第十八回:出陣

1 2 3

 

2.対峙

 漢水を挟んで存在する二つの都市、襄陽と樊城。
 それは荊州にとって、そして、漢土全体にとっても重要きわまりない拠点である。
 しかしながら、三国鼎立の後、樊城は魏が継続して支配していたものの、襄陽には政治的空白が生じていた。
 荊州の治所であるという、まさにその理由で、この地を実質支配する呉、蜀の両国どちらもが手出しを控えた結果、政治的にも商業的にも非常に重要なこの都市は、強力な支配を受けることなく、樊城に駐留する魏軍が間接支配するに留まることとなっていた。
 その任をここしばらく受け持っていたのが魏の将、龐徳。
 彼女は西涼の出身で、かつて馬騰配下であったが、西涼勢の蜀行きには参加せずに、魏に降って魏将として戦乱を生き抜いた。そうして戦後も樊城駐屯軍のうち半数を支配下に置き、襄陽とその周辺の治安を維持し続けてきたのだ。
 だが、その事情が一変する。
 北伐の本格始動とほぼ時を同じくして北郷一刀が荊州牧に任じられ、その名代を名乗る白い仮面の女性が襄陽の守将として派遣されてきたのだ。しかも龐徳はその顔もわからぬ女の下に配されることになる始末。
 配下の兵は増えた。なんと、一万に満たぬ数から、一気に三万だ。
 主将であるはずの仮面の女が五千しか率いないこともよくわからなかったが、それ以上に彼女は納得いかないことがあった。
 州牧となった北郷一刀は、まあいい。
 魏軍で彼の名を知らない者はいないし、曹孟德との関係を考えれば力を貸すのもやぶさかではない。何度か話したこともあるが、悪い人物ではないと感じた。
 だが、孫とか名乗るあの女は一体誰だ。
 いきなり現れた素性すら明らかでない人物を上官と仰ぐなど、どうやっても承服出来ない。
 顔を明かせないのは怪我を隠しているからだとか、実は名のある将だとか噂ばかりが姦しいが、実際はただやましいからに違いない。
 武人が怪我を恥じてどうするというのだ。まして、有名なら顔を隠さずその名を使って戦えばいいのだ。
 さらに神経を逆なですることに、いつの間にか黒い仮面を被った女まで側近として現れた。ついでに袁術と張勲などという過去の遺物まで参陣してきた。
 怪しいことこの上ない。
 彼女ならずとも思う展開であった。
 しかし、龐徳が抜けた樊城には、荀攸と徐晃が入ってしまい、戻るわけにもいかない。
 その樊城の太守荀攸に白面の女性の事を聞いてみても、ともかく従えの一点張りだ。この様子だと洛陽に問い合わせても同じ結果になるだろう。
 仕方なく、彼女は不満を抱えつつも兵の訓練に明け暮れることとなる。
 しかし、そんな状況では配下も落ち着かず、士気も上がらない。
 そのことに気づいたのか、白面の女性は副将である龐徳との模擬戦を申し出た。
 訓練の総仕上げとして一万五千を率い、自分が率いる五千を倒して見せろというのだ。
 三倍の数を提示されたことにも、実績もなにもない将にそんな申し出を受けたこと自体にも、嘲弄を感じずにはいられなかった。
 そして、彼女はそれを承知で演習の一環として模擬戦を行う事を諒承した。
 ただし、率いる兵はこちらが一万とした上で。
 同数にまで落とさなかったのは万全を期したのと、なによりこちらを軽く見たことを後悔させてやるためだった。

 そうして、彼女はいま漢水沿いに布陣している。
 相手の軍――龐徳は心の中で白面軍と呼んでいた――は襄陽の堀近くに陣を布いている。
 白面軍が襄陽の駐屯軍、龐徳軍がそこに攻め寄せてきたという想定なので、守備側は城壁内に位置していてもいいのだが、演習で城壁を傷めたりしたくないのと、野戦で十分対応できると軍師格らしき黒い仮面の女性が言い切ったための結果であった。
 まったく、なめられたものだ。
 龐徳は思わざるを得ない。
 これでも白馬将軍とあだ名されるくらいの実力はあるのだがな。
 そう、彼女は独りごちる。
 そのあだ名も、白馬長史こと公孫賛が北郷一刀の下に身を寄せたことで使われることはなくなってしまったけれど。
 とはいえ、実際、白面軍は壮語するだけの用兵はして見せていた。
 三日の演習期間のうち、初日と二日目、龐徳側は優勢に攻め続けながらも、けして決定的な機会を捉え切れなかったのだから。
 それというのも包囲して敵兵をすりつぶそうとする度にするりと逃げられるからであった。
 あの退き際の見極めとその整然とした様子は見習わねばならない。
 彼女はその点については、感心していた。
 だが、感心してばかりもいられない。仕方なく最終日の今日、龐徳軍本陣は、より敵陣に近い川の縁に陣を移した。まさに背水の陣と言える。
 だが、この本陣の六千がじわじわと圧力をかけている間に残りの四千が広がることで、包囲が完成するはずなのだ。
 包囲しきれば、あとはこちらの数の多さが決着をつけてくれる。龐徳は遠くない勝利を確信していた。
 敵の動きは鈍い。
 いや、脆いと言ってもいい。
 これまでのようにすり抜けることを阻止すべく水際を封じたのだから当たり前なのだが、それでも彼女と部下たちはすこぶる機嫌が良かった。
 その音を聞くまでは。
 それは、多くの櫂が一度に水面を打つ音。
 それだけならば、いい。
 ここは漢水の畔。多数の船が行き交う場所だ。だが、あまりに近すぎた。あまりに大きすぎた。
 そして、一隻につき五百人も乗せられようという三隻の巨大船が上流から怒濤の勢いで下ってくるのは、しかも、その舳先が下流ではなく、本陣を真っ直ぐ目指しているのは異常事態と言う他なかった。
「何事だっ」
 叫んだのは誰だったか。
 あるいは、龐徳自身であったかもしれない。
 だが、巨船に翻る旗を見れば事態は明白だ。
 旗印は孫。
 遠目には孫呉の牙門旗と見まがうような意匠のその旗を見れば、誰がやってきたかはすぐにわかる。
 嫌な音が周囲を満たした。
 何本もの櫂が折れる音、木の船底を大地が削る音。
 耳を聾する破壊音をまき散らしながら、船は勢いのままに岸に乗り上げていた。がりがりとその船体を傷つけながら迫り来る威容に、本陣の兵が逃げ惑う。
 怒号と、驚倒の声と、恐怖に戦く悲鳴とが入り交じり、指揮系統は明らかに乱れた。
 そして、速度が殺され始めたところで、船から次々に飛び降りてくる兵士の群れ。
「突撃!」
 その先頭には、大刀の柄を伸ばし、刀身と合わせて身長ほどの長さとした長巻を掲げる白い鬼面の姿があった。
 彼女がそれを振るう度に、兵の体が地に倒れ、本陣への道が開けていく。刀の背で打っているから死ぬことはないだろうが、打ち倒された兵はいずれも骨の一本や二本折れていることだろう。
 だが、その見事な戦いぶりが無くとも、本陣はすでに崩れ、その崩壊を止めるべく諸将が動くには遅すぎた。
「ま、よくある手よねー。ちょっと船がもったいないけど」
 真っ直ぐに切り込んできた白い鬼が、無骨な刃をのど元に突きつけてきても、龐徳は未だに驚愕から抜け出せていなかった。
 それこそが敗因だ、と彼女の中の冷静な部分が指摘する。
 奇襲一つに、船に重大な傷を負わせるのはたしかに贅沢な話だが、しかし、効果的なのは否定しようがなかった。なにより大事なのは、船による奇襲を可能とするこの場所に陣を築くよう龐徳が誘導されたという事実だ。
「うん。これも勉強ってことで。少し本陣の兵の調練が足りていないわよ」
 いっそ優しいと言えるほど冷静な声で指摘される。
 ああ、侮られるのも当然であった、と思うしかない龐徳。
「さて、あなたの入る棺は用意してあるかしら?」
 微笑みながらそう言われて、彼女はがっくりと肩を落とした。
 この後、龐徳は前線に出る時には常に己の棺を携行し、不退転の決意を示したというが、これはまた別の話である。
 いずれにせよ、この鮮やかな結末によって新参の将への見方は変わり、襄陽の城内の結束が強まったことはたしかであった。

 船や陣の始末を負けた龐徳に押しつけて、悠々と引き上げてくる白面の将軍を出迎え、黒い仮面の女性は鋭い語調で語りかけた。
「一人で突出するのが好きなのは変わらんな。しかし、そろそろお遊びは終わりだぞ、雪蓮」
 馬を並べ、兵とは少し離れた場所を進みながら二人は会話を交わす。
「へぇ。動いた?」
 仮面の奥の瞳をきらきらと輝かせ、雪蓮は確認する。驚きはなく、ただ、ようやく来たか、とでも言いたげな表情だけがある。
「ああ。漢中に兵五万、江夏に七万。蓮華様はかなり気合いを入れてきたな」
 冥琳はそう評価したが、しかし、雪蓮は口をへの字に曲げた。
「それでも倍かー。あの娘もまだまだかしら?」
「十万を超えれば魏の介入があると見たのだろうさ。流れに乗ってやってくる蜀軍に加えて、呉の水軍七万はなかなかの脅威だ」
 水上では太刀打ちできまいよ、と彼女は続ける。雪蓮も今度は彼女の言葉に素直に頷いた。
「まあ、思春も来るだろうしね。なんにせよ……」
 その顔が傾き、視線が背後を向く。その先にあるのは漢水、そして、遥かな北の地。
「ここまでは、一刀も私も、それに冥琳、あなたも同じ読みよね?」
「ああ、そうだな。そうなるように全てを図ったからな」
 冥琳は肩をすくめて答え、その動きにつられて豊かな胸が大きく揺れた。
「だが、ここからはわからんな。流れを導くために関を作っては見たが、方向を変えられた川が狂濤となって全てを台無しにしてしまうことはよくあることだ」
「そう、流れに乗った者にも意思はある。そして、流れの中にいる者にすら止められない場合も……いいえ、流れの中にあるからこそ、かしらね」
 白面の女性の露わになった口元が強く真剣な意思を込めて引き締まった。
「そこまで、一刀は読み切れたと思う? 冥琳」
「さて」
 馬に揺られつつ、闇色の面はいずこを見ているか、その視線も定かではない。だが、彼女ははっきりとした声で盟友の問いに答えるのだった。
「しかし、その読みが外れていれば、漢水と荊州の大地は血に塗れような」

1 2 3

第十八回:出陣」への1件のフィードバック

  1. 冥琳さmが相手をしているのか→冥琳さまが相手をしているのか

    お暇なときに修正お願いしますm(_ _)m

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です