第十七回:戦雲

1 2 3 4 5

 

4.鎮護

「私が出てはだめだとはどういうことです!」
 だん、と目の前に位置する卓を思わず叩いてしまってから、彼女は慌てたように謝った。その頭の動きにつれて、長くつややかな髪が揺れる。美髪公関雲長の謝罪をぱたぱたと手を振って許し、彼女の主、桃香は話を続ける。
「愛紗ちゃん。あのね、まず、私は赴かないとだめでしょ、こういう時。まだ戦になるかどうかもわからないんだし」
 桃香は常と変わらず柔らかな表情と口調で愛紗に語りかける。愛紗は反論しようとするものの、この表情には弱い。
「いや、しかしですね……」
「呉が出陣してきたら、まず間違いなく蓮華さんが出てくるよ。だって、一刀さんの名代として、雪蓮さんがいるんだもん。違うかな?」
「む……それはそうですな。呉としては蓮華殿が出てこざるを得ないでしょう」
 愛紗としても桃香の言うことは尤もだとわかる。
 逆に言えば、蓮華や桃香を引きずり出すための雪蓮という配役なのだろう。これを考えたのが北郷一刀かその周辺かはわからない。
 だが、あの朱里も襄陽に向かう前に、巧妙なやり口だと言っていたくらいだ。
「でしょ? だったら、実際の交渉の内容はともかく、私が立ち会ってないといけないと思うの」
「うーん。たしかに……」
「でね。そうすると、残れるのは鈴々ちゃんか愛紗ちゃんってことになるわけだけど……」
 二人の視線は窓の外に向く。少し距離はあるが、話題の鈴々が将校たちを引き連れて訓練をしているのが見えた。さすがに荊州で緊迫した雰囲気が高まっている現状では、いつものようにさぼったりはしていないらしい。
「軍のことは見ての通り心配ないんだけどね」
 それ以上のことは言葉にしないで、苦笑を浮かべる桃香。
「たしかに……鈴々よりは私の方がまだしも……」
 愛紗としてもそう言うしかない。愛紗自身も政治向きの細かいことが大の得意とは言い難いが、それでも鈴々一人を残すという選択よりは遥かにましだろう。
 足りない部分を補ってくれる文官がいるにしても、鈴々に文官の相手を強いるのは、彼女にとっても難しい。まして文官たち自身にそれをさせるのは酷に過ぎた。
「そういうわけなの。今回は、ごめんね」
「……しかたありません」
 しばらく考え、桃香の選択に文句のつけようがないことをなんとか納得して、愛紗は小さく頷く。
 こういう時、詠や白蓮殿がいてくれれば……などと思うのは無い物ねだりというものだろう。
「しかし、くれぐれもご注意下さい。そうだ、鈴々にも重々注意してくるとしましょう」
 一度決めてしまえば、疾く行動すべきだ。愛紗は立ち上がり、桃香にそう告げる。
 彼女の主はにっこりと笑って、そんな愛紗の行動を認めてくれているようだった。
「兵の事で、引き継ぎとかあったら、それもお願いできるかな?」
「はい。無理に戦いをしかけたりせず、あくまで桃香様と朱里たちの安全を守るよう、しっかりと言っておきます」
「うん。でも、それ以上に、荊州の人たちのことをね」
 その言葉に、愛紗は思わず立ちすくむ。
 もちろん、民のことを考えていないわけもなかったが、どうしても主とその周辺の安全を第一に考えてしまっている自分に気づかされたのだ。
「あのね、愛紗ちゃん。私、戦はしたくないよ。でも、それ以上にみんなが困るのは嫌なの」
 困ったように、桃香は笑う。その辛そうな笑みは、苦しみを知る者のそれだと、愛紗は重々承知しているはずだった。
 それを晴らすため、本当の意味での笑みとするために、こうして劉玄徳という人を主としているのではなかったか。
 愛紗は己の芯となっている信念を改めてそう問い直した。
「だから、兵を連れて行くのは、荊州のみんなを守るためだよ。それ以外に使っちゃだめなんだよ」
 そうして、柔らかで優しい笑みを、桃香は浮かべる。
「そこをしっかりと、ね」
 やはり、この人でなくてはならぬ。
 愛紗はその時、つくづくそう思った。
「はいっ」
 そんな主を戴いている誇りと喜びと共に、愛紗は駆け出すのだった。

「それにしても……」
 愛紗が勢い込んで出て行き、一人残された部屋の中で、桃香は腕を組んで首を傾げながら呟いた。
「一刀さんからの手紙……。なんで、愛紗ちゃんにこだわってたんだろう?」
 桃香は机の隠し戸を開け、そこに入れておいた書簡を取り出して読み直した。
『荊州でなんらかの動きがあるかもしれないが、いくつかの条件が揃ったら、出来ることなら関将軍を出撃させないでほしい』
 その書簡を要約するとそういう内容だった。これは政治的な立場とは関係ない友人としての忠告だ、とも書かれていた。
 たしかに書かれている通り、徐晃、鳳徳といった武将が荊州に入っているし、呉側の主な交渉人は亞莎であることは確実だ。一刀の言う条件の半分ほどは揃った。
 今回の件自体は、そもそも一刀が荊州牧としての権限で動かしていることだし、書かれている条件が揃うこと自体にそれほどの不思議はない。しかし、それをこちらに知らせ、愛紗の出撃を阻む理由はなんだろう。
 さすがに友人の忠告だとまで言って、こちらを騙すような男だとは思えないし、思いたくもない。
 だとすればどういうことだろうか。
「一刀さんはなにかを知っていて、その上でそれを明かせないのか」
 書簡を丁寧に巻き直し、再び秘密の引き出しにしまい込んで、桃香は真名の通りの色をした髪を振りつつ考える。
「あるいは一刀さん自身も確信がないのか。どっちかってところかなあ」
 自分の頭ではこれくらいしか思いつかないな、と桃香は諦める。荊州についたら朱里にそれとなく相談してみてもいいが、どうたとえ話にしても悟られてしまいそうでためらわれる。
「……うーん。まあ、これがなくとも愛紗ちゃんしか留守を任せられないし、連れてくわけにはいかないよね」
 星や紫苑がいれば話は別なのだが、無い袖は振れない。実際に愛紗は成都にいてもらう方が良いのは間違いないし、これはこれでよしとしようと桃香は決めた。
「よし、じゃあ、私も準備しよう。なんとかして、雪蓮さんと蓮華さんを説得しなきゃ」
 そして、今度、一刀に会ったら手紙のことを直に聞いてみよう、とも心に決める桃香であった。

1 2 3 4 5

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です