第三回:弓手

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3.檄文

 国境の兵から早馬が届いたことで、曹操をはじめとした人々の無事が確認され、建業は一時期の緊張状態からは解放されていた。
 そのうち、最も安心したのは国王たる蓮華だろうが、それに次いだのは筆頭軍師、穏であった。
 そんな深夜――彼女はしばらく前に手に入れ、しかし、国葬の準備と魏での叛乱の勃発で封印しておかざるを得なかった本を目の前に、よだれをたらさんばかりに身もだえしていた。
「魏史大略……一度下書きを読ませてもらっているとはいえ、たのしみでなりませ~ん」
 目の前には曹操自らが記した魏の歴史書『魏史大略』がある。
 穏自身推敲に手を貸したものなので待っていれば献本が届くのだが、我慢しきれずに市場で購ったものだ。
「でもでも、せっかくだから、これは一刀さんが建業につくまで我慢したほうが……。それに、葬儀に向けて時間がないことですし、今日のところは……。いえ、でもでもぉ……」
 本を掲げて、机の前でくねくねと体を揺らす穏の目に、大部の著である魏史大略に比べれば薄い冊子が目に入る。
 商人から手に入れた時、一緒に無料配布されているとして渡されたものだ。
 この手法は比較的珍しくない。名前を売りたい文士が、有名な本を刷るのに多少の金を出す代わりに自分の書いたものも一緒に配ってもらうという、いわば宣伝のための手口だ。
 この時代、本を読む層といえばこれも名のある文人や官僚がほとんどで、そのうちの一人の目にでもとまれば、出世のとば口となるかもしれないと踏んでいるのだ。そして、自分の書いたものならば、目にとまらぬはずもないという自信も兼ね備えている。そんな若く無謀な人間の手によるものだろう。
「こ、このどこかの人が書いたという注釈書のほうなら……。曹操さんほどの文才はないでしょうし……」
 そう言いながら、穏の頬は期待に火照っている。体をくねらせながらも、あくまでも真剣に、彼女はその冊子にとりかかる。
 だが、幸せそうに緩んでいた表情は、読み進むに従って険しくなっていった。
 頁をめくる指がせわしなく動き始める。ついに最後まで、おそらくは飛ばし読むこともなく驚異的な速度で読み終えた穏は本を置き、立ち上がった。
 彼女はそのまま部屋を出て、手近にいた見回りの兵士に呼びかける。
「ただちに呂蒙を呼んでください」
 しばらくすると、呼び出された亞莎が飛び込んできた。
「い、一体何事でしょうか!?」
 彼女は顔を青ざめさせながら、部屋に転がるように入ってくる。
 こんな夜中に呼び出されるとなれば重大事。もしや、なにか自分のしたことに不備があったろうかと彼女は気が気でない。
「この冊子を読んでみてくれませんか」
 穏はそんな後輩軍師を穏やかな笑みで見つめ、しかし、はっきりと言いながらその冊子を押しつける。
「この部分ですー」
 卓についた亞莎は言われるとおり目を落とした。
 片眼鏡をずり上げ、灯りを引きよせて、よくよく目をこらしてその部分を読み進める。
『世に光武帝として知られる劉秀は過ちを犯した。
 劉姓が禅譲を経て正統を王姓に継いだ以上、それを取り戻すべく己の力で帝に上った劉秀は、己の新しい国を築くべきだったのだ。なによりも、彼は西漢の皇胤ですらなかったのだから。
 だが、彼はかつての劉姓の国家、漢を詐称した。
 断言する。この時から、もはやこの大陸に天子などいなかったのだ。
 正統は断ち切られ、君臨すべきではない者が君臨し続けた。
 その証拠に、東漢の皇帝はほとんどの者が二十にも見たぬ齢で即位し、その即位期間も代を経るに連れて短くなっていった。
 それを罰するように、天地には争乱が満ちた。
 そして、ついに乱れきった世が呼んだ者は誰であったか……。
 そう、それこそ、天の御遣いである』
 そこまで読んで、亞莎は顔をはね上げる。
「こ、これって……」
「ええ、一刀さんのことですね」
 困ったように言う穏に、亞莎はさらに声を荒らげる。
「で、でも、これは、漢の朝廷に叛旗を掲げるに等しい言辞です!」
 なによりも問題なのは、光武帝の件に関しては、理論の上では間違ってはいないということだ。『再興』と言えば聞こえはいいが、一度禅譲によって正統が失われた国家を再び打ち立ててもそれはただの形骸であり、天命を受けた「天子」の治める国家とはなりえない。新王朝を簒奪によって開くことは可能だが、漢を引き継ぐことなど出来ないのである。
 もちろん、あくまでも現実を離れた理論上の話ではあるが。
 それに比べて、後半は世迷い言に等しい。
 漢の代々の皇帝が若くして即位したのは事実だし、比較的短い即位期間で死去した者が多く、それが皇帝権力の衰退と、外戚、宦官の害を助長したのはたしかだ。
 だが、それをもって天命がなかったというのは極言にすぎる。
 なによりも、光武帝からでも二百年近くを生き延びた王朝だ。
 それが長年の間に形骸化したからといって、まるで功績がなかったと否定するのはあまりに一面的だろう。
 ましてやその批判に天の御遣いこと北郷一刀を用いるとは。
「一刀様をこのように巻き込むなんて……」
 亞莎は憤然としながら、さらに冊子をめくる。
 そこには魏史大略の各文章を引用しながら、天の御遣いがこれまで為してきたことへ賛美を送り、それに対してろくな対応が出来なかった漢朝を非難する文言が並んでいた。
 さらに故事を引き合いに出したことにこじつけて、光武帝の兄、劉伯升の挙兵そのものに関しての批判すら行われている始末。
「この著者が誰なのか。なぜ漢朝を否定し、一刀さんを誉め立てるのか。亞莎ちゃんはどう思います?」
 ひとまず冊子を閉じた二人は卓を挟んで、議論を開始する。
「一刀様を天の御遣いと持ち上げるなんて、いまさら魏には必要ありませんし、なによりも、曹操さんがご自分の本の注釈書にこんなことを許すとは……。しかし、誰かが一刀様を貶めるためにしてもこのような……自らが先に謀反人として討たれる危険を冒してまでとは。やるだけの益がある勢力が思いつきません」
「でも、この本は魏史大略と共に数多く配られているようなんですよ。魏史大略は覇王曹孟徳自身が書いた同時代史。知識人の必携の書とも言えるものです。それに付随してこの本が配られている……」
 穏の言葉に亞莎は顔を曇らせる。
「きっと、士大夫たちの大半が魏史大略を読みます。それに全てついてくるとしたら……」
「恐ろしい事態です。この冊子を読んだ反応は真っ二つに分かれるでしょう。一刀さんを非難するか。……あるいは、一刀さんを……」
 穏は言葉を濁す。二人は顔を見合わせて、次いでじっと冊子を見つめた。
「この……冊子を止めることは出来ないんでしょうか?」
「んー、呉の内ならば、出来るかなあ。でも……どうかなあ」
 亞莎の提案に、穏は苦笑を漏らす。
「禁じられたものは、余計に読みたくなるでしょう?」
「それは……」
 沈黙。
 禁じるわけにもいかず、といって放置するわけにもいかない。
 軍師たちの頭の中でいくつもの方策が浮かび上がり、却下され、検討され続ける。
「ちなみに、最後のあたりも読んでみてください」
 亞莎は冊子を開いた穏の指が指す部分を読んでみる。
『漢朝はすでに崩壊している。魏史大略を書いた曹孟德その人が、まさに漢朝を破壊し、三国の秩序を作り出したからである。しかしながら、三国の鼎立はいつか終わりを告げるだろう。大陸は再び統一されなければならない。
 ならば、それを成し遂げるのは何者であるか。
 この冊子に何度も書かれていることであるから、あえてここでは書かないこととする』
「これは……一刀様、あるいは華琳さんに簒奪を唆しているとしか……!」
「問題はぁ、この理論に賛同する人々も一定数は出てくるだろうってことですよねー」
 三国は、すでに一度魏の覇王の下に統一された。
 それを元の国主たちに分割統治させているのは他ならぬ曹操であるが、三国が分裂した状態を歓迎していない知識人も多い。彼らが期待するのは、強大な統一国家だろう。
 亞莎の指が、確かめるように冊子の表紙を滑る。彼女はそこに書かれた名を読み上げた。
「著者の名は、戯志才。偽名ですかね」
 穏はそれに軽く頷いて同意する。偽名であろうとなんだろうと、この作者を見つけ出さねばなるまい。
 口に出さずとも、二人の考えは完全に一致していたのだった。

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