第十二回:南方

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 同じようにあんぐりと口を開け、さらには立ち上がってしまった亞莎の行動を気にも止めず颯爽と部屋に入ってきた女性は、豊かな胸とすらりとした手足をまるで猫科の肉食獣のごとくしなやかに動かして、部屋の中央に陣取る。
 そこを領土とする王のように。
 その様子は人の目を惹きつけずにはいない。
 しかし、なによりも注目を集めるのは、その顔――わずかに窺える頬と口元からだけでも怜悧な印象を与え、さぞ美しいだろうと想像させる顔貌――を覆う真白き仮面だった。
 鬼をかたどっているとおぼしきその面は二本の角も勇ましく、唖然とする二人に正対し、頭を下げる。
 ああ、なんと堂々たる礼。
 その礼は、礼節に完璧に則っている。
 しかし、その威厳は周囲を圧するもので、頭を下げられている二人、世にも名高き美髪公と、武と知の両方を制した呉の猛将を遙かに上回っていた。
「荊州牧、北郷一刀が名代、孫奉。以後お見知りおきを」
「しぇ……」
 思わず口走った亞莎は上がった鬼面の奥から走った鋭い視線に、言葉を切って息を呑む。その上、彼女は視線に押されるようにして、音を立てて椅子に座り込んでしまった。
 その騒々しさにはっと我に返った愛紗は顔を引き締め、白い鬼面を睨みつける。
「……この件にあなたをあてるとは、明らかな呉への肩入れではありませんか」
 白い鬼面の女性は軽く肩をすくめると、なんでもないことのように答えた。
「おや。何をおっしゃっておられるのか、関将軍。以前、お目にかかったことでもありましたか?」
 そこで態度を崩す白面の女性――孫奉こと、雪蓮。
「私は北郷一刀の部下。主の顔を潰さぬよう粉骨砕身してるっていうのに、たまたま呉王と姓が同じだからといって、ひいきと言われるは心外ね」
「……そういうことになさりたいならよろしかろう。せいぜい北郷殿の顔を潰されぬよう、ご配慮いただきたい」
 ぎりっと強く歯を鳴らした後で苦々しげに言う裏で、愛紗は猛然と考えていた。
 しかし、わからない。
 なぜ、この場に雪蓮が?
 死んだことにして自由な立場になったのはいい。
 だが、よりによってこの人物を荊州の領土問題にあててくる北郷、ひいては華琳の考えがわからない。
 単純に呉に味方しているように見えるが、魏の覇王はそのあたり公正……いや、冷徹と言っていい。このようなことをして呉を援護するくらいならば、もっと効果的で直接的な手段に出るはずだ。
 ならば、北郷の差し金か。
 ここは判断が難しい。しかし、もしそうだったとして、今度は雪蓮が受けるとは思えない。一方的に片方に有利な処置など、禍根を残す事が容易に予想できるからだ。呉を愛すればこそ、彼女は呉に極端に味方する事を肯んじまい。
 そこで、愛紗はもう一度白面に隠された女性の顔を観察した。
 そして、彼女は気づく。
 考えたくはないが。
 この人物はこの状況を楽しんでいるらしい。
 そうして、愛紗は小さくため息をついた。これは考えてもしかたのない場面であると認めざるを得ない。
 こうなれば虚心坦懐に挑むしかあるまい。
 愛紗はそう腹をくくった。
「では、両国の主張を聞きましょうか。どちらからでもどうぞ」
 亞莎の方も驚愕から立ち直ったらしい。
 雪蓮が促すことで、彼女たちは順番にそれぞれの主張をはじめるのだった。

「あなたがたの主張はよくわかったわ。荊州の現状も改めて理解できた」
 口頭による説明に加えて、双方の国から提出された書簡に目を通した後で、雪蓮は一区切りつけるようにそう言った。
「両者共付け加えることはないかしら? 相手への反論も認められるけれど」
 竹簡をじゃらりと音を立てて卓に置いて立ち上がりながら、彼女は問いかける。その問いに、亞莎は考える間を取ることもなく応じる。
「我が方は述べるべきことを述べました」
 愛紗の方は、亞莎の答えも含めて少しだけ考えて、同じように答えた。
「蜀としても、十分に述べさせていただいた。もちろん、そちらに疑問があればお答えする」
 雪蓮は満足そうにうんうんと頷き、その面の角が上下に揺れる。
「そ。じゃあ、荊州牧北郷一刀より与えられた権限において、裁定を下すわね」
 亞莎と愛紗双方が待ち構えていると、彼女は格式張った口調で告げた。
「蜀、呉の両国は、荊州より三十日以内に全ての兵、官を退けること。以後、荊州は漢が直接統治する」
「なっ」
「ご冗談を!」
 当然のように起きた驚きの声をものともせず、雪蓮は既に書簡をまとめ、帰り支度を始めている。
「冗談じゃないわよ? 三十日を超えて荊州の域内に兵や官、その駐屯所、砦等を置く場合、朝廷への大逆とみなし、実力で排除することになるわ」
 それから面倒そうに手をひらひらと振ると、彼女は荷物を小脇に抱え上げた。
「では、解散」
 その言葉に動こうとせず、いっそ憎しみと言えるような感情すら込めて凝視してきている二人を見返して、雪蓮は薄く笑う。
「解散と申し上げましたが、関将軍、呂将軍?」
 そのからかうような言葉に、ついに愛紗の我慢も限界を超えた。
「このような茶番、我々は断じて認めぬ!」
 だんっと拳を打ち付けられた卓が、それだけでみしみしと軋みを上げる。そのような荒々しい行動はとらないまでも、袖で顔を半分隠し、探るような瞳で白面を見つめ続ける亞莎も否定の言葉を返した。
「呉もこれを呑むことは不可能です。あなた様がなんと言われようとも」
「ふーん」
 一見つまらなさそうに、その実楽しくてたまらないとその表情で示しながら、彼女はそう呟く。
「ま、好きにして。三十日は待つ。私が言うべきことはそれだけよ」
 そうして本当にそれだけ言って彼女は部屋を出て行ってしまう。そして、残されたのは疑念と焦燥に駆られる両国の重鎮二人だけ。
 彼女たちは無言のまま目礼を交わすとそれぞれに急いで部屋を出て行く。
 荊州問題が新しい局面に入ったことを、亞莎も愛紗も深く理解していた。

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