第九回:子宝

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 秋蘭から懐妊の報告を受けた北郷一刀は――ある意味ではいつも通り――硬直していた。
 この時代の男にとっても、多いと言える回数、自分の子が出来たことを知らされているはずなのだが、こればかりは慣れることがないようだった。
 それでも喜びの念を顔中に表している彼を見ていると、秋蘭は声など聞くまでもなく、なにか報われたような気持ちになってしまう。
「まずはめでたい。よかったな、北郷」
 姉である春蘭が、にこやかに近づいてくる。
 彼女は一刀の肩を抱くと、ぐいと引き寄せて、謁見の間の真ん中、華琳の座す王座の正面に連れ出した。
 いま集まっているのは曹魏の重臣だけだ。
 国の重要な事項は、結局の所、この面々で決定されることも多いものの、謁見の間自体は文武百官が居並ぶことも出来るほどの広さになっている。
 その広い中で皆が並んでいるところから離れて、真ん中に連れてこられた状況に、不吉な予感しか抱けない一刀は額に汗する。
「あ、ああ」
 ようやく声を出せるようになった一刀は、こくこくと頷いた。伯母となる予定の女性は頼もしげに彼の背中をばんばんと叩いた。
「で、だ」
 きらっと春蘭の右目が光ったのを見て、彼は本能的にその腕から抜け出した。
 するりと彼女の腕をかいくぐった勢いそのままに駆け出す一刀。誰もいないほうに駆け出すと、予想通り、すぐ背後を大きな足音が追ってきた。
「なぜ逃げるーっ!」
 猛然と追いかけてくる春蘭を引き連れて、一刀は広い謁見の間を走り回る。
 直線の足では間違いなく負ける。故に、彼は真っ直ぐ走るようなことはせず牽制や急激な加減速、曲線運動などを取り入れて、春蘭の腕から逃げ続けた。
「だって、明らかになにかしそうだろっ」
 二人とも見事に秋蘭がいる地帯を避けているのは、本能か意識しているのか。周りで見ている曹魏の重鎮たちは、追いかけっこをしている二人を眺めていて、そのことに気づくと、皆、呆れたような顔になった。
 一方、当事者の一人であるはずの秋蘭は相変わらず笑みを浮かべているだけだった。
「その通りだ! 一発殴らせろ!」
 振り向けば、鬼のような形相の魏軍最高位の将軍閣下が追ってくる。
 こんな状況、兵なら気絶してしまうだろうな、と一刀は大きく息を吐き出しながら、思わず苦笑した。
「なんで殴られるのかさっぱりわからない!」
「かわいい妹を孕ませたからだろうが!」
 これで相手が春蘭でなければ、殴られるくらいは覚悟してもいい。
 だが、一刀は走るのを止めない。
 いかに肉親の情はわかるといっても、それで骨を折ったりするのはごめんなのだ。
「華琳! た、たすけてっ」
 最後の頼みの綱は、しかし、王座から不思議そうに彼を見返してきた。
「なんで? いつもみたいに斬るって言わないだけましじゃない」
「だから余計に怖いんだって! 本気じゃないか!」
「私はいつも本気だぁっ」
「うむ。さすがだ、姉者」
 姉の言葉に手を打って笑う秋蘭。
 しかし、この場面で秋蘭に助けを求めないあたりが、この男の面白いところだと華琳は思う。
 一刀が肩で息をしはじめ、牽制まじりの動きをするのが減って真っ直ぐ走るのが増えてきたあたりで、彼女は声をかけた。
「二人ともそれくらいになさい。しつこいのは嫌いよ」
「わ、わかっ、た」
 苦しそうにぜーはー言いながら、一刀が足を止める。そこに追いつきながら、春蘭が半泣きの顔で華琳を見上げた。
「うー、華琳さまぁ」
「だめ」
 一言で切って捨てるのに、春蘭はうなだれて元の位置に戻っていく。
 乱暴に一刀を引っ張っていくことで、せめて腹立ちを紛らわせているというところか。
「さて、秋蘭の祝いは改めて行うとして、まずは仕事の話を終えてしまいましょう」
「孔融たちのおかげで予定が変わってしまいましたから、再確認は必要でしょうね」
「本来は皆、ここにいるはずじゃなかったわけだし」
 魏の覇王の言葉を受けて、稟と桂花、二人の軍師が内容を補足する。
「ええ。変更された事柄もあるわ。一刀、あなたにも大事な役目があるのだからね」
「あ、ああ、わかってる」
 用意のいい流琉に水を渡されて飲んでいた一刀が顔を上げて答える。
 彼にはたしかに大役があった。これから始まる北伐で一軍を任されているのだから。
「にーちゃんにはもうひとつ大事なことがあるぜ」
 三軍師のうち、残った一人の頭の上にいた宝譿が言葉を発し、一刀と共に華琳が彼女に視線をやる。
 風はその直視を受けて、いつもののほほんとした顔つきでのんびりと答えた。
「美以ちゃんたちがそろそろ子を産むのですよー」

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