第五回:謀事

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3.母親たち

「最初に看たのは、賈駆だったか? 彼女の見立ては正しいな。残念ながら握る力を元に戻すにはかなりの時間がかかるだろう」
 治療用の鍼を左腕全体にいくつも刺しながら、赤髪の医者はそう告げた。
 まるで針鼠のようになった己の腕を見下ろしながら、秋蘭は一つ安堵の息を吐く。
「無理、というわけではないのだな」
「ああ、だが、元通り……いや、まずはそれに近いところを目指したとして、数年はかかる。俺の鍼を併用しても、だ」
 神医とまで呼ばれる華佗はそこで破顔した。どこか人なつっこい、見る者に安心感をもたらす笑み。
「ただ、それは武将としての力を考えるからであって、日常生活に必要な握力は、半年も経たずに戻るだろう。そこからが長いんだけどな」
「そうか……。だが、戻るならば、戻したい。その間は右手だけで振る武器でも使うさ」
 元々、秋蘭は右で弓を持ち、左で矢を番える変則的な構え方を得意とする。そのため、逆に持ち替えて弓を引いたりして敵を幻惑させることもできたのだが、こうなってしまえばそれも無理だ。片手剣かなにかでの戦い方を工夫せねばならぬな、と彼女は考えていた。
「とはいえ、それもしばらくは無理だな」
「ん? 馬手の動きも制限されるのか?」
 さすがにそれは困ると彼女は身構える。だが、華佗は笑顔のまま、それを否定する。
「いや、違う。左の手首を固定していれば他の部分には影響はない。そうじゃなくてだな」
 そして、それに続く医者の言葉は彼女のどんな予想をも軽く上回るものであった。
「おめでただ」

「……ということなのです」
 王座に座る華琳に報告する秋蘭の顔は、複雑で微妙なものだった。
 喜びがあり、誇らしさがあり、不安があり、申し訳なさがあった。
 できることなら、軽くかかった前髪が顔の全部を隠してくれないものだろうか。彼女はそんなことまで思っていたくらいだ。
 だが、曹魏の王は一片の曇りもない笑顔を見せる。
「おめでとう。一刀にも早く知らせてあげなければね」
「あ、ありがとうございます」
 怜悧な印象の将は、けれど、彼女には珍しく、ほっとしたような顔つきをしていた。
 喜んでくれるはずだと思ってはいても、この世で最も親しい相手に実際に喜んでもらえるかどうかは不安だった。
 彼女は自分自身のそんな心の動きに、少々驚いていた。
「でも……困ったわね。それでは北伐に連れて行けないわ」
 一方の華琳は少し政治向きに頭を切り替え、話を続けている。
「怪我のこともあるし、今回は洛陽の守将として残ってもらうことにすべきでしょうね。謀反の後始末も含めて、流琉には任せておけない部分が出てきてしまいそうだし。またぞろ朝廷が動き出してはたまらないわ」
 河内司馬氏討伐に出ている流琉からは、城攻めを開始し、陥落も間近だという報を受けている。その戦自体を流琉に任せることに全く不安はない。だが、戦場以外の駆け引きとなると、流琉よりは秋蘭に、となるのは当然の流れだった。
「そう……ですね。普段ならば流琉で十分ですが……」
「不満かしら?」
 奇妙にも歯切れの悪い秋蘭を不思議に思いながら、華琳は問いただす。秋蘭は慌てて顔を上げて首を振った。
「い、いえ! ご判断は正しいものだと。流琉には、まだこのような状況より、戦闘のほうが向いておりましょうし。そうではなくて、その……子を得るということが、なんだか……実感が……」
「そのあたりは私に聞くより、桂花や稟にお聞きなさいな。あの莫迦ったらいつまでも私には……」
 ぶつぶつと呟く後半は秋蘭の耳にも入ったかもしれないが、少なくとも彼女は聞こえたような素振りは見せなかった。
 なんだか弛緩したような沈黙が続く中で、華琳は布と木ぎれで丁寧に止められている秋蘭の腕に目をやる。
「そういえば、腕の力がなくとも子供を抱きあげたりはできるのかしら?」
「手首から先が弱いだけなので、腕全体で支えれば問題ないそうです」
「なんだ、しっかり聞いてきているじゃないの」
「そ、それは……はい」
 呆れたように言う華琳に、照れたように返す秋蘭。二人は顔を見合わせると、息を合わせたように笑い出した。
 その日、曹魏の謁見の間には、温かな笑い声が溢れていた。

 華琳も口に出したように、曹魏の軍師二人は北郷一刀の子を生み、宮城の一画、天宝舎の名で知られる養育棟でその娘たちを育てていた。
 そして、いまや天宝舎はもう一つの魏の政治の中心となっている。筆頭軍師たちがここにいる以上、華琳も顔を出すことが多く、当然に政治の議論も多くここでなされているのだ。
 その大陸の覇王の頭脳たる二人は、いま、それぞれの子供をおさめたゆりかごを己の横に置き、仕事にいそしんでいた。
「あの名前の浸透率がどうも上がらないわね」
 上がってきた報告書をこつこつと指で叩きながら、猫耳の頭巾をかぶった筆頭軍師が呟く。卓の向かい側で何かを読んでいた稟が顔をあげていつもの調子で眼鏡を押し上げた。
「『北郷六龍騎』ですか」
「ええ、そう」
「原因ははっきりしていますよ」
 淡々と言う同輩に、桂花は片眉だけをはね上げた。
「一刀殿が詠と音々音に命じて、その名が広まらぬよう手を打ったのです」
 途端に猫耳軍師が爆発する。
 立ち上がり大声を上げようとして、すーすー寝ている木犀が視界に入り、すんでで声を――彼女にしては――抑制する桂花。
「な、なにしてくれてるのよ、あのばかっ!」
「どうも、西涼や蜀の兵であるのに自分の名が冠されるなんてあってはいけない、と考えられたようで。正しい判断だとは思いますが」
「それだけ見ればね。ったく、私たちの苦労を……」
 座り直し、ぶちぶちと愚痴る桂花。計画を変えなきゃいけないじゃない、とかなんとか言うのを、稟は軽く聞き流している。
 しばらくして、ふとなにかに気づいたように、猫耳がひょいと動いた。
「ところで、それ、どこから仕入れた情報?」
「詠が、私に探りを入れてきました」
 稟は表情を変えることもなく、あっさりと答える。
「もし、戦意高揚のためにやっているなら邪魔しない方がいいかしら、と言って来たので、適当にとぼけておきましたが」
「そう、詠がね……。さすがは賈駆というところか。気づいたと思う?」
「なにかあるかもしれないとは思っているでしょうが、確信に至るにはまだ要素が足りなすぎます。むしろ、軍師であるからこそ確信が持てない。直感派ではないでしょうから」
 そこで、稟は眼鏡をくいと押し上げると、頬に薄く笑みを乗せた。
「それに、気づいたとして……」
 それを見つめる桂花の顔は少々心配げだが、彼女にしては平静の部類に入る。稟があえて続けなかった言葉を彼女自身もわかっているが故だろうか。
「……まあ、こちらもまだ動かなくていいでしょう。問題はその名前の件だけど」
「そうですね。北伐の様子を見ながらでしょう」
 詩や講談と一緒に流せば、定着しないはずがありませんと彼女は続けた。
 要はそれだけの実績がまだ足りない、ということでもある。いくら荒唐無稽な武勲話も、核となる事実がなければ作りようがない。
「そうね……。あとは、歩兵にもなにかつけないとね。北郷八鬼将ってあたり?」
「八人って誰ですか」
「そこらへんは適当よ。江東の三人がいるんだし、三でも四でもなんとかなるでしょ。袁家二枚看板だっているのよ」
「それもそうですか。では……」
 その後、彼女たちはいくつかの打ち合わせを済ませ、ふと思い出したように稟が切り出す。
「そうそう。一刀殿に伺った農法ですが」
「ああ、なんか色々持ってきてたわね」
「いくつか試してみましたが、採算にのせるにはやはり数年……十年近くかかります。現状ではどうやってもかけた労力を超えるほどの益は出ません。もちろん、慣れていないせいもあるのですが、肥料やらはともかく、連作に伴う塩害などの回避策は、五年か十年見てみないと成果がわかりませんから」
 こつこつと筆で卓を叩く桂花。
 墨が飛び散っているのが気にならないのだろうか、と稟は思う。
 もちろん口にはしないが。
「理論的にはいいんだけど、農民たちにわからせるのは実際やってみないと無理だしね」
「ええ。最終的な収穫増も、十年単位で均してみなければわかりませんし」
「とはいえ、さすがに華琳様も農産物の増産をそんなに早くお求めにはならないわ。あいつの新農法をやる畑とは別に、これまで通りの生産が見込める畑を確保しておけば問題ないんじゃない?」
 桂花は脇にあった竹簡の一つを目にとめる。
「ああ、そうよ。漢中ででもやらせてみれば? あそこは土地も気候もいいんでしょう?」
 漢中はたしかに気候がいい。なにより、これまでの五斗米道の施策により、地味もかなり肥えている。慣れない農法で成果を上げさせるにはもってこいと言えた。
「ふむ。たしかにこれまでの土地でやるよりは……。そうですね、では、南鄭近くに試験地を確保するとしましょう」
 報告と申請の書類にいくつかの事項を記していく稟を見ながら、桂花は己で意識しないままに呟く。
「天の御遣い……か」
 言葉にしてみれば、それは思っていたより重く、意味のある言葉だった。
「あいつはどう思ってるのかしらね」
「御遣いであることを、ですか?」
 稟は顔も上げず筆を止めることもしない。桂花もそれを気にした風もなく、言葉を続けた。
「それもあるけど、自分の世界の知識を私たちに分け与えることを、よ」
「どうでしょう。いかに理にかなっていようとそもそもの基盤が違いすぎて、こちらでは使いようもないものが多くありますからね。我々の知的刺激としてはよいですが、それ以上のものではないこともよくあることで。一刀殿もそれを知っていますし、裏では悔しい思いを持っているのではないですか」
「そりゃあ、あいつがそれで得意になってるとは思わないけど……」
「一刀殿にしてみれば、分け与えるなどという意識もないのではないかと思いますよ。ただ、役に立ちたいと思うだけで」
 ようやくあがった顔は、微笑みをたたえていた。その顔に、桂花は思い切りの渋面で返す。
「……ふん。自分の価値を理解していないやつは手に負えないわ。天の国の知識なんて……」
「そのおかげで色々と迂遠な手を使わざるを得ないわけですが、まあ、これも……軍師の務めというやつでしょう」
「いっそ、直に言ってやりたくなることもあるけどね」
 稟の笑みはますます深くなり、桂花の顔はさらに苦り切る。
「そうも行きますまい。与えられた答えで満足するようならば、最初からこのようなことを仕掛ける意味もありません。自ら悟ってもらわねば」
「困ったものね」
 ぐずりはじめた木犀を抱きあげ、そう呟く桂花の顔には、言葉とは裏腹になぜかほんの少し、柔らかな笑みがのっていた。

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