第六回:対顔

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2.黄龍

 呉の王宮を二人の男女が行く。
 前を行くのは黝い髪の鋭い印象の女性。それに従うのは光にきらめく白い服を着た青年。
 思春と一刀だ。
「うーん。馬まで用意してくれなくても」
「蓮華様のお心遣いだ。まさか、受けぬなどと言うつもりではなかろうな」
 彼らは厩に向かっていた。
 一刀が乗ってきた馬が潰れて――結局は一刀はじめ大使館員などの魏勢の腹に収まって――しまったために、彼は建業で馬を買い求めるつもりであった。
 ところが、それを聞きつけた蓮華が、呉が所有している馬を贈るという申し出をしてきたのだ。
「いや、そりゃ嬉しいけど、この忙しいときにこんな手配までしてもらっちゃって……」
「……まったく、貴様は」
 困り顔で言う一刀に、思春は振り向くこともなく苦り切った口調で呟く。
 しかし、男からは見えていないが、その表情はそれほど困った風でもなかった。
 あるいは、内心ではいつものことと割り切っているのかもしれなかった。
「たしかに、蓮華様はお忙しい。魏での異変が生じたため、そちらの王……いや、丞相閣下が葬儀に参加出来なかったため、色々と予定が狂ったからな」
「いや、本当に申し訳無い」
 一刀は素直に頭を下げる。
 魏領内での内乱について責任があるのは華琳であるし、その盟友としては、謝るしかない。
「だが」
 男の謝罪を受けた後で、思春は平静な声で続ける。
「葬儀そのものについては、蜀の王に代わりを務めてもらうなどして、なんとか調整が出来た。二日遅れとはいえ、明後日には無事に執り行うことができるだろう」
「うん」
「それに、丞相閣下の欠席については、お前が持ってきた書簡に実に丁寧な謝罪があった。むしろこちらが返礼せねばならんほどだ」
「……あー。もしかして、今回のって」
 男はひらひらと手を振って、何事か示そうとした。思春はその指の動きをちらっと見て、小さく呟いた。
「お前がそう思いたいならそう思ってもいい」
 思春はそれについて否定することはなかった。
 ただし、肯定もしなかったことについて、一刀は気づいていない。
「なるほどなあ」
 そうかそうか。うんうん、と一刀は一人納得している。
 その様子に思春は呆れたような、諦めたような表情で、厩へと入っていった。一刀もその後に続き、馬たちのつながれた場所へ歩を進める。
「どれだい?」
「ちょっと待て……。ああ、こいつだ」
 思春が柵の前からどくと、馬の姿が一刀の視界に入ってくる。
 全身が黄白色の月毛に覆われたその馬は、茶色い目で彼のことを真っ直ぐに見つめていた。
 がっしりとした肩から流れるように続く脚。しっかと大地を踏みしめ、がっしと大地を蹴るその脚の、なんとたくましいことよ。
 そして、その瞬間、彼は、おそらくこの世界でも限られた人々しか知り得ない感覚を得る。
 本当にあるべき場所に、自分がすっかりおさまった感覚。
 それは、彼を見る茶色い大きな目と、彼の立つその場所にこそあった。
「名は黄龍。たいそうな名前だが、我らに献上される前からそういう名だったそうだ」
 そこまで言ったところで、彼女は男がまともに彼女の言葉を聞いていないことに気づいた。
「北郷?」
「あ、うん」
 答える声もなんだかぼんやりとしている。
 思春はなにがあったのか訝るが、ただ紹介された黄龍を見つめている一刀に、体調の異常などは感じられず、ますます不審が強くなる。
「乗ってもいいかい?」
「ああ、もちろんだが……」
 黄龍を柵から出し、一刀に手綱を任せる。その時、彼女は彼がぼんやりしているというより、あまりに興奮しているせいで他に注意がいかなくなっているのだということに気づいた。
 北郷の目は、まさに黄龍しか見ていない!
 そして、軽やかに馬に乗った彼は、しばらくそこらを歩かせていたが、不意に一気に駆け出した。
 そのまま城門のほうへと向かう一頭と一人。
「夜までには帰ってくる!」
 思春はひとしきり彼の言葉に呆然とした後で、猛然と厩に取って返し手近な馬に乗って彼を追いかけ始めるのだった。

 翌日も一刀は黄龍に乗っていた。
 ただし、前日にかなりの距離を走ってからようやく追いついた思春にさんざっぱら叱られたせいもあり、場所は王宮の中、さらに誰かが見ている側で、という条件がついていた。
 おかげで、今日は霞が監視役だ。
 彼女は酒杯片手に馬と一緒にはしゃぎ回る彼を眺めている。
「ふうむ。北郷はあれに夢中だな」
 すいと霞の横に現れた思春が声をかける。飽きずに練兵場を駆け回る騎馬の姿を見て、呆れているようだった。
「せやなあ。昨日は厩で寝とったんやで、ほんま入れこんどるわ」
「……あれは牡だぞ?」
「あ、あほ言いなや。あんた」
「冗談だ」
 慌てる霞に、真面目な顔を一瞬も崩すことなく答える。
「とはいえ珍しい。あれの性格からして、あそこまで執着するようなことはあるまいと思ったのだが……」
「それだけ、魅力的ってことやろ……。一生の友に出会ったようなもんや」
「ふうむ」
 今ひとつわからない、という表情をしている思春。
 彼女を見上げて、霞はしかたないな、というように酒杯を呷る。
「わかりにくいか? あんたも、船が己の手足となったと思える瞬間ってあるやろ? それと同じや。馬の場合、生き物だけに反応も激しなるわけや」
 思春は腕を組み、じっくり考えた上で、一つ頷いた。
 その間も、黄龍と一刀は急に止まったり、凄まじい速度で駆け出したりと遊んでいる。
「ふむ。なんとなく得心がいった。では、まあ、我らはよい贈り物をしたということかな?」
「せやな、馬のほうにもな」
 霞の目からすると、黄龍は絶世の名馬というほどではない。
 たしかにいい馬であるし、名馬のうちに数えられるだろう。
 だが、絶影というこの時代を代表するような存在を相棒としている彼女には、うらやむようなものではない。
 ただ、乗り手との相性で言えば、それは間違いなく一級のものだった。
 あれならば、一刀がそれほど腕が良くなくとも、いつかは人馬一体の境地に至れるはずだ。
 現時点ではただ遊んでいるだけだが、これで少しは一刀も馬を操る訓練をするようになるだろう。
 霞は密かに喜んでいた。
「よき船は、よい航海をもたらし、ときに命さえ救う。あやつにとってあの馬がそうなることを願おう」
 表情を変えぬまま言う思春を、霞は再度見上げる。その目に、今度は楽しむような色があった。
「……あんた、たまにらしくないこと言うんやな」
「ふふん」
 思春は小さく笑う。
 その笑みは、なぜかほんの少し得意げに見えた。

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