第四回:辺土

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3.戦場

 魏の軍部を統べる将軍夏侯惇は、剣を大地に突き立て、苛々とした様子で夜の空を睨みつけていた。
 夜番の歩哨たちが、怯えて近づけないほどだ。
「むー」
 不機嫌そうな声を漏らすその影に、とてとてと近づいていく背の低い影。
 頭になにかのせたその影は相手の怒気には頓着もせずのんびりと声をかけた。
「どしましたー? 春蘭さま」
 問いかけたのは、魏の三軍師の一人にして、この北伐のとりまとめを行う程昱。真名は風。
 頭にのせているのは、彼女の相棒宝譿だ。
「いや、もっと早く行かねば、謀反人どもをやっつけるのに間に合わぬではないかとな」
「そうは言いましてもですねー。これでもだいぶ兵を絞って急いでいるのですがー」
「わかってはいる。わかってはいるのだが……」
 風の言うことを、春蘭とて承知している。
 北伐中央軍は三十万の威容を誇るが、さすがにそれを全て転進させるようなわけにはいかない。いま引き連れているのは、彼女たちの直属の部下で、軍の中でもかなりの練度を誇る集団なのだ。
 これ以上の速度を要求するには、騎馬の兵――騎乗で戦う騎兵のみならず、馬で移動できる兵――を抽出する他ない。
 しかしながら、騎馬は左軍に割かれているため、それをすれば極端に寡兵になってしまうのだ。
 夜間行軍を強行するという手もあるが、華琳救援の軍はすでに洛陽から出ているであろうことを考えると、そこまでするのもためらわれる。
 無理をして兵を損なえば、これもまた華琳の意に沿わぬ事となるのだから。
「ま、もともと間に合うとは思ってませんけどねー」
 ぼそりと言う風。
 春蘭の逸る気持ちはわかるものの、国全体を見据える風としては、また違った見方があった。
 叛乱軍など数にすればたいしたことはない。いずれ洛陽の軍が動けば討ち取れる程度のものだ。
 より大事なのは、謀反で浮き足だった民を慰撫することだ。
 彼らに魏軍健在なりと見せつけ、さらには司馬氏の後背を脅かすことで実際の討伐行を容易ならしめる。
 これらの要求があるために、行軍はそこまで急ぐ必要はなく、また急いではならなかった。
「なにか言ったか?」
「いえー。それよりもですね。残してきた季衣ちゃんから連絡が来ましてー」
 風は本来の目的であった書簡を取り出し、春蘭に渡した。かがり火の近くに寄り、それを読み出した春蘭の額に皺が寄る。
「自害だと?」
 そこには、彼女の軍中にあった司馬朗が自害したという報告があった。
「はい。春蘭さまに申し訳がたたないという遺書があったようですー」
 春蘭はくしゃりと握りつぶした書簡を風に突き返すと、背を向けて、ぽつりと一言だけ言った。
「馬鹿者が……」
 その背後で風は丸め直した書簡を懐に入れ、しばらく様子を見てから声をかけた。
「一族が滅んでいくのを見るのが忍びなかったんでしょう」
 くるりと春蘭が向き直る。その顔に先ほどまでの暗い翳はなく、ただ、決意に充ち満ちていた。
「しかし、華琳様に逆らった愚か者どもには、鉄槌を下さねばならん」
「もちろんですー」
「それに、こうなると我らが直に華琳様をお迎えにあがるほうがよいだろう。兵の士気も上がる」
 彼女の申し出はもっともで、風としても異論はなかった。
「そですね。ともかく、周辺の動揺を治めつつ、南下するとしましょうか」
「うむ」
 そうして、二人は並んで夜空を見上げる。それぞれの思いを胸に。

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