第二回:修羅

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3.呉王の憂鬱

 国主孫策の死去に洛陽から急遽帰国し、新たな王として即位した孫権――蓮華は目の前に積み上げられた書類の山をちらりと横目で見て、ため息を吐いた。
 いまも手を動かし、書類を処理しているはずなのに、いつまで経っても終わる気配がない。
 というのも同室にいる軍師の二人、陸遜と呂蒙が次々積み上げていくからなのだが。
 もちろん、そうして竹簡を積んでいく彼女らとて仕事をこなしている結果としての行為だ。王としてはそれを褒めこそすれ責めるわけにはいかない。
 だが、人間、常に集中していられるというものでもない。
 彼女は筆を置き、大きく伸びをした。柔らかな肢体が椅子の上ではねるように伸び上がり、桃色の髪のうち、長く伸びた両脇の部分が、ゆったりと垂れ下がる。
「しかし……」
 彼女が体を起こしながらの呟きを、筆頭軍師たる陸遜――穏が聞きつける。
「どうされましたー?」
 彼女が顔を上げると、その巨大な胸がぶるんっと震える。
 それを横目で見て赤くなっているのは、呂蒙こと亞莎だ。
「私はこれまでつくづく姉様や冥琳に守られていたのだな、とな」
「はぁ」
 軍師二人は何事かわからないという風に声を漏らす。
「そのおかげで、私は完全な正道を歩んでこられた。なにも汚いことに手を染めずにな。もちろん、戦には出たが……それとて……」
 その蓮華のしみじみとした言葉に同意を示して何度も頷くのは亞莎であり、一方で泰然とした口調を乱さないのは穏であった。
「わ、私も驚きました。武将であった時には想像できなかったことばかりで……」
「蓮華様は次期国王候補でしたからねー。そんな方に裏方の仕事なんてさせられませんよー」
「しかし、姉様はやっておられたはずだ。いま、私がしている程度のことは」
 その疑問には軍師たちは揃って頷く。
 雪蓮はたしかに、冥琳と共に暗部にまで踏み込んでいた。それは国主としては当たり前のことだ。
「いまはだいぶ楽ですよー。なにしろ相手が華琳さんと桃香さんですからねー」
「そうかもしれないな。あの二人は後ろ暗いことは好まないだろう。特に桃香は」
「華琳さんはいざとなったら搦め手を使うのもいとわないでしょうが……。現状そんな必要がまるでありませんし」
 それはどうだろうかと穏は主ともう一人の軍師の言葉を聞いて疑問を抱く。
 実際に比べてみれば、華琳のほうがそのような手を使ってくる可能性は低いのではないだろうか。
 それは立場の違いであり、理想にどれだけとらわれているかの違いでもある。
 だが、穏はそんなことを口にはしない。
 いま指摘してもしかたのない部分でもあるし、二人のとらえ方も間違いではないからだ。
 それこそ、今回の葬儀に出席する各君主に、同じ君主という立場として接するであろう主が感じ取るもののほうが信用がおける。
「部下には厳しさを求める人ですしねー。賄賂とか取られなくてありがたいですよー」
「普通の政権なら、長安や洛陽の修繕費用を名目に徴収されても不思議はないですからね……。もちろん、いまもある程度の費用は出しておりますが、国力を疲弊させるほどではありませんし」
 正直なところ、曹魏にしてみれば、自分の都でもある洛陽の改修や補修に他国の援助を求めてから動くというのはうっとうしくさえあるはずだ。
 だが、名目上は洛陽は漢の帝都であり、三国はその漢に仕えているということになっている。
 である以上、魏単体で勝手をすると、他国につけいる隙を作ることになりかねない。そのために、魏も形式的な徴収を行わざるを得ないわけだ。
 なんにせよ、形式というのは面倒なものだと蓮華は嘆息する。
「しかし、そう考えると……」
 彼女はふと思いついて呟く。
「桃香はこれらの暗部を見ても、ああしていられるのか」
「いえ。おそらく、それは違うと思います」
 その呟きに返ってきたのは、亞莎の反論だった。
「蜀は、桃香さんをはじめとする三姉妹には深い部分まで見せていないのではないでしょうか。いくつかの案件からそう推察されます。もちろん、表沙汰にしがたい部分なので、とぼけている可能性はありますが」
「つまり、諸葛亮と鳳統で止めている、と?」
「んー。たしかに、桃香さんには、『大徳』でいてもらわないと困りますしねえ」
 穏は、なんとも言えない表情を浮かべ、そんな言葉で亞莎の意見をどちらかといえば肯定してみせた。
「ふむ……」
 腕を組んだ蓮華は自分の腕を自分の指で軽く弾く。
 立てかけてある南海覇王に目をやり、次の言葉を探した。
「しかし……危うくないか、それは。全てを決める王が真実を知らぬというのは」
「知る必要がないこともありますが……。しかし、それでも、朱里ちゃんたちが、ちょっとやりすぎちゃってる可能性は高いですねー」
「その可能性は、どの程度だ?」
 主の問いかけに、筆頭軍師たる彼女は声を潜めて答えた。
「十中八九」
 沈黙が落ちる。
「そのあたり、明命なら知っているのではないでしょうか?」
「……そうだな、明命にも聞いてみるとしよう」
 明命が司る諜報活動は、平時の現在さらに重要性を増し、彼女やその部下はあちらこちらへ足を伸ばしている。
 あまり無理はさせたくないが、必要なこととてしかたない。
「情勢把握は大事ですしね。ついつい、魏を見てしまいますけどー」
「あちらは大きいからな。だが、実際には荊州で争う蜀のほうが重要かもしれん。警戒を怠るつもりはないが、いまのところ、魏には江水を渡るつもりはなかろうし……」
 蓮華の言葉はそこで途切れた。
 扉が急に大きな音を立てて開かれる。そこにあるのは、彼女の側近中の側近、猛将甘寧こと思春の姿。
「蓮華さま」
「何事か」
 蓮華は正しく彼女の声に込められた真剣さに気づいていた。
「孔融が謀反を起こした由」
「なっ」
「建業に向かっていた曹操、北郷、それに同行していた賈駆の三名が数万の軍に囲まれたと」
 思春は間を置かず、簡潔に事実を述べる。
 しかし、普段から常に冷静な彼女の声がほんの少しだけうわずっているのを、長いつきあいの王と軍師たちは気づいていた。
 蓮華は顔色を変えたものの、かたわらにあった茶をひっつかみ一気に飲み干す事で無理矢理に思考を切り替える。
 驚愕に意識を止めていても、なにも進みはしないのだ。
「軍を向けるべきか。いや、しかし、魏領に勝手に……」
「いまから援軍を出すのは少々難しいかと。間に合うとは思えません」
「ですねー。それに、下手に軍を出すと、他の賊を刺激するかもしれませんし」
 王の言葉に、軍師たちが助言を連ねる。蓮華はそれを咀嚼するように、何事か口の中だけで呟いていたが、すぐに上がった顔は決意に満ちていた。
「……そうだな、しかたあるまい。だが、国境沿いの各所に迎えの軍を配するのはどうだ?」
「警戒を兼ねて、それは行ったほうがいいかと」
「では、そうしよう。思春は明命と共に軍を率いよ。思春は水上、明命は陸上だ。桃香たちも向かっているはず。そちらにも気を配っておいてくれ」
「はっ」
「穏たちは、状況に応じて動きをとれるよう用意をしておけ。ただし、あまり騒がしくならぬよう」
 矢継ぎ早に指示を下す。応じて三人の部下たちは立ち上がり、それぞれに動き始める。
 その様子を確認した後で、呉の女王は一人、窓から空を見上げ、流れゆく雲を眺めやる。
 その時、彼女の呟きを聞き取れた者は誰一人いなかった。
「無事でいてくれるかしら……」

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第二回:修羅」への2件のフィードバック

  1. 修羅か・・・そう聞くと一つの世界を壺毒に見立てて造り出された悪魔、人修羅を思い出すなぁ

    •  修羅を生み出してしまうような状況はあまりいいものとは思えないのですが、それでも、どうしても生まれてしまうのでしょうなあ。

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