第八回:熱波

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2.戦勝祈願

 王宮の庭の一角にある竹林の中を、この国の王と並んで散策しながら、北郷一刀は語り続ける。
「黄龍はすごいよ。なんと言うのかな、ぴったり合うんだ。言葉だってわかるんじゃないかと思う。彼に出会わせてくれて、本当にありがとう」
 先ほどから蓮華は感謝の言葉を聞き続けていた。
 まさに馬があったことを得々と話してくれるのは贈った者からすればありがたい限りだったが、それにも限度というものがある。
 彼女はさすがに苦笑して、彼の言葉が途切れたところで割って入った。
「黄龍の件はもういいわ、一刀」
「でも……」
「よくわかりましたから!」
 きゃらきゃらと笑って、一刀が食い下がるのをかわす。
 自分が少々滑稽なことになっていたのに気づいたのか、一刀はようやくのように頭をかいて笑い声をあげた。
「それよりあの話だけど」
「ん?」
「ほら、荊州の」
「ああ、調停に立つ話だな。華琳とも相談して、手配するよ。俺自体は北伐に出ているから、最初の事務は文官が前面に出るかもしれないけど、きちんと責任は取る」
 一刀の言い様に蓮華はどこか面白いものを感じつつ、彼女はそうではないと手を振る。
「いや、その、事務的なことはいいのだけど……。いいの? 一刀を悪役になんて」
「いいんじゃないか? こういう時、こじれた両者だけじゃもうどうしようもない。関係のない第三者が憎まれるのが一番だろ。たとえば俺や華琳がね。それくらいのことは心得ているさ」
 もちろん、彼の言うことは理解できる。呉蜀の諍いに介入できるとすれば、魏の人間であることは。
 だが、それをするほどの益がどこにある?
「そうだな。いっそ荊州の領有主張を俺もするのはどうだろう?」
 いや、さすがにそれをやると、後々が大変か……。などと呟く青年の顔を見つめ、蓮華は以前から考えていたことを口にする。
「なぜそこまでするの?」
「え?」
「なぜ、そこまで呉のために?」
 やっぱり姉様が……と言いかけて、蓮華はなんとかそれを呑み込んだ。
 彼女の真剣な表情を見て、一刀も一つうなって考え始める。
「大事だからかな」
「大事?」
「俺にとって、大事な人――子供たちや大好きな人たちや、同僚や……そういうものを守るためだよ」
 守るというのは大げさかもしれないけど、と彼は付け加えて続ける。
「俺には、子供がいる。阿喜に千年、木犀に大小。彼女たちが生きるのは、いまの三国の未来だ」
「……そうね?」
 いまひとつよくわからず、けれど的外れな事は言われていない気がして、蓮華は曖昧に頷く。
「とすると、三国が共に発展し、豊かになった世界が望ましい。そうじゃないか?」
「そりゃあそうだけど……」
「だから、よくなりそうな事で、俺が手助けできるなら、それをやりたいと思うんだよ」
 彼の言うことは尤もではある。だが、だからといって、彼が苦労を背負い込んでまですることかというと疑問に思う。
 まして、双方から憎まれるようなことを……。
 いまはこうして感謝している蓮華でさえ、実際に調停がなされて領土が削られれば不満を抱かないとは断言できない。
 恨みを買うことを想定していないわけもないだろうに。
 そこまで考えたところで、蓮華はあることに気づき、雷に打たれたような衝撃を受けた。
 北郷一刀は、これを苦労と感じていない。
 だから、こうして何ともないことのように語れるのだ。
「そうね……。うん、でも、改めて言うわ。ありがとう」
 そのひらめきを自分の中に押し隠し、彼女は深々と頭を下げた。その顔が驚愕に彩られていることを知られぬように。
「それはうまく行ってからにしてくれよ」
 一刀の困ったような言葉にようやく落ち着いた彼女は体を戻す。
「それもそうね。じゃあ、これからもよろしくってところかしら」
「ああ、もちろん。そうだ、手紙を書くよ。呉のことも知りたいし、蓮華も返事してくれると嬉しい。当然、仕事の邪魔にならない程度にさ」
「ええ」
 それから二人はしばらくの間、黙って竹林の中を歩いた。
 夏の日は容赦なく照りつけているが、生い茂った竹が日光や周囲の熱気を遮っているのだろう、林の中は比較的ひんやりとしていた。
「一刀」
「ん?」
 どれほど経ったろう、蓮華が声をかけることで二人は立ち止まった。
「北伐の無事を祈って、ちょっとした……。そう、おまじないをしてあげましょうか?」
「あ、嬉しいなあ」
 一刀は素直に喜んだ。
 彼は軍での経験はあるものの、たいていが戦闘に巻き込まれない本陣のことで、実際の戦闘指揮の経験は、同輩の武将に比べれば微々たるものでしかない。
 ずっと部下としてきた三羽烏でさえ、彼よりもずっと前線に立っているというのに。
 そんな彼が、今回はとんでもない規模の軍を動かすはめになった。
 やり遂げる覚悟はあるものの、幸運はいくらあっても足りない。
「では……えーと、そう、そうね。目をつぶってくれる?」
 その言葉に従い、彼は目をつぶる。
 視界が闇に覆われると、竹の葉を風がなぶり、さやさやとこすれ合う音が急に意識された。
「立ってればいいのかい?」
「え、ええ。そこでいいわ。動いちゃだめよ」
 闇の中、間近に立つ蓮華の衣擦れの音が、妙に大きく聞こえる。
 動くなということなので、軽く後ろで手を組んで、身を引き締めて待ち構えた。
 不意に訪れる柔らかで熱い感触。それが触れたのは、彼の唇だった。
 驚きに目を見開こうとする彼の目の上に彼女の手が重ねられ、さらに深い闇に落とされた中、柔らかで濡れたなにかが彼の唇の上で蠢くのがわかる。
 それはたしかに、『無事でありますように』という言葉の形をとっていた。
「蓮華!?」
 彼女の体がぱっと離れた途端、一刀は彼女の事をまじまじと見ずにはいられなかった。
 予想通りというかなんというか、彼女の顔は真っ赤に茹で上がったようになっていた。
「目を開くなと言ったろう!」
「いや、だって……」
「お、おまじないだ。おまじない!」
 赤い顔のまま、彼女は滑るように走り去っていく。それは声をかけようにもかけられないくらい素早く鋭い動きであった。
「おまじない、か……」
 一人、竹に囲まれて取り残された一刀はそう呟いて、まだ最前の温もりの残る己の唇を指でなぞるのだった。

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