第二回:修羅

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「あまり気勢を上げすぎないようにね。私たちは呂布将軍が切り開いた後をゆっくり進軍すれば十分よ」
 華琳は周辺で戦いを続ける兵をなだめるようにいっそ優しく話しかける。
 もし、これが本来指揮するべき親衛隊であったなら、そんな生ぬるいことはけして言わない。
 だが、北伐にも引き抜かれなかった二線級の部隊だ。あまり無茶なことをさせても潰れてしまうのがおちだろう。
 それでもそれなりに働いているのは、士気が高いことと、詠が城から放ってくる援護射撃のおかげだ。
「華琳」
 馬を寄せて、何気ない仕草で話しかけてくる一刀。
 声を絞りたい様子がありありとわかるが、それをすればかえって兵が不審がることを承知している。
 なるべく普通の声でいようと努力しているのが伝わってきた。
 胆力はまあまあだけど、慣れることが必要ね。
 彼の態度にそれなりの評価を心の裡で下す華琳。
「霞が、本陣を崩しそうだが……」
 ちらっと彼は視線をやる。華琳も彼の見つめる方へ目をやった。
 急激な動きが本陣近くで起きようとしている。
「……やり過ぎだ。あれじゃ、もし崩せても囲まれる」
「よく気づいたわね」
 実を言えば、華琳はしばらく前からそれに気づいていた。
 しかし、手遅れになる前に一刀が進言してきたことで、彼女の満足はより完璧に近づく。
「でも、この数の兵じゃ近づけないわよ」
「くっ」
「どうするべきかしら?」
 試すような声音で問いかける。
 王宮で三軍師に向けるような声に少し驚きながら、一刀は自分の考えを述べた。
「負担をかけることになるけど……恋をあてにするしかないと思う。俺たちは一度退くか、場所を変えて、親衛隊を支援しつつ、恋と霞、二つの隊の退路を切り開く態勢になるべきだ」
「わかったわ」
 華琳はあっさりと彼の言を受け入れる。
 言った一刀のほうが驚いて目を見開いたほどだ。
「いいのか?」
「退くべき時はあなたが決めろと言ったでしょ。曹孟徳が一武将として戦うのはここまで。ここからは、霞と恋を無事に戻すために、戦場全体を指揮する戦を始めましょう」
「ああ。わかった。そうしよう」
 そうしててきぱきと部隊の動きを変え始める華琳。
 それに応じて動き始める一刀の行動にも、もはや迷いは一片もなかった。

「ちょ、これ、きついかなー」
 あまりの急な襲撃に本陣で右往左往していた幹部陣の首を手当たり次第にはね飛ばし、馬蹄で踏みにじった後で、ふと霞は冷静に状況を分析し始めた。
 これまでは、本陣を襲うのが目的であったから、それを成し遂げることだけを考えて行動していた。
 だが、目的が完遂された以上、次を考えなければならない。
 すなわち、この場から生還することを。
 見渡せば、まさに全滅した本陣と、それを十重二十重に取り囲む敵の部隊。
 直衛の部隊が潰走し、空いた場所に、他の部隊が移動し始めていた。
 あえて近づいてくるとなれば、先ほど見せた張遼隊の恐怖がまだ刻み込まれていない、後背の部隊だろう。
 霞は背後の五百を片眼だけで見やる。
 いまだ意気軒昂なれど、その体に蓄積した疲労は間違いなく彼らの動きを鈍らせるはずだ。
「ま、ええか。ここでうちが一暴れしてなんとかするから、お前ら火ぃかけてさっさと逃げ」
 周囲から抗議の声が巻き起こる。
 当然だ。将を置いて逃げるなど、兵たちが肯んじるはずがない。まして、どっぷりと黒血にまみれた武将を。
「だぁほ。あんたらの隊長が自分を犠牲にするなんてたまかい」
 霞は笑う。
 ぽっかりと虚空に空いた穴のように、その口が赤く開く。
「うちにとってもそれがいっちゃん楽なんや。あんたらが逃げ切ったら、もうなんも考えんで逃げられるんやからな。せやから、うちを安心させるためにも、死にものぐるいで逃げてもらわなあかんで?」
 霞のからかうような口調を受けて、軽い笑いが起きる。
 だが、兵たちはわかっていた。これが今生の別れとなりかねないことを。霞もわかっていた。彼らの逃亡がまさに死にものぐるいとなるであろうことを。
 それでも。
 彼らは笑い合う。
 緒戦は彼らが制した。
 ここで死んだとしても、彼らの大事なもの――それは家名であったり、武名であったり、誇りであったり、魏という国であったり、曹孟德という人物であったり、北郷一刀という一個人であったりした――は守られる。
 だから、笑う。
 恐怖と冷や汗にまみれながら、彼らはそれを笑い飛ばす。
「よっしゃ、わかったら、さっさと火ぃかけ。その煙に紛れて駆けるんや。他の部隊と合流したらうちらの勝ちや」
「はっ」
 霞の命にせわしなく動き始める一団。
「それと、旗はそこら中に差して行き。うちも一本担いでいくさかい」
 霞はそう言うと、血で張り付いた指を飛龍偃月刀からひきはがしはじめた。固まった血は、それに抵抗するようにばりばりと音を立てるのだった。

 燃え上がる天幕を背景に、霞は大きな瓶を持ち上げる。せめて綺麗な水をと部下たちが本陣の残骸の中から探し当ててくれた水瓶だ。
 それを頭上でひっくり返し、頭からざぶざぶと水を浴びる霞。
「ぷっはー」
 ふるふると猫かなにかのように体を震わせると、水滴があたりに飛んでいく。それは、背後の燃えさかる火に照らし出されて、きらきらと輝いた。
 残った水を、かたわらでおとなしくしている絶影にもかけてやる。ぬるい水とはいえ心地よいのか、機嫌よさげにぶるるといななきを上げる絶影。
「あとで川にでもいこなー」
 首筋をなでてやると同意の印か馬首が下がる。
 霞はにっこり笑うと背に紺碧の張旗を背負い、飛龍偃月刀を携えて絶影にまたがった。
「んじゃ、もう一踏ん張りしてや」
 とはいえ、本陣から見渡せば、周囲の敵は絶望的なまでに多い。
 つっこめば周り中敵なのはありがたいが、はて、どれだけ倒せば自軍と合流できることだろう。
「んー。昔やったらここで討ち死にしてやってもよかってんけどなあ」
 一瞬だけ、ある人の顔が心の中に浮かび上がる。
 そのことに感謝とほんの少しの照れを感じつつ、彼女は敵を観察する。
「いまはあかんねんなー」
 まずは殺せるだけ殺す。
 霞は心に決めた。
 そうすれば、部下たちは恋の部隊か、華琳の部隊と合流できるだろう。
 合流した後で、退路を切り開いてくれることまでは望まない。だが、あちらの動きに合わせることが出来れば、打開策も見つかるかもしれない。
「それにしても多いなー」
 ぼんやりと言いつつ、彼女は弱いところと強いところを見極める。
 目指すのは部隊の中でも最も強い部分。それを打ち砕き、腰が引けた弱兵を突破する。
 ひとつ試してみるかと彼女は飛龍偃月刀を構え直した。
 それは燃える本陣を遠巻きに囲む兵士たちからすれば、炎の中から現れる幽鬼のようにしか見えなかったろう。
 だが、霞が絶影に突撃の合図を送る前に、眼下の兵たちに動きが生じた。
 苦鳴と共に数人が一度に吹き飛び、それを見た兵たちが鎧を鳴らして後ずさる。そうしてぽっかり空いた空間に現れたのは方天画戟を担ぐ赤髪の少女。
「恋!」
 かけられた声に恋は再び得物を振るい、悠然と霞と絶影のもとにやってくる。
「入るのは、簡単」
 そこでちょっと首をひねる。
「出るのは大変。だけど、ご主人様たちが、待ってる」
「そうか。一刀と孟ちゃんが退路を確保してくれてるんか。それにしても厳しいな」
「でも、二人いれば、なんとかなる」
「せやな」
 紺碧と深紅。
 二つの旗が翻れば、この世に通らぬ無理はない。二人は心底そう思っていた。
「ただ……急がないと」
「急ぐ? ん、わかった。急ごか」
 疲弊した自分自身の体の調子を自覚して、恋も同様に厳しいものがあるのだろうと判断する。それに、一刀たちが城までの道を開いてくれているにせよ、そうそう長くは続くまい。
 なるべく早く終わらせるにこしたことはないだろう。
 だが、その予想は外れていたらしい。恋はふるふると首を振って否定の意を示してみせた。
「違う」
「へ?」
 彼女は片手を上げると、真っ直ぐ北を指した。炎の向こうに、空に舞い上がる黄塵が見えた。
「敵が、来る」

 その時、離れた場所から同じ土埃を見つめていた華琳は疲れたようにため息を吐いた。
「……どうも許攸は遅れてやって来たようね」

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第二回:修羅」への2件のフィードバック

  1. 修羅か・・・そう聞くと一つの世界を壺毒に見立てて造り出された悪魔、人修羅を思い出すなぁ

    •  修羅を生み出してしまうような状況はあまりいいものとは思えないのですが、それでも、どうしても生まれてしまうのでしょうなあ。

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