第十回:出陣

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3.故郷

 北伐左軍の本陣は当初から前後の二つに分けられていた。
 羌、あるいは散在する小軍閥の性格を考えると、一度投降したとしても、その後に離反するおそれが高い。
 そのようなことがあってもすぐに対応できるよう、後備えとして後方にも前方で展開するものと同じだけの機能を持つ本陣を置くことにしたのだ。
 このあたりは、涼州事情に詳しい詠や翠たちと、一刀の天の知識が絡み合い、さらには祭などの戦上手の意見が反映されて構築されたものだ。
 前方と後方の本陣は約五十里の距離を保ち、お互いに何かあれば駆けつける手筈になっていた。この距離は半日以下で騎兵が駆けつけられるよう考えてのことである。
 後方の本陣が北伐右軍の補給部隊に支配地を引き継いだ後は、今度は前方の陣を追い抜いて、百里進む。つまり、前後を逆にして、再び五十里離れて陣取ることになるわけだ。
 この二つの陣は、夏陣と冬陣と名付けられて、それぞれに将が所属していたが、大将である一刀と、その軍師である詠、音々音は常に前方に位置する陣にいることになっていた。
 ただ、軍は一刀着任前にして、既に金城から二百里の位置まで攻略を進めている。
 これは一刀の着陣が遅れたこともあるが、それ以上に、拠点となる金城からほど近いところで、両陣の連携を試しておきたかった詠や翠の意向であった。
 その前方司令部とも言うべき夏陣の陣中を、将軍たちが歩く。
 横でまとめた髪をぶんぶん振って元気よくあたりを見回しているのは蒲公英、その横をこちらは後ろでまとめた髪を揺るがしもせずに真っ直ぐ歩いているのは白蓮。そして、その二人に挟まれるように思慮深げにあたりを見回しているのは、つい先日参陣した詠だ。
「んー、なんというか……」
「どうした?」
「魏の旗が一つもないなー、って」
 なるほどと白蓮が頷いて、蒲公英の発想が面白かったのか小さく笑う。たしかに彼女の言う通り、曹魏の旗はありはしない。いまここにいる将の兵はともかく、全体とすれば魏の兵が大半だというのに。
「兵は魏、将は漢。国の縮図ね」
 詠が面白くもなさそうに呟く。そのことに、蒲公英は首を傾げる。
「将は漢……ってのもねえ。実際は北郷、じゃないの? 一刀兄様の軍でしょ?」
「言いにくいことずばりと言うなあ」
 これにも苦笑を浮かべて白蓮は流してしまう。陣中で語り合うことではないことを、彼女はよく把握していた。だが、それを一番把握しているはずの詠の制止がないのを疑問にも思う。
 白蓮が見やると、彼女は陣中の兵たちや馬、輜重の様子より、遥か遠く陣の外の風景を見ているように思えた。
「詠?」
「なにか探し物? 一刀兄様なら、まだ来てないよ?」
 詠は一刀や音々音に先行して洛陽を発つこと五日ほど。さらに詠の馬の腕と、一刀が母衣衆を引き連れての進軍だということを考えると、七日から十日の差がついていると見ていい。
「馬鹿、違うわよ。ただ……このあたり、ボクの本籍だから」
「ああ……懐かしの地か。そうか、涼州の出だったな」
「ううん」
 珍しく意識を散漫にしていたことに納得する白蓮の言葉に、しかし、詠は首を振った。
「たしかに涼州出身だけど、本籍とは言え、ボク自身にはほとんど記憶はないの。物心ついた頃には隴西の月のところにいたから」
 それでも、そう語る詠はなにか懐かしむような顔をしている。その穏やかな横顔を見て、白蓮はそう思った。
「ただ、そうなんだあ、と思って。少なくともお父様やお母様、それにお爺さまやお婆さまはずっと前からここにいたんだなってね」
「まあ、そういうこともあるな。私も先祖が……」
 と白蓮が話を始めようとしたところで、彼女たちを探していたらしき伝令が声をかけてきた。
「顔将軍が将軍方をお呼びです。斥候が戻ったと」
「了解、すぐに行くわ」
 答えて、早足で歩き出す詠と蒲公英。足を止め、話を始めようと身構えていた白蓮はそれに出遅れた。
「あー、えっと……」
 言葉の接ぎ穂を探しているうちに、二つの小さな背中は遠ざかっていく。彼女は慌てて足に力を込めた。
「しまらないなあ、ったく」
 ぶつぶつと呟く声も誰にも拾ってもらえない白蓮であった。

 本陣には、将軍たちが軍議をするための小屋があった。
 小屋とはいっても移動が出来るよう下面にはそりが備え付けられ、馬数頭で牽くようになっていた。車輪がつけられ馬車となっていないのは、車より単純な構造のため耐久性が高い上に、涼州の草地や泥地で足を取られにくいと考えてのことである。
 だが、もう一つ、ばからしいが実際的な理由もあった。馬を複数連ねた馬車は、儀礼上、諸侯や皇族などにしか許されていないのだ。だが、馬そりならどこからも文句が出ない。
 斥候の報告を元に先ほどまで軍議を行っていた小屋の中には、いまは詠しかいない。
 この小屋は諸将が集まって軍議が行えるようになっているが、同時に本陣において、一刀と詠、ねねの三人の居室ともなっていた。その中でも実際に一番長くいるであろう人物は詠に他ならない。
 ねねは恋についていなければならないこともあるし、軍師の片割れとして詠とは別の陣に赴かなければならないことも多い。そして、大将は外で兵に顔を見せていないといけない局面も多いのだ。
 自然、詠がその部屋の中で策を練る時間の割合が増えると予想されていた。
 小屋の中は、ただの無垢な木材で作られた箱形という無骨な外見とは違い、快適な空間が作り上げられている。
 天窓から差し込んだ陽光は、壁中に飾られた白い布のおかげで部屋中に柔らかに回り、長椅子には目は粗いが分厚い織物が敷かれて衝撃を緩和するよう考えられていた。その敷物のおかげで、座り心地も上等なもの。
 いまの時期はまだいいが、寒くなれば、これらの敷物や掛け布は、外の寒さを伝えず、内側の人の温もりを逃さない断熱材としても役立つだろう。
 ただ、その敷物の合間合間には、なぜか大きめのぬいぐるみがいくつも転がっていて、それらは詠や一刀をはじめ北伐に参加する諸将の特徴をよく捉えていた。
 船と同じく家具は全て作り付けで、部屋の中央には大きな円卓があり、そこには涼州の地図が広げられている。いまは詠がその地図の上にかがみ込んでぶつぶつと呟いていた。
「こっちの軍閥は……ううん。翠よりボクが直に行く方がよさそうね」
 いくつかの物事を書き出しては消し、また書きなおしていく詠。そんな彼女の背に、扉を叩く音が聞こえた。
「はーい?」
「ちょっといいかな?」
 開いた扉から顔を覗かせたのは蒲公英。横に結わえられたしっぽが小さく揺れる。詠は招き入れると、座るよう促した。
「どうしたの?」
「んー」
 彼女にしては珍しく歯切れが悪い。勧められた席にもなかなかつこうとしないのに、詠は不思議そうに小首を傾げる。
「詠に話があって」
「ボクに?」
 ともかく座りなさいなと詠は半ば強引に蒲公英を座らせ、自分はその横に座った。二人の合間で、セキトによく似たぬいぐるみが揺れている。
「あの……さ」
 しばらく待っていると、ようやくのように口を開く蒲公英。
「詠は……ううん、月たちはずっと一刀兄様の下にいるつもり?」
「どういうこと?」
 蒲公英の問いかけに、眼鏡の奥の目がすっと細まる。そのくせ表情はまるで変化せず、笑みをたたえたまま、彼女は問いに問いを重ねていた。
「んっと。あのね、北伐が終わった後の話だけど、お姉様が西涼公になって、西涼が出来るでしょ?」
「ええ。そのようね。あんたも公家の係累ってことになるわ」
「たんぽぽも含めて馬家の人間はさ、お姉様に従うことに決めてるし、まだまだ錦馬超の名前は通用するから、民もついてきてくれると思う。でも、その時、お姉様は誰を頼れるかな、って思うと……」
 蒲公英は少し困ったような表情で、後を続けた。
「三国にはそれぞれ王を支えてくれる軍師たちがいるけど、西涼にはいないから……」
 詠は彼女の言いたいことを理解して、目をむいた。それから腕を組んで、うーんとうなりを上げてみせる。
「つまり、ボクたちに、翠に仕えろって?」
「そうなっちゃうのかな。でも、形はどうでもいいと思うよ。お姉様だって配下にするとかってのは嫌がりそうだし。ただ、故郷も近いことだし、涼州の未来に興味はあるんじゃない?」
 詠はその問いに、否定の声を上げない。否定の表情を浮かべない。否定の仕草もしない。
 ただ、彼女は天を仰ぐように顔を上向けた。
「……ボクが決められることじゃないのもわかるでしょ。月がうんと言わなきゃ」
 上向けた顔で目をつぶったまま、彼女はそう言った。蒲公英はその様子を眺めて、からかうでもなく淡々と応じる。
「うん。だから考えておいて。っていうか、たんぽぽもお姉様に話してきたわけじゃないから。まだ可能性……でいいんだっけ。そういう話」
 詠は顔を戻すと目を開き、真っ直ぐに蒲公英を見つめた。その深い琥珀の瞳と、それよりほんのわずか紫がかった瞳が正面から向き合う。
 それから詠が一つ大きくため息を吐くと、その場の空気が見るからに弛緩した。
「あんたも大変ね」
「そうかな? まあ、蜀にいた頃よりは大変かな。焔耶をからかってる場合でもないし」
「あんたはともかく、翠に自覚を促す方が先だとボクは思うけど?」
「そうは言ってもねえ……」
 蒲公英はきゃらきゃらと笑う。
 自分の従姉のことを、彼女は心から尊敬していたが、それでも不得手な分野があることもよく知っていた。
 武勇ならば、錦馬超に間違いはない。
 だが、それ以外は?
 そもそも彼女がここにいることが、その答えを如実に表している。
「まあ、そのあたりも見極めた後ね」
「うん。そうだね」
 それだけ言って、蒲公英は小屋を出て行く。
 また一人に戻った部屋の中、詠は自分によく似たひときわ大きいぬいぐるみと、それとほぼ同じ大きさの真っ白に輝く服を着たぬいぐるみを持ってきて、まとめて抱きかかえると長椅子に座り込んだ。
 ぼふんっと椅子の上の織物が音を立てる。
「涼州……」
 彼女はいままさにいる地の名を呟いた。
 懐かしく思いながら、もうずっと遠く遠く感じていたその土地の名前を。
「故郷、か」
 そう、いとおしむように。

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