第十八回:出陣

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1.出陣

「袁術とは」
 明命からの報告を受け、呉王孫仲謀は天を仰いで慨嘆した。
「姉様はなにを考えているのやら」
 喉をさらして上を向いたままの主を前に、部屋にいる残りの二人、思春と穏は無言で目配せを交わす。そして、ついに思春のほうが口を開いた。
「……我らに読めないという意味では、ある意味いつも通りとも言えますが」
 はっ。
 思春の半ば皮肉とも言える感想に、蓮華は肺に溜まった空気を全て絞り出すような声で笑い、体を戻す。
「たしかにな。言い得て妙だ」
「しかしですねー、悔しいですが、さすがは冥琳さまですよー。地味に効いてきてます。特に呉の民や兵士にとって、あの袁術さんが挑発してくるとなればー」
 穏は『あの袁術』と強調して言う。その意味は二人も重々承知していた。
「あれも少しはましになったと思っていたのだがな……」
 思春は思わずこぼすが、穏はそれに笑って答える。
「いえいえー。本人がどうでも、周りがどう思うかですからねー。いまの実態を知っているのって洛陽の人間だけじゃないですかー?」
「それもそうだ。姉様や冥琳は、あやつのかつての負の印象を最大限利用しているというわけだろう」
 気を取り直したのか、蓮華は冷静な声で穏の言葉に続けて自身の分析を口にする。彼女は自分の前に置かれた茶を手に取ると、口をつける前に穏に尋ねた。
「さて、我らが兵士たちが暴発するまであとどれほどだ?」
「こちらの動き次第でしょうねー。軍を動かす格好だけでも示せば、暴発はないでしょう」
 頷いて茶を口に含む。それを喉に落としてから、彼女は思春に向き直った。
「水軍の用意は?」
「夏口、江夏、柴桑に分散させてあります。もちろん、いつでも夏口に集合できます」
「そうか」
 蓮華は茶杯を置き、とんとんと指で何度か卓を弾いた後で、語り始めた。
「一刀は精一杯呉のためを考えて言ってくれたのだろうし、あるいはいまの姉様の行動もそうなのかもしれん」
 とん。
 彼女の指がもう一度卓を弾く。
「だが、やはり立場というものが違う」
 その言葉に、思春も穏も揃って頷く。
「納得する部分もあるし、賛同する部分もある」
 形式論で言えば、全ての領地は漢のものであり、それを州牧が直接統治すると言われれば、本来は抗えるはずもない。
 しかし、そんな形だけで物事は動かないのだ。
 呉と蜀がもめているから、そのもめ事の原因を呉からも蜀からも取り上げよう。
 その考えは、明快ではあるが、理想論どころか暴論というものだ。
「それでも、譲れないものがある」
 彼女はそう言い切った。
 一人の女性としてではなく、王として、この地を愛する孫呉の一員として、譲ってはいけない部分があった。
「魏が肥大化し、一人勝ちになりつつある。そのこと自体は、呉としては気にならん。蜀にしてみれば別かもしれんが、呉には呉の立場というものがある。我らは、この江東と江南の地さえあればいい」
 彼女はそこで言葉を切り、きっと強い視線を筆頭軍師に向けた。
「では、その地を守るために必要なものとはなんだ、穏」
「力、ですかね。経済力と軍事力。やっぱりこの二つだと思います」
 その答えに、彼女は満足したように頷く。しかし、それでも言葉は続いた。
「ああ、正しいな。その通りだ。しかしな、穏。残念だが、それでは民にも兵にも伝わらない」
 だから、彼女は続ける。この土地に生きる者の言葉を語るために。父祖から引き継いだ孫呉という存在を示すために。
「我が孫呉が必要とするもの、それは、汗と血だ」
 両手が前に突き出される。その握られた拳が、ぐっと上に持ち上がる。
「汗を垂らして米を作り、熱い血をもってこの地を守る。それが、孫家だ。それが呉だ。我らは魏の良き隣人であり、良き商売相手であり、そして、侵してはならない相手……手強い存在でなくてはならない。
 江水を渡るのは得策ではないと、益よりも害のほうが大きいと思わせる必要がある」
 たとえ、強大な戦力で攻め寄せてきたとしても、それをあくまでも阻む力があると、孫呉なくばいつまでも江東は治まらないと知らせる必要があった。
「どれだけ魏が巨大化しようと、どれほど領土を得ようと、江東に攻めるよりは、良いつきあいをするほうがいいと思わせる必要がある」
 今回、魏は直接に攻めてきたわけではない。朝廷の権力を後ろ盾に、荊州の土地を取り上げると言ったまでだ。
 そこで交渉の余地を残してくれたならば、呉としても解決の糸口を探る努力を放棄したりはしなかったろう。
 しかし、打ち切ったのはあちらだ。
 袁術という存在を出し、呉を挑発する。
 そのことの意味を一番理解しているはずの二人があえてそうしたということは、もはや言葉で語る時は終わったと宣言しているに等しい。
 ならば、どうするか。
 領土を捨てるか。
 否、それはできない。
 それをすれば、孫呉与しやすしと思わせるのみだ。
 だから――。
「だから、此度のことは容認してはならない。違うか、穏、思春」
 否定の動きはなかった。二人の重臣は王の言葉に全面的に賛成し、その首を垂れていた。
 そして、彼女は一人決断を下す。
「兵は……出さざるを得ん」
 その言葉は重く、苦渋に満ちていた。だが、その後の言葉に一切の迷いはない。彼女は矢継ぎ早に指令を下した。
「思春、夏口に急げ。私は柴桑、江夏の軍を率いて後から行く。穏、建業は任せたぞ」
「はっ」
「了解いたしましたー」
 そして、呉王が出陣する。

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第十八回:出陣」への1件のフィードバック

  1. 冥琳さmが相手をしているのか→冥琳さまが相手をしているのか

    お暇なときに修正お願いしますm(_ _)m

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