第三回:弓手

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1.三日五百 六日一千

 譙の城から離れること二十里。
 小高い丘に隠れる形で、空に舞い上がる土煙を眺める一人の騎馬武者の姿があった。
「あの様子だと……すでに援軍は合流しているか」
 青に輝く髪を持ち、怜悧な印象を備えた女性がそこにいた。
「元からいたのが二万五千、援軍が一万五千、合わせて四万。なかなかの数だな」
 先に籠城していた軍が減らしたであろう兵数は考えに入れない。
 敵を過大評価するのは避けるべきだが、それでも最悪の事態は考慮しておくべきだ。彼女はその点、慎重な性質であった。
 そこへ駆け寄る兵が一人。偵察に行かせていた者が戻ってきたようだ。
「曹丞相はじめ皆様方は城に籠もり、張遼、呂布の両将軍が時に西、時に東の門より出撃し、攻め寄せる軍を牽制しているご様子。そのせいか、敵軍は退いては寄せ、退いては寄せることを繰り返しているようで」
「うむ。そうか。悪くない。お前は体を休めておけ」
 その後も数人の兵がほんの少し異なる視点の報告を持ち帰ってくる。各所に放った偵察から状況を掴んだ彼女は決断を下した。
「よし。では、やつらが次に攻め寄せた時に背後より襲うとしよう」
 彼女は無人に見える背後の平原へと声をかけた。
「構えろ、お前たち。我らが王をお救い申し上げる時ぞ」
 それに応じて、平原の各所から何者かが体をもたげた。ついさっきまでは無人にしか見えなかった平原に、兵たちの姿が現れていく。
 木々や灌木、中には砂に紛れていた兵たちは下士官たちを中心に整列をとげる。
 三日で五百里、六日で千里を駆けると言われた夏侯淵の軍が、いま戦場へと到着したのだった。

 あまりに早い援軍の到着に、叛乱軍は浮き足だった。
 城に攻め寄せるための陣を築いている部隊が、背後からの急襲に応対するには将の指導力と兵の鍛錬をかなりの量必要とする。
 残念ながら叛乱軍にその備えはないようである。
 だから、それは、純然たる流れ矢であった。
 背後に突然現れた万を超える部隊に恐慌をきたした兵たちが、狙いも定めずに放った矢。
 それは、盲滅法に放たれたが故に、秋蘭の回避をすり抜けた。
「ぐっ」
 彼女自身、矢を射かけようと弓を前に構えたところだった。その左の手首を矢が刺し貫く。取り落としかける弓を、とっさに矢を捨て去った右手でひっかけて背負い直し、上に乗る彼女の異変に鼻息を荒くする愛馬の腹を太ももでぎゅっと押さえつける。
 そうして、彼女は矢の刺さったままの左手を顔の前に持ってくると、苦笑を浮かべた。見事に手首を貫いたその矢からは、すでにだらだらと血が流れ出て、その先の指などは感覚がなくなっている。
「姉者は左の(まなこ)、私は左の(かいな)か。よくよく夏侯の血筋は矢にたたられているらしいなっ」
 軽口を叩きながら、秋蘭は手首から伸びる矢を折り取った。
 当然、腕をもぎられたのではないかと錯覚するほどの痛みが走るが、いまは無視するしかない。
 一気に抜きたいところだが、それをすればいまも流れ出ている血がさらに勢いを増すのは必定。
 彼女は両側を折り取って、ひとまず手首にきつく手綱をまきつけて止血することとした。
 馬から下りる時が大変だろうが、いまはこうするしかない。その間もずっと鈍い痛みと悪寒が彼女を襲い続けている。
「将軍! 夏侯淵将軍!」
「うろたえるな、馬鹿め」
 ようやく聞こえてきた周囲の兵のどよめきに、努めて冷静な声音で答える秋蘭。
「弓はしばし持てぬが、馬から落ちてもおらんのだ。将が少々の手傷を負ったくらいで動揺するとは、それでも貴様ら、魏の精兵か!」
 腰が引けて立ち止まることもなく突撃を続行している以上、並みの兵とは言えないのだが、それでもいまはしかり飛ばす他ない。
「聞けぇい! 我らが丞相のおわす城まで、もう目と鼻の先ぞ。孟徳様が見ておられる。無様をさらすでないぞ! 全軍、気合いを入れ直せ!」
 将の無事を知らせる力のこもった号令が響くと、動揺していた兵たちの間に安心とさらなる高揚が走り抜ける。
 そうだ、曹操様が見ておられる。
 丞相閣下をお救い申し上げねば。
 兵たちの目がらんらんと輝き始めるのを見て、秋蘭は笑みを浮かべた。
「よし、貴様ら、私についてこいっ!」
 秋蘭は痛みと感覚の喪失に耐えながら、力強くそう叫ぶのだった。

「……ん? 少し乱れてへんか」
「なにか、あったかも」
 城壁の上から混乱に陥る叛乱軍と、その混乱を作り出している夏侯の旗を掲げた軍を眺めやる張遼と呂布。
 二人の勇将はその動きの乱れに注目していた。
 彼女たちには、いつでも出撃していいとの命がすでに下されている。後はいかに効果的な機を狙うかだ。
「ま、立て直したようやし、大事でもないやろ。惇ちゃんにしろ淵ちゃんにしろ、あれほどの武将や。心配あらへん。それより、そろそろうちらも行くで」
「ん」
 二人は兵たちが矢を射るのに忙しい城壁を後にして、部下たちが待つ門前へと向かう。
 呂布と張遼。
 再び二つの巨大な力が解き放たれる時が来ようとしていた。

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