が動かせるようになってしばらくは義舎で同じような傷病人の手当などをして己の素性を知る人を探していたらしいが、記憶が無いことがどうしても気にかかり、そこを出たのだという。
 その後は、過去の自分の手がかりを求めて街から街をたどって、ようやく洛陽近くまできたところで路銀が尽き果て、屯田に転がり込んだということだった。
「そこを俺たちがみつけたわけだ。うん、流琉、これ美味いよ」
「そうね、じゅ、充分おいしいわね」
 華琳さん、汗いっぱいかいてますよ。
「ありがとうございます!」
 俺たちの賛辞に花のような笑顔を浮かべる流琉。
 努力が報われるっていいよなあ。俺もアイデアを出した甲斐があるってものだ。正直、昔食べてきたものを伝えているだけで、再現している流琉がすごいんだけど。
「これで、以前につくった『はんばぁぐ』とあわせて四品ね。十品といったけど、十品ちょうどじゃなくてもいいから、よろしくね。それで、黄蓋には彼女自身のことを説明したの?」
 水をたっぷり飲んで、なんとか普段通りの調子に戻った華琳が目線をよこしてくる。
「一応、呉の将だったということを話したけど、信じられないでいるみたいだ。実感がないだろうからね」
 経験があるからわかるよ、とは言わなかった。現代世界に戻った後、短い間とはいえ。この世界のことを、華琳のことを、大切なみんなのことを忘れて――忘れさせられていたなんて伝えるのはあまりに辛すぎる。俺自身思い出したくもない。
 華琳は少し考えると、
「記憶は戻るのかしらね?」
 と自問するように口にした。
「わからないけど、まずは医者にみてもらうことだろうな。目のこともある。あとは、よく知っている人たちと触れ合わせるとか」
 しばし沈黙が落ちる。こういう時の華琳の思考にはとても追いつけない。俺ができるのは目の前のことを精一杯やるくらいだ。
「医者は、華佗を頼るのが妥当ね。それに、やっぱり、呉に知らせるしかないでしょう」
 卓の上をとんとんと指で叩き、考えをまとめるように彼女は言った。
「本来は雪蓮に伝えるのが筋なんでしょうけど……。まずは冥琳に伝えて反応をみたほうがいいかもしれないわね」
「わかった。俺から伝えようか?」
 正直、孫策さんのことを俺はよくわからない。この間、美羽のことを話しに行ったときも、結局ほとんど話らしい話はできなかったわけだし。その点冥琳は真名も許してもらえたし、多少は話をするのに気負いが無くて済む。
 とはいえ、三国の中でも傑出した頭脳の持ち主を侮るつもりはないけれど。
「いえ、微妙な話だし、呼び出しは私が正式にする。一度私が話して、細かい話を一刀から聞いてもらうということにしようと思うのだけど、いいかしら?」
「ああ、わかった。その辺は任せるよ」
「そう。じゃあ、季衣や流琉といっしょに黄蓋をみてなさい。呼び出すか、周瑜をそちらにやるわ。流琉、料理美味しかったわ。また次を期待しているわね」
「はい!」
 そんなこんなで試食会は終わったのだった。

 部屋に戻ると黄蓋さんは季衣と遊んでいたので、しばらく他のことをすることにした。
 俺だって一応色々と仕事はあるのだ。以前のように警備隊長という肩書きがない分、管理に困る仕事がまわされて余計に忙しくなっているような気もしないでもないが……。
 食事の盆と水をいれた瓶を持って、城内の監房に歩いていく。監房とはいっても城内に止められるのはある程度以上の地位の人質やらなにやらなので、ものものしい雰囲気は無い。ただ、他の部屋と違って扉が頑丈になっていたり、閂や錠の作りが違ったりするくらいだ。
 その監房群も戦時とは違い、ほとんどが空いている状態だ。
「入るよー」
 衛兵に閂を抜いてもらい、声をかける。以前は衛兵をつけて入室していたのだが、最近はもうそこまで警戒しなくてもいいだろうと判断している。
「食事を持ってきたよ、華雄」
「ふん」
 寝台にねそべっていた彼女は、こちらをちらと見て鼻を鳴らした。霞に肋を折られ、他にも怪我をしているせいで部屋の中を歩くのも大変な華雄将軍は、未だに俺に対して警戒心を解いてくれない。
「ここに置くね」
 寝台脇の卓に食事と水を置き、卓の下から床机を引き出して、寝台に対するように座る。
「どう? 調子は」
「お前をくびり殺せるくらいには回復している」
 こういう憎まれ口はいつものことなので、もう気にならない。俺――ひいては捕まえた曹操軍に敵愾心を持ち続けられるのは厄介だが、心身の回復を考えるとこういう反発心があるのは歓迎すべきことだろう。
「そっか。部屋の中を何周かできるようになった?」
「うるさい」
 それきり口をきかずに、華雄は食事の盆を引き寄せると猛烈な勢いで食べだした。最初は食事にも手をつけてくれなかったのだが、体を回復させるためには食べることが必要だと説いたら食べることは食べるようになってくれた。
 ただし、いつもかきこむように食べる。もう少し落ち着いて食べればいいのに、とは思うのだが、霞に言わせると元々がそういう性格だし、彼女にとっては現在も戦場にいるのと同じことだからそんな風なのだろうということだった。
 たしかに、華雄にとってこの場所は敵地なのかもしれないが……少々寂しくも思う。
「なあ、そろそろ俺たちに降ることにしてくれないか? そうすれば捕虜扱いせずにすむし、なにより美羽……袁術たちは俺のもとにいるんだし」
 その誘いの言葉に、大きく黒目がちの目をしばたいた華雄は本当に不思議そうに俺の顔を見た。間近に迫られると、びっくりするくらい美人なんだよなあ。
「袁術が私になんの関係があるんだ?」
「だって、美羽たちを取り戻すために城を襲ったりしたんだろ」
「そうだ。だが、それはやつらに一宿一飯の恩義があったからにすぎん。私はやつらに仕えているわけではないからな」
「え、そうなの?」
「あたりまえだ。野盗など再起のための資金稼ぎに過ぎん。……まあ、道に迷ってしまった私を助けてくれたのだ。多少はつきあってやるのが世の道理というものだろうしな」
 ……迷って美羽たちに合流したのか、この人。話に聞くよりひどい猪なんじゃないのか。
「じゃあ、誰が華雄の主なの?」
「董卓様だ。決まっているだろう」
 きっぱりと言い切る華雄に対して俺はなんとなく口籠もってしまう。まさか、董卓が死んだ――劉備軍に始末されたと聞く――というのを知らないというわけじゃあ……。
「……董卓は死んだろう?」
「だからどうした。主が死ねばその志を継ぐのが臣の務めだ」
 恐る恐る切り出した言葉に、間髪を容れず返ってくる答え。その答えに俺は胸をつかれる。
 ああ、この人は、とてもまっすぐな人なのだ。
 華雄が猪武者だなんだと言われつつも部下を統率できていた理由がなんとなくわかった気がした。
「私には文和や公台のような頭もなければ、文遠のごとき用兵の妙もない。だから、己の武で董卓様を守らなければならなかった。だが、それはかなわなかった」
 ぐっ、と拳を握りしめる。もう一方の手で支えている盆がみしり、と軋んだ。
「再びそのようなことがないように、私は武を究めるしかないと思った。だが……また……しかも、文遠に……」
 めきめきと音を立てる盆。ああ、もう、あれ使えないな……。
「霞を責めないでくれよ。あいつだって、別に……」
「あたりまえだ。武人をなんだと思っている。やつはやつのなすべきことをなしたまでだ」
 そう言うと、ぐっと顔を上げ、宣言するように言葉を放つ華雄。
「私は負けた、それは認めよう。だが、折れぬ」
 その言葉はとても強く、しかも芯が通っているように思えた。胸を張ってそう言う彼女を見た途端、俺は自分でも気づいていない内に彼女を猪武者と侮っていた部分があったことに気づいた。
 恥ずかしさから顔が赤くなってくる。
「わかった。無理には勧めない」
 赤くなった顔を見せないよううつむいて、食事を終えた彼女から盆を受け取る。また、食事を持ってくるよ、と言って帰ろうとする俺の背中に不意に声がかかる。
「二周だ」
「え?」
「二周はできるようになった、と言っているんだ」
 さきほどの問いに答えていなかったのを気にしていたのかもしれない。華雄はぶっきらぼうにそう言い捨てた。
「そっか、ありがとう」
 思わず礼を言う俺に、華雄は顔をしかめて、
「変なやつ」
 と言ったのだった。

「武人、か……」
 華雄の言葉を――その重みを――考えながら自分の部屋に戻ろうとしていると、角を曲がったあたりで走る人影をみつけた。よほどの重大事でもない限り、城内で走り回る人間はいない。
 ……春蘭や季衣、それに沙和あたりは除いてだ。
「ん? あれって……」
 しかし、その背中は予想とは違っていた。
「冥琳?」
 俺の声が聞こえたのか、ばたばたと走る冥琳――かなり想像の外にあるが、実際に存在しているのだからしかたない――はばっと振り向くと、恐ろしい形相でこちらに駆け寄ってきた。
「わ、な、なに?」
「こ、公覆殿、黄蓋殿を!」
 焦っているのか言葉がうまく出ないらしく、何度も唾を飲み込む冥琳。こんな周瑜の姿がみられるとは思ってもみなかった。あげくの果てに肩を強く掴まれて、体ごとふりまわされる。
「お、おちついて。冥琳。黄蓋さんなら俺の部屋にいるから。ね、ほら、深呼吸。すーはー」
 がくがくと揺さぶられつつ、なんとか声をかける。あまりの剣幕に近くにいた衛兵が寄ってきたくらいだ。
 それを認めて、ようやく手を離してくれる冥琳。すーはー、と大きく深呼吸する俺にあわせて、冥琳も深呼吸。
 ようやく落ち着いたのか、
「う……う、うむ。すまん。少々興奮してしまった」
 と頭を下げてきた。
「いや、いいよ。興奮するのもわかるから」
「そ、そうか」
 でも、これをいきなり黄蓋さんに会わせるのはまずいかもしれない、とも思う。
 普段の冷静な軍師ぶりがまるでない冥琳と、いまの黄蓋さんでは……。
「ともかく、黄蓋さんは俺の部屋にいるから。そうだな。まずは執務室で話をしないか、冥琳」
「しかし、(さい)殿……黄蓋殿が見つかったとなれば、一刻も早く無事を確認せねば」
「大丈夫。執務室は俺の部屋の隣だし、すぐ会えるように手配するから」
「そうか。……うむ、すまないな、一刀殿」
 素直に頭を下げる冥琳を見て、俺は胸が痛くなった。俺の大事な人が黄蓋さんの立場だったなら、俺は冥琳以上に取り乱していたろうから。
「それで、華琳からはどこまで聞いたのかな」
  場所を執務室に移し、こぽこぽとお茶を淹れながら聞いてみる。冥琳はもう完全に落ち着いたのか、焦っている風もなく、俺が茶を淹れる様子をじっと見ていた。
「黄蓋殿と思われる女性を一刀殿が偶然見つけて保護したということ、赤壁の折に負ったと思われる怪我の後遺症があることくらいだ。詳しくは一刀殿から聞くことと言われたのでな」
 なんだ、華琳のやつ、ほとんど丸投げしてきたのか。まあ、それでも段階をおうことでショックを減らすという効果はあるのだろう。
 冥琳のあの様子からして、いきなり全部話したら刺激が強すぎる。
「そうか。じゃあ、これから大事なことを言うから、落ち着いて聞いてくれよ」
 聞香杯から漂う香りを楽しんでいる冥琳に言う。平静を装っているのか、本当に落ち着いているのか、いまは外見ではわからない。
「まず、怪我だけど、腕や足が動かない、というのはない。だけど、眼が見えにくくなっている」
「眼か……」
 手足は無事だと聞いて、ほっとしたらしい冥琳も、眼が悪いという言葉に少々眉をひそめる。
「それから、これが一番大事なんだけど」
 一拍置く。
 冥琳も居住まいをただして、俺を真っ正面から見つめてくる。
「いまの黄蓋さんには半年から前の記憶がない」
 長い沈黙。
 部屋の外で、鳥が鳴く。
 ぴーい、ぴーい。あれは、鶉だろうか。
「そう……か」
 顔を軽くうつむかせ、俺の手元を見ているようでまるで焦点のあっていない瞳をした冥琳は独り言のように呟く。
「しかし、生きておられるなら……」
 それから俺は、彼女に黄蓋さんから聞いたことをゆっくりと話して聞かせた。
 話し終えると、冥琳はふう、と一つ息をついて、ぐったりと椅子の背もたれに深くもたれかかった。
「お茶のおかわりはいるかな?」
 すでに乾された杯をぎゅっと握りしめている冥琳にそう訊ねる。
「ああ、すまない。いただこう」
 また茶の用意をし、二人で味わう。
 その間も冥琳は何事か考えている様子だったが、時が経つに連れて疲れたような表情は無くなり、気迫がみなぎりはじめるのがわかった。
「一刀殿」
「なに?」
「黄蓋殿にお会いしてもよろしいかな」
 こくりと頷く。無言で立ち上がると、彼女もそれについてきた。短い廊下とも言える小部屋を介して自室につながる扉をあけ、二人でそこを通過する。
 部屋に入ると、たのしそうな季衣の声が聞こえてきた。
 あいかわらず黄蓋さんと遊んでいるようだ。いや、流琉の声も聞こえるからみんなで食事を摂っていたのかもしれない。
「ただいま」
「あ、兄様」
「兄ちゃんおかえりー」
「お帰りなさいませ、旦那様」
 姿を現すと、三者三様の言葉がかかる。思った通り三人はいっしょに食事をしていたようだ。
 どうやら、また試作品を作ってきていたみたいだな。今日は天麩羅だったようだが、ほとんどは食べ尽くされている。うん、天麩羅は揚げたてが一番だしな。
 黄蓋さんの姿を認めたのだろう、俺の背後で息を呑む気配がする。
「あれ、周瑜さんだ」
「おや、お客様ですか」
 冥琳の足元で、ぎゅっ、と小さな音が鳴る。黄蓋さんの言葉に後退ろうとした自分の足を無理矢理止めた冥琳の靴が鳴らす音。
 彼女の心境を思うと、胸が苦しい。
「こちらは、周公瑾さん。呉の重臣で、黄蓋さんの昔のことをよく知っている方だよ」
「おお、これは失礼をした。儂の過去を知っておられるとは心強い。ぜひ教えてくだされ」
 にこにこと笑顔を浮かべて礼をする黄蓋さん。
 それに対して冥琳がどんな顔をしたかはわからない。俺は振り向かずにいるのが精一杯だった。
「周瑜と申します。以前のあなたには大変お世話になったものですよ、黄蓋殿」
 するりと優雅な仕種で前に出る冥琳。その笑顔の裏にどんな感情があり、どんな辛苦が隠されているのか、俺には想像もつかなかった。
「いやいや、儂のようなものが、あなた様のような立派な方をお世話するなどとても恐れ多いことで……」
「そんなことはありませんよ。公覆殿。それはともかく、お食事中だったようですな、どれ、私たちもお相伴してよろしいですかな……。おっと、残りが少ないですな、遠慮しましょう」
 流れるように言う冥琳になにか感じたのか、流琉が慌てて立ち上がる。
「あ、厨からもってきますね。兄様に試してもらうのに、追加で揚げたいですし」
「おお、それはご足労をかける。となれば、私もお手伝いしましょうかな。よろしいですかな、北郷殿」
「ああ、そうだな、俺も手伝うよ、流琉。季衣は黄蓋さんと留守番していてくれるか?」
「ふわーい」
 残りの天麩羅を頬張っていた季衣が元気に返事をするのを見届けて、俺たちは連れ立って部屋を出る。少々不安そうな表情を浮かべる黄蓋さんに、
「では、公覆殿、お話は後ほどゆっくりと」
 と冥琳は声をかけるのだった。

 部屋から出ると、流琉が耳打ちしてくる。
「兄様、食事はわたしが一人でもってきますから」
「ああ、俺たちは執務室にいるから、持ってきたとき声をかけてくれるかな」
「はい、わかってます」
 色々と察しているのだろう流琉は、ぱたぱたと一人去っていく。
 俺たち二人は無言で執務室に入った。
 見張るように扉の前に立った俺の前で、冥琳は部屋の中をうろうろと落ち着きなく歩いている。その顔はなにかを懸命に考えているようにも、必死で胸の内のものをこらえているようにも見えた。
「人の想像力というものは、限度があるものだな」
 不意に呟く声に、答える術を俺は持たない。
「祭殿が生きているなどと想像もできなかった。ましてや、あのようになっておられるなどとは」
 一言一言が毒のように鋭く紡ぎだされる。
「そして、私があんなに冷酷に受け答えができるとは」
 誰か知っているなら教えてほしい。
 涙を見せずに泣いている女(ひと)を俺はどうやって……。

 気づくと俺は冥琳を後ろから抱きしめていた。
「一刀殿!?」
 冥琳の驚愕の声に我に返る。
「あっ、ごめん、ついっ」
「つい、ですと?」
 怒りでも嫌悪でもなくただ不思議そうに訊ねる声に、俺は思わず心の中を素直に現してしまう。
「あの、なんて言うか、小さな子が泣いているように思えて、つい……その」
「ぷっ」
 言った途端、腕の中で冥琳の体が震えて吹き出した。くつくつと声を漏らして笑うその体が緊張を解いて俺にもたれかかってくる。たっぷりの黒髪が肩から胸にかかり、やわらかくゆらぐ。
「無防備に後ろを取られ、腕にからめ捕られるなど一生の不覚ですな。たしかに私はおかしかったようだ」
 半ば振り返った横顔にどきりとする。切れ長の瞳がからかうように揺れる様は、とても綺麗だった。腕の中の体は、予想以上に細くて折れそうな気さえする。
「えっと、少しは落ち着いた?」
「このように抱きしめられて、私が落ち着いた方がよいのですかな? 殿方というのは女子をときめかせるほうがお好きと思いましたが?」
「やだな……冥琳くらい魅力的な女性ならそういうことも思っちゃうけど、今は違うよ」
 言った途端、彼女の顔がかっと赤くなった。
「……あなたという人は……」
 それ以上なにも言わずに、俺たちはしばらくの間そのままでいた。二人の体温が交じり合い、呼吸も同じ調子に整っていく。
 物音は一切せず、この世界に俺たち以外は誰一人いない気さえしてくる。
「一刀殿」
「ん」
「……ありがとう」
 そう言うと、冥琳は俺の腕の中で体に力を入れてしっかりと立つように重心を動かした。俺もそれに応えて腕を放す。
 離れてみると……少々名残惜しい。こんな美人を抱き留めることなんてそうそうないことだ。
「ふふ……」
 軽く笑った冥琳が、その時なにを思っていたのかはわからない。
 でも、もし、彼女も同じように名残を惜しんでくれていたのなら、うれしいと思った。

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洛陽の巻・第二回:黄公覆、生まれ変わりて北郷に従うこと」への2件のフィードバック

  1. 赤壁の戦いにて苦肉の策に掛かった振りをして返り討ちにした黄蓋が、
    記憶喪失状態だけど生き延びてました・・・と言うお話ですけど、
    魏軍も呉軍も「死亡確認!」だと思っていたと言うのに、
    戦場にゴッドヴェイドーの医師達が従軍してた訳でも無いのに、
    本当にどうやって命を繋ぎ止めていたんでしょうなぁ?

    •  祭さんに関しては孫堅様が、地獄の鬼をだまくらかして、命の蝋燭を継ぎ足したんじゃないでしょうか。
       いや、結構まじめにそんな感じではないかと……w

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