第十回:出陣

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2.母衣衆

 さかのぼること約一年前。
 北伐の計画が密かに始動し始めた頃、魏軍において一つの部隊の募集がなされた。
 名は母衣衆。
 かつて北郷一刀が語った天の国の軍事組織からつけられた名である。
 もちろん、この世界に母衣などという装備を知る者はいない。そのため、募集の際の書簡には吹き流しのような長い布を肩につけた騎馬の図が常に添えられていた。
 背後からの流れ矢を避け、戦場での伝令役として目立つようにも考えられた装備である。
 任務は伝令及び強行偵察、さらに本陣に於いては軍楽隊を兼ねる、とされていた。
 当初の募集では、将軍につくというよりは、大規模な軍集団の中で本陣に所属するものと説明された。
 募集条件は以下の通り。
 一つ、馬に乗れること。
 一つ、魏軍において五年以上の兵役を務めていること。
 ただし兵役経験については、以下の条件をもって代えることが出来るとされた。
 軍の指定する等級の軍馬を購うか所有していること、太鼓を叩けること。
 最初の二つの条件を見れば、明らかな精鋭騎兵の集団である。
 しかも、本陣の伝令役ともなれば、本来は接することなど適わない高位の将軍たちと――軍令を介してではあるが――接触できる。
 自分の働き次第では、将軍たちに目をかけてもらえる可能性がないではない。少なくとも、ただの部隊よりは出世の糸口があるのは確実だ。
 戦のなくなった現在、戦功をたてるあてもなく――己に足りないのは実力ではなく、それを示す場であると考えて――燻っていた一部の兵たちにとって、これは魅力的なものに思えた。
 また、先の三国動乱においては幼かったためや時機を逸して参陣が間に合わなかった有力家門の子弟たちも、これを一つの登竜門と見た。
 兵役を務めていなくとも、馬や楽器の技術で重要部隊に配置され得るのだ。群雄が割拠していた数年前と比べると栄達の道がごく限られている現状、彼らにとって金を渋る理由などなにもなかった。
 そうして、千人の募集に千五百人が集まることとなる。
 軍は彼らを鷹揚に受け入れた。
 だが、彼らが知り得なかったことが一つある。
 この部隊は、北伐が実現しなかった場合でも、部隊を持っていない北郷一刀の直属軍として配することが上層部により決定されていたことだ。
 これに伴い、軍の教練全体を司る沙和をはじめとした、訓練を担当する面々の気合いの入れようが違ってくる。
 特に計画を聞いた凪は自らつきっきりの教練を志願したくらいだ。さすがに郷士軍の仕事があるのでこれは却下されたが。
 最初の一月は、既に教練の第一線からは退いて教官育成に努めているはずの沙和が直々に彼らを訓練した。
「お前たちの中には、魏の兵として、立派に戦場で戦った者もいるのー。でも、この私の前に戻ってきたからには、全て平等に意味のない糞虫なのー!」
「そこの兵ーっ。あれだけ直々に鍛えてやったのに、なんで戻ってきたの! 夏侯惇将軍がそんなに気に入らなかったの? 私はお前のために将軍に土下座しなければいけないんですかー? ええっ、早く答えるの、この豚娘!」
「私がこの世でただ一つ我慢できないのは――紐を閉じ忘れた糧食袋なのーっ」
「この剣の毀れはなんなの? 死ぬの? 私のせいで死ぬつもりなの? 迷惑かけずにさっさと死ね! 竜のケツにドタマつっこんでおっ死ねなの!」
「五胡の手先のおふぇら豚め! ぶっ殺されたいかー!?」
 信じられないくらい可憐な声による罵倒と、徹底的に厳しい軍規の適用は健在であった。
 彼女は細かい軍規違反を取り上げては全てを罰し、扱き下ろし、練兵場を走らせた。
 兵たちは彼女の言葉に全て従うことを学び、一糸乱れぬ行動を心がけた。
 ただ、中にはそれについて行けず、不手際が多いために沙和の目の敵にされ、毎度それに巻き込まれる仲間たちでよってたかって私刑にかけられ、翌日から愛用の剣に話しかけるようになった隊員もいたりした。
 だが、南蛮大使として沙和が選ばれたことによって、ひとまず伝説の『罵倒調練』は終わりを告げる。
 この時点で残っていたのは千二百人。

 南蛮に旅立った沙和に代わって、郷士軍のとりまとめで忙しいはずの凪が次に訓練を担当することとなる。
 凪の度重なる上申に根負けした華琳が、郷士軍と両立できるならばと許可したのだ。
「本日より、于将軍に代わり、お前たちの教官となる楽進だ。本来ならば、軍というものがいかなるものかをその身にたたき込むところだが、お前たちの場合は話が違う」
 彼女は言葉を切ってぐるりと隊員たちを見渡す。
「お前たちの任務は隊長を護ることだ」
 もちろん、隊員たちは、彼女の発している『隊長』という言葉が特別な個人を指していることなど知るよしもない。
「そのために必要なのは、なにがあろうと生き残ること。一人の惰弱が、全軍の瓦解に繋がる。お前たちには死ぬことは許されない。故に、少々厳しい手を使う」
 そう言って彼女は千二百人の前で構えを取る。その剣呑さに全隊員が恐れおののいたが、一体なにが起きるのかわからず、戸惑うばかり。
「一つだけ忠告してやる」
 腰だめに構えた拳に、大量の氣が集まっていることなど、武将との接点もない隊員たちにわかるわけもない。
 それでも何割かの勘のいい者が、じりじりと彼女から距離を取ろうとしていたが、たたき込まれた軍規と本能の警告の板挟みで、あまり派手な動きとはならなかった。
「避けろ」
 轟っ。
 氣弾がまとめて何発も放たれる。
 隊員たちは宙を舞うということがどういうことか学んだ。

 さらに、座学も並行して行われる。これを担当したのは稟だった。
「伝令と偵察が主任務である以上、各種の陣形、それの派生、また、それらの各陣形に移行する際の部隊の機動を覚えてもらわねばなりません。各国共通のもの、それぞれの国で固有のもの、現在はあまり使われていないものの古典にあるもの。ありえる陣形と派生を全て覚えてもらいます。手始めに、明日までにいまから説明する陣形二十八種を暗記してくること」
 彼女は講義中に眠ってしまったり集中できなかったりする者を責めることはけしてなかった。ただ、提出された課題が満足行くものでないと、何回でも何十回でも再提出を命じるだけだった。
 この凪と稟による訓練期間に、隊員は七百人にまで減った。

 年が明けて、北伐の準備が本格化したこともあり、訓練は烏桓討伐から帰って来た猪々子と斗詩によって引き継がれる。
「あー。お前ら、今日は突撃三十回なー」
 猪々子によって騎馬突撃を幾度となく繰り返させられた後には、
「はーい。突撃訓練お疲れ様でしたー。みなさん大変ですよねー。でも、それをなんとか楽にするためにはどうしたらいいでしょう? そうです、体力を養うんです! はい、まず、その場で壕を掘りましょう!」
 斗詩による本陣設営や、狭い建物内での戦闘訓練などの地味だが苦しい作業が待っている。
 ここまでの訓練をくぐり抜けてきた兵たちですら、この連続でぼろぼろになってしまった。あまりの体力の限界にもうろうとしてきても号令をかけられれば動く、彼らはそれくらいになっていた。
 だが、教えている将軍たちの方が彼らのやっていることの数倍を軽々とやってのけているのだから、誰にも文句は言えない。
 ある日、一刀のための軍だということを聞きつけた麗羽が人数分の鎧を新調した。華琳が止めたため、麗羽の使いたかった黄金色は使われず、装飾は多少華美ながらも軍における通常の鎧の範疇に入っていた。
「あなたたちに、我が君にふさわしい装いを用意してさしあげましたわ。よい働きを期待していますわ」
 たしかにそれはこれまでつけていた鎧よりも硬く軽く質のいいものであり、良いことずくめに思えた。
 それを毎日綺麗に磨き上げることを命じられなければ。
 おかげで、彼らはくたくたになった就寝前か、少しでも眠りをむさぼりたい早朝に時間を取って毎日毎日その鎧を磨くはめになった。
 あまりのきつさに二百人が転属を願い出て、隊員は五百人を切る。

 さらに、最後の仕上げとして、張遼隊との合同訓練が待っていた。
「あー、なんや。あんたら、色々あって自分たちのこと、精鋭と思てるかもしれんけど」
 そう言って霞は不敵に笑う。
「ほんまもんの騎兵っちゅうのは、そう甘いもんやないで」
 魏軍一の騎馬の達人に睨まれて、彼らは震え上がるほかなかった。

 なお、楽隊としての分野は、黒い仮面をかぶった女性が最後の総仕上げを担当した。
 一つでも調子を崩せば、それを叩いた者に的確に短い鞭の一撃が飛び、少し拍子をはやめただけで、血を凍らせるような凝視が飛んだ。
 彼らはもちろん、その女性が、したたかに酔っていても音が一つはずれれば振り向くと言われ、世上でも『曲有誤 周郎顧』と囃歌になるほどの周公謹であることなどわかるわけもない。
 こんなこともあり、最終的には部隊の数は三百をなんとか満たすほどになった。実に八割もの脱落者を出して、母衣衆は結成されたのだった。
 当の北郷一刀はそれを知らない。
 一人前の兵士となった彼らもそれを語ることはないだろう。
 語るべきは己の働き。
 護るべきは己の誇りより、部隊の将。
 北伐左軍の本陣直衛部隊――三百騎の母衣衆はそんな兵たちで出来ていた。

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