第十回:出陣

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1.はじまり

 その日の出陣の儀はずいぶんおとなしいものだったと言えよう。
 魏の王にして漢の丞相曹孟徳が洛陽を発つというのに、ものものしい鳴り物も見送りもなかった。
 ただ、城の庭で戦勝を祈願したくらいだ。
 それというのも、本隊は既に北方にあり、出陣するのが彼女自身の親衛隊と、北郷の旗本――母衣衆だけだからだ。
 その数は合わせても二千ほど。
 この曹魏の主たちの出陣としてはあまりにわずかだ。
 それでも、見る者が見れば、そこにそうそうたる顔ぶれが並んでいることに気づくだろう。
 秋蘭、紫苑、桔梗、小蓮、そして、三つのメイド姿、月に雪蓮、冥琳。
 彼女たちが作る列の前に一刀たちは進んでいく。
「シャオも参加したかったなー」
 周々を横に侍らせたシャオが頬を膨らませる。
 冥琳が苦言を呈しようとしたのか、口を開きかけて閉じるのを見て、一刀は代わりに言ってやった。
「はは。呉勢は今回しかたないよ」
「シャオね、もう虎も狩れるよ」
 小蓮もわかっているのかいないのか、その話題に固執しない。
 代わりに自分の武技の冴えを、胸を張って告げた。複雑に結った髪が、柔らかに揺れる。
「そりゃすごい。でも、あんまり無茶はしてくれるなよ。まあ、周々がいるんだから大丈夫だとは思うけど」
 じゃれつくように手を伸ばしてきた周々の大きな肉球をぷにぷに突っつきながら一刀は笑って答える。
 俺の世界でもそういえば、孫権が虎狩りに頻繁に行くので部下が危ないと止めるとかいう話があったような、と彼は思い出したりしている。
「雪蓮はごめんな。こっちに来てすぐなのに仕事頼んじゃって」
「そんなことないわよー。洗濯にも飽きてきたしさー」
「まあ……無茶はしないよう、きちんと言い含めておく」
 姉たちの方へ話を振ると、隣の冥琳がいつもながらの苦笑を浮かべて引き取った。
「よろしく頼むよ。みんなの世話、大変だろうけど……」
「昔より面倒を見る子が増えただけのことだ」
「なによ、それー」
 ぶーたれる雪蓮にひとしきり笑い、彼は、再び一時の別れの挨拶を続けるのだった。

「どうなるかしらね」
 そんな一刀と華琳、そして、風やねねの旅立ちの様子を、窓から眺めているのは、桂花。
 彼女は華琳の見送りには参加したかったものの、戦勝祈念などにつきあっている暇がなく、しかたなく仕事をしながら彼らを眺めるはめになった。
「北伐が?」
 同じ理由で、少し離れた卓で書き物をしていた稟が顔を上げる。
「色々よ。他のことも含めて」
「どうでしょう。もちろん、勝利は疑いありません。そのように我らが準備したのですから。しかし、どのような勝利であるか、それをいま計るのは至難の業でしょう」
 稟は筆を置くと、自身も窓から皆の姿を見下ろす。個別の出立の辞は昨晩のうちに伝えているが、やはり目が追ってしまう。
「郭嘉がそう言うなら、そうなのかもしれないわね」
「ですが、北伐はともかく……。それから波及する出来事、そして、南の動きはある程度考えねばなりますまい。北を見据えつつ、南を窺う。なかなかに忙しい」
「いつものことじゃない」
 苦笑を漏らし、栗毛の髪を一振りしてから仕事に戻る稟に、猫耳頭巾の桂花は皮肉げな顔をして答える。その後で、彼女は机の上の竹簡を取り出して、何事か調べ始めた。
「呉と蜀、か。あの馬鹿がなにか言ってきてたわね?」
「荊州ですね。華琳様が一刀殿に一任なされたとか」
「あれにね」
 目当ての場所を見つけたか、目をとめた桂花が、竹簡に書かれた文字をぱちんと指で弾く。
 そこにあるのは、いま話題に出ている人物――北郷一刀の名だ。
「なにしろ、大鴻臚ですから」
 漢の大鴻臚。
 常設では三公に次ぐ九卿の一つにして、諸侯の印綬を授ける外交の要。たしかにその官位を持つのならば、呉と蜀の領有問題を解決するにふさわしい。
 だが――。
「その重さをわかっているのかしら」
 桂花は竹簡をまとめなおし、別の書類を引き寄せながら、怒ったように言った。淡い色の髪がぱさりと顔にかかって、うっとうしげに掻き上げる。
「まさか」
 それに対する稟の答えは明快だ。彼女は眼鏡を押し上げながら、淡い笑みを浮かべている。
「あの方が、そんなことに頓着するはずがない」
「けれど、それでも……」
「一刀殿に任された以上、何かを成せば、それは彼の選択、彼の決断となる」
 しばらく、沈黙が落ちる。
 桂花は小刀を取り出すと、竹簡の表面を削り始めた。書き損じたか、あるいはもう読み終えて処分するつもりなのだろう。
 竹簡は厚みがあるため、何度もこうして再利用できるのが利点だ。ただし、重く、かさばり、ばらけると元に戻すのが大変という難点もある。
 しばらく、部屋は竹を削る音だけに包まれた。
「……まあ、そんな表の話ばかりじゃない、私たちが考えるべきは、その裏の裏」
 再び開かれた桂花の口から出る言葉に、稟は強く頷く。
「ええ、諸葛亮に陸遜、いずれも面白い手を打ってくるもので。いえ、もしかしたら、この癖は呂蒙かもしれませんが。詳しい報告は……」
 そうして、二人の知謀の士は複雑な国家情勢の渦の中で己の職分を果たすため、検討と議論を続けるのであった。

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