第九回:子宝

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3.月に吼える

 深更、彼は庭に出て、酒杯を傾けていた。
 天には満月。
 降り注ぐ月光は、彼が携えた灯火などなくとも、あたりを十分に明るく見せている。
 彼が胡床を置く傍らには黄白色の馬体がよりそうようにしていた。
 その馬首が上がり、恫喝するようないななきが漏れ出る。
 一刀は愛馬が睨みつけている方向を見やり、笑みを浮かべる。
「ああ。大丈夫だ、黄龍」
 言われた途端、黄龍のうなりは止まり、その人影から興味を失ったように、一刀の肩口に鼻面をこすりつけた。
 一方、小さな影は、少し怯えたように近寄ってこない。一刀は黄龍の頭を優しく叩くと、
「俺は彼女と話があるから、戻っておいで」
 と言いつけた。
 黄龍はしばらく彼のことをその大きな瞳で見つめていたが、不意に体を返し、立ち去っていった。
「ずいぶん聞き分けのいい馬ですね。あれで厩まで?」
 黄龍がいなくなってから横に寄ってきたのは、明るい色の髪留めでまとめて、かわいらしくおでこを出したちびっこ軍師。
 小さな体に快活さを秘める音々音だ。
 この夏の夜に寒いわけもないだろうが、今日は上着の前を止めているせいで、ほとんど黒ずくめ。
「ああ、聞き分けというか、頭がいいんだ。前に心配でついていって見たけど、ちゃんと厩に戻ってるよ」
「ふぅん。まあ、たまにそういうのがいますよね」
 ねねの視線が小さくなっていく黄龍の姿から、己の酒杯に向いたことに気づいた一刀は、苦笑しながら杯を持ち上げる。
「ほんとは酒なんか飲んじゃいけないんだろうけどなあ」
 ねねはその大きな瞳を月光に輝かせながらしばらく黙っていたが、ふと思い出したとでも言うように彼の横の地べたに座り込んだ。そうすると、彼女の被った帽子がちょうど一刀の腹あたりに来る。
「知っていますか? 孔子の信奉者たちが言うところに従えば、親の喪にある者は、体の調子が悪くても薬を飲むことも許されないのですよ。しかも、親が死ねば三年はそうしろという始末」
 ふんっと鼻を鳴らして彼女は地面の草をむしり取る。
「ねねは、そんなのを前にしたら、阿呆かと言いますけどね」
 ははと一刀は小さく笑う。
「逆に子は、極論すれば、いつでも作れると考えられていますね。服喪しないということもないですが」
 さらりと言ってのけるねねの言葉に、一刀の表情が凍り付いた。
「この世界は、お前のいた天の国とは違うですよ」
 たたみかけるように音々音は呟く。
 その視線は一刀を捉えていない。ただ、庭に降り注ぐ月光を見ているように思えた。
「死はすぐ側にあるですよ。正直、双子でさえ無事生まれるのは稀だったりしますからね。それ以上に、どれだけの子が育つものか。庶人出身の者たちに聞けば、妹や弟や、姪や甥や、いくらでも亡くしていることがわかりますよ。まあ、王宮に住んでいるような人間たちはまた別ですけれど」
 どこか茫漠とした空間へ視線を漂わせていた彼女は、彼の方を見上げて、小さく息を吐く。
「……と通り一遍の慰めはおいといて」
「え?」
 あまりの驚きに、それまで固まっていた一刀が息を吹き返す。
 まじまじと凝視してくるその視線を、音々音は真っ向から受け止めた。琥珀色の瞳は、彼の驚愕と疑問を全て受け流して、ただただきまじめな表情を浮かべている。
「どうせお前も、さっき言ったようなことは、頭ではわかっているはずですよ。無事に生まれた子たちのことも嬉しいと思っているでしょう。それでも、心のうちで、亡くした子を悼まずにはいられない。違いますか?」
 一刀はその問いを軽く流してはいけない気がした。
 だから、頷くしかない。
 ごまかしも、虚飾も許されないのだから、ただ、自分の思うままを告げるしかない。
「違わない」
「そして、死んだ子のことを思うと、生まれた子を喜ぶ事も申し訳なくなってしまう。自分で自分を責めている。そんなところではないのですか?」
「……そうかもしれない」
 ふん。
 音々音は予想通りだ、という風に鼻を鳴らしてみせる。
「だったら、泣けばいいのですよ。そうして涙を見せずに泣くなんてことせずに、わんわんと声をあげて泣けばいいですよ。それこそ、小さい時のように」
 彼女は立ち上がり、一刀の正面に回る。そうすると、座った彼が、今度は彼女を見上げることになる。
「そう、顔を上げるほうがましです。そんな、何もかも背負ったような顔で、うつむいていないで」
 ま、そうは言っても、と彼女は肩をすくめる。
「お前の女たちの前で、他の女の生まれなかった子のことで泣くなんて、お前には出来ないでしょうからね。思うさま無様に泣きわめくことを、このねねが許してやるですよ」
 思い切り胸を張る音々音。
 その姿があまりにもかわいらしくて、けれど、あまりに大きく感じられて、彼は笑みを浮かべるしかない。
「は、はは……」
 笑い声と共に、既に涙がこぼれているのを、彼は気づいていたろうか。頬を熱い熱い雫が流れ落ちていくのを、気づいていたろうか。
「ねねはいいやつだなあ」
 言いながら、わしわしと彼女の帽子越しに頭をなでる。
「わぷっ。やめるです」
 帽子がずれて視界が奪われて、ねねはその腕に掴まるようにして止めさせる。まるで彼女の小さな両の掌に支えられたかのように、彼は立ち上がり、天を仰いだ。
 そうして、彼は吼える。
 言葉にならない言葉を。
 天地をどよめかす叫びを。

 彼の人が哭す声は、いつしかすすり泣きに変わる。そして、崩れ落ち、うずくまる影に小さい影が重なって、さらにその声は小さくなっていく。
 その様子を少し離れた物陰から窺っていた人影が、建物の内へ戻ろうと振り返った時に、その声はかかった。
「機を逸したわね」
「あら、いたの。雪蓮」
 声をかけたのは、白い仮面に顔貌を隠した長身の女性。答えるのは、丸まった金髪の美しい小柄な女性。
 別の物陰から出てきた雪蓮を、華琳は面白そうに眺めていた。
「あなたが気づかないわけないくせに。私たちが牽制している間に、まさかちびっこ軍師に持って行かれるとはね」
 二人はそのまま並ぶと、音も立てず廊下を歩き始める。会話もどんな発声をしているのか、お互い以外には届かず、消えていった。
「まあ、あれでよかったのかもしれないわ。いえ、もちろん私やあなた、それに隠れていた他の幾人かの誰でもよかったのでしょうけれど。それでも、ね」
 その言葉に、白い仮面はしばらく考えていたようだったが、結局同意の頷きを返した。
「それもそうね」
 そうして、雪蓮は自身の口元で、くいと存在しない酒杯を傾ける仕草をしてみせる。
「つきあう?」
「ええ。でも、ほどほどにね」
「はいはい」
 言い合いながら、二人は宮殿の闇へと消えていった。

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