「漢室の命数はすでに尽きた」
その日の評議は
三国の間で起きた戦乱が収まってすでに四年。俺がこの世界に戻ってきてからでも三年になる。
最初にこの世界に迷い込んでからでは……。
さて、何年になるんだっけな?
俺が消えていたのは、この世界では一年ほどに過ぎなかったらしいが、俺自身の体感時間では五年もあった。そのせいか、どうもうまく計算ができない。まあ、あの頃のことは思い出したくもないんだけど……。
おっと、考えがそれたな。
ともかくその間――いや、それ以前から、漢帝およびその周辺は、この大陸の安定を支えるどころか騒乱の種になることのほうが多かった。
反董卓連合の一件がいい例だ。すでに支配者としての実力はないと言っていいだろう。
「我らに歯向かうものもなくなり、大陸が完全に平定されてしばらくたつこの折、そろそろ旧き時代の天子にはご退場願おうと思う」
さすがに軽くざわめきが起きる。
いかに権威が失墜した帝室とはいえ、いざ排除するとなると、それなりにためらいがある者も多い。
この場に集まっているのは、俺が最初にこの世界に来た……つまりは魏が大陸の覇者たらんと動いていた頃からの古参の将たちだ。
華琳に忠節を尽くす彼女たちは、世間の人間よりは漢の権威への恭順度合いがずっと薄い。
それでも、なお……。
「お前たちうるさいぞ。私語せず、ちゃんと発言しろ」
あ、さすがに
「では、禅譲を受けて、華琳様が帝位にのぼられるとー?」
いや、桂花が俺の知っている歴史の荀文若と同じ行動をとるとは、とても思えない。
「いいえ、私じゃないわ。簒奪も寝覚めが悪いしね」
軽く、けれどいたって真剣な声で華琳は答える。
その後に続いた沈黙の意味は、誰しもがわかっていただろう。だが、あえて尋ねる者はいない。春蘭でさえ、秋蘭に目配せはしているものの、疑問を声にはしないでいる。
華琳は面白そうに部下たちを睥睨するばかり。ああいう意地悪な顔をさせると、本当に似合うよなあ。
かわいいからいいけど。
「それじゃ、誰にするんだ?」
いい加減焦れたのだろう華琳と桂花が俺に視線を向けてくるのを、『オマエガタズネロ』という暗黙の指示と酌み取って口を開く。
「天子なのだから、天の御遣いのあなたに決まってるでしょ、一刀」
「ああ、俺か。……って、ええええええええええぇぇっ!」
俺を含めた何人もの驚愕の声が広間にこだました。
玄朝秘史 ~開幕~
皆に驚天動地の衝撃を与えておきながら、華琳はあの後一方的に評議を打ち切った。
この件について上申したきことがあれば――賛成にしろ反対にしろ代替にしろ――次の評議までにまとめておくようにと申しつけ、三軍師を連れてさっさと出て行ってしまったのだ。
俺はというと、皆があっけにとられている間に猛ダッシュでその場を離れ、自室に駆け込んだ。ただいま、扉に内側から鍵をかける作業に従事中。
これでも本気になった春蘭や
「なにやってんの、あんた」
不意にかけられた声に振り向くと、かわいらしいメイド服――この衣装を考えたやつは天才だと思うね!――に身を包んだ少女が二人、寝室から出てくるところだった。
「あ、
「あ、じゃないわよ。なにやってんのって聞いてるの」
勝ち気そうにふんぞりかえった少女がきつい口調で問いを重ねてくる。その態度も、ミニスカートのメイド服を着込んでいたら愛らしいものにしか見えない。
これが稀代の名軍師だと誰が想像できるだろう。
「ちょ、ちょっと一人になりたくて、部屋に鍵をかけてたんだ」
「あっそ。またなんかやらかしたんでしょ」
「へぅ……。お邪魔でしたら、すぐ出て行きますけど……」
申し訳なさそうに言うのは、触れれば崩れ落ちそうなたおやかな少女。こちらはロングスカートのメイド服に身を包み、さっきまで掃除でもしていたのか、濡れた布を持っておろおろしていた。
これが魔王と言いはやされる董卓っていうんだから、世の中ってわからない。
「あ、いいんだ、月は。でも、よかったらお茶を淹れてくれるかな。落ち着きたいからさ。それから、詠、またってやめなさい、またって。今回は俺はなにも悪くない」
……たぶん。
「ちょっと! 『月は』ってなによ。……いや、まあ、それはいいわ、で、なにがあったの」
掃除道具を片づけて卓に座り込む詠。月のほうはお茶を用意してくれている。
「いやー、それが口外していいものかどうか……。だいたい、詠、なんで今日はいなかったんだよ。普段の評議は出ているくせに」
月と詠――董卓と賈駆の来歴は少々複雑だが、いまはここ洛陽で、俺といっしょに働いている。さすがに賈文和はともかく董仲穎の名前は出せないので、月はもっぱらメイド――俺つきの侍女の仕事をしているのだけれど。
「あんた、ばっかじゃないの。今日の評議は魏の臣だけの、内々の評議じゃない。ボクみたいな陪臣扱いの人間が出られるわけないでしょ」
「んー?」
「……あんた、もしかしてわかってないの?」
はあぁ、と大きく溜め息をつかれる。いつもみたいに怒鳴りつけられるより堪えるぞ、これは。
「詠ちゃん、お茶はいったよ。ご主人様もどうぞ……」
いい香りが鼻をくすぐる。月の淹れるお茶は美味しいから楽しみだ。
「ありがとうね、月。ほら、せっかく月が淹れてくれたんだから、さっさと飲みなさいよ、このばかちんこ」
「詠ちゃん……」
「うっ、でも、こいつったら、ボクたちの立場とかまるっきりわかってないんだよ。自分の立場とかさー。しばらく役職離れたと思って、暢気にまあ……」
「……詠ちゃん」
ほんの少し強く言う月に、詠が見るからに動揺する。そのいつも通りのやりとりを、なんとなく微笑ましく思う。
うん、こういう空気は実にほっとするね。
「しょうがないわね、月に免じてこの賈文和さまがあんたにもわかるように説明してあげるから、聞き逃さないようしっかり注意してなさいよね」
「うん、ありがとう、詠」
「な、なによ、急に素直に礼なんて言ってるんじゃないのよ。この莫迦。……ええと、まず、あんた自身があんたの地位を認識してないと思うんだけど。あんたは、形式上で言うと、曹操の客将なの。いまでもね」
いや、まあ、わかってないわけじゃないぞ?……客というにはぞんざいな扱いの気もするが。
もちろん、いまさら距離を置かれた対応をされても困ってしまうだろうけれど。
「それで、ボクや月はあんたの預かり、つまりは臣下なのよ。だから、曹操からしてみたら、ボクは客将の軍師だから、意見や上申を聞くことはあっても、それ以上のことはさせられないわけ」
「え。詠ってば、俺の軍師?」
すい、と眼鏡の奥の瞳が色を失う。あ、まずい、と俺は息を呑んだ。
「殴る前に、なんだと思ってたのか教えてくれる?」
殴るの前提かよ!
「……メイドさん?」
「月、こいつ蹴ってもいいよね、蹴るべきだよね。この、莫迦っ! ちんこっ!」
「いてっ、蹴りながら言うなって。いて、いて、痛いってば」
「詠ちゃん……ご主人様にそんなことしちゃだめだよ……」
卓の下で俺の足を蹴ってくる詠。その裾をひっぱる月。
「ああ、月は優しいなあ。お茶も美味しくて最高だなあ」
ついかわいすぎて月の頭に手をやってしまう。
なでりなでり。
「へぅ~」
「あーもうっ、月に気安く触るな、このちんこ大王。ともかく、ボクは華琳の直接の部下じゃないから今日の評議には参加できなかったの。わかった?」
「あ、うん、わかった……。でも、前々から思ってたけど、なんで華琳は俺を適当な地位につけて部下にしちゃわないんだろう。そうしたら、詠だって部下の部下だから命令することはできる。形式はさっき聞いた通りだろうけど、実質的には部下と変わりないわけだし……」
俺がもっともな疑問を口にすると、月と詠は顔を見合わせて、どちらもなにか諦めたような苦笑を浮かべた。
なんだろう。なにか変なことを言ったろうか。
「ま、それはいいわ。今日、なにがあったのよ」
「いや、俺の軍師なら、主の疑問をだな……」
「な・に・が・あ・っ・た・の」
部下を扱うのってたいへんですよね。
からかい続けてもしかたないので、素直に明かした。
一応は口止めの後でだ。月たちが言いふらすようなことはないと思うが、念には念を入れておく方が良い。
また暗殺者とか差し向けられたらたまらないし。
「ふーん」
「へぅ、ご主人様が、天子さまですか……」
なんだろう、この落ち着きぶり。二人とも評議の場にいた面々のように叫んだりもせず、淡々と華琳のトンデモ発言を受け入れているような……。
「あ、あんまり驚かないね」
「ボクは予測してたもの」
予測していたって? いったいどうやって……?
賈文和恐るべしと言うべきか、それとも俺があまりに考えなしなんだろうか。
「私たちの時みたいに、華琳さんが責められたりしないでしょうか……?」
「それは大丈夫でしょ。言ったでしょ、予測していたって。最近はほとんどこの城に隔離されてるようなボクでさえ予測できるってことは、曹操はそれだけの準備をしてきたってことよ。たぶん、ボクが知ることができないような部分でも色々しているはず」
こう自信たっぷりに言い切られると、なんだか俺が間違っているような気がしてくる。
「えっと、詠さん? その予測の根拠を俺にもわかるように教えてくれないかな」
「全く、あんたは自分のことに関しては全然注意を払ってないんだから。そうねえ、まず……」
ぶつぶつと文句を言いつつも丁寧に展開されていく詠の説明を聞きながら、俺は思い出す。
この世界に戻ってきてからのこと。
会いたくてたまらなかった人たちと再会したこと。
そして、新たに出会った大切な人々のこと。
そんな大事なたくさんの出来事を――。
注意事項

ただ、物語からの情報だけでもわからないことはないはずだから、そうやって楽しみたいという人は読み飛ばすほうがいいでしょうね。
この物語のそもそものはじまりは、『真・恋姫†無双』の魏ルートEND。
だけど、『玄朝秘史』のはじまりは、北郷一刀が華琳の前から姿を消した後、再びこの世界に現れてからほんの少し経った時点になるわ。
この『序』からは三年ほど前のことね。
その時点での大陸は、魏を覇者として認めつつ、呉、蜀もそれぞれに領土を治めている、そんな状態。
三国の実力者たちは定期的に連絡を取り合って、交流している。まあ、うがった見方をすると監視しあっているとも言えるわね。
とはいえ、戦乱の世に戻ることを望んでいる奴なんていないし、表向きは平和そのもの。
たいていの者は、かつての敵であっても真名を交換しあって、仲良くやってるわ。ボクたちみたいに隠遁してるのも含めてね。
ただし、袁家の連中はほとんど無視されてるわね。
袁術たちはこの時点では行方知れずだし、袁紹のほうも、騒がなければ誰も相手にしないという感じ。
そういえば、華雄もどこいったのかしら……?
ともかく、大陸には平和が訪れている。
けれど、もちろんそれは曹魏の圧倒的な武力あってのことで、安定しきっているとはとてもいえない。
そんなところに、再び天の御遣いが帰ってくる。
そうして、時が流れ、この『序』にあるように登極を勧められることになるんだけど……。まあ、それはずいぶんと先の話。
まずは、それまでの物語を楽しむといいと思うわ。
はい、これで説明はおしまい。また機会があったら会うこともあるかもね。
ふと何の気なしの思いつきで検索してみたら、このサイトを見つけました。
リニューアルオープンしたという事は、章立てやら誤字脱字の訂正がやっと完了したということでしょうか。あれだけ長い作品を一から最後まで読んで訂正をするのはさぞ大変であろうと、ご苦労を察します。
それにしても懐かしい。連載当時、毎週毎月続きが読めるのを楽しみにしていたものです。
この作品は、頭から三周くらい読みました。気に入った話は、そこだけをまた何度も読みました。とぐりしゃんゆーに極限まで追い詰められ、崖の上に旗が翩翻とはためく場面は、特に心に残っています。
他にも名場面は沢山ありましたが、これを機会にまた読み直して、新たな感動に浸るのも面白そうです。
なんにせよ、昨今のお忙しい中、失踪せずに戻ってきてくれたことが、一読者として大変嬉しいです。
今後定期的にこのサイトに訪れますが、都度はコメントを残さないと思います。けれど、陰ながら応援しています。もちろん、なにか盛り上がりたいネタがあれば書き込みます。たぶん、おそらく。
それでは、季節の変わり目ですので、お体にお気をつけて下さい。草々。
コメントありがとうございます。
本当に、長い連載でした。つきあってくれた読者の方々には感謝の言葉もありません。
少しでも皆様を楽しませることが出来ていたなら幸いです。
リニューアルに関しては、いまだ誤字脱字修正も完璧ではないとは思いつつも、始めなければ終わらないという感覚でやっております。
正直なところ、サイトに出してみないとわからない部分もあったりするので……。
シーンもいくつか足していかないといけませんしね。
それでも続けていくことが肝要だと思っております。
ぼちぼちやっていきますので気が向いた時に覗いてくださいませ。
どうも初めまして、漸く更新され始めたみたいで、喜ばしい限りです。
それでですね、お願いと言っては何ですが、時折コラムが載る時があったでしょう。
その中でも特に、「五十公家列伝」とか面白くて気に入ってたりしたのですが、
話の末尾に添えられていた為に、探し出すのが手間だったと言うのがありまして…。
場合によっては、コラムがオチに使われていた話もあったので、
話の末尾に添えるのはそのままで構わないのですけれど、
それ以外にも、コラムだけを抜き出しで読みたい時の為に、
出来るならばコラム集を別項目として設けては頂けないでしょうか?
コメントありがとうございます。
ご要望の件ですが、五十皇家列伝等は(この次あたりに掲載予定でおりますが)カテゴリ分けをして、1ページにまとめる予定です。
自分のサイトですから、出来る限り読みやすいようにリンクを駆使していこうと思っております。