第一回:死地

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2.飛将軍

 栄えある曹魏の親衛隊将校である彼女は眼前の光景がとても信じられなかった。
 親衛隊千名が、敵のほぼ同数の部隊四つに前後左右から囲まれながら、その状況を打開しつつあることを、ではない。
 それを成し遂げている原動力のほとんどが、たった一人の女性から出ていることに、彼女は驚き、畏怖していた。
 名にし負う曹孟徳の親衛隊。
 たとえ四千の敵を相手にしても、その弱い一角を突いて、突破をはかることは難しいことではない。
 だが、彼女の目の前で行われているのは突破ではなく、足を止めての力のぶつかり合い、兵の削り合いだった。
 そして、それを制しているのは、数に勝る叛乱軍でもなく、曹魏の選び抜かれた精兵でもなく、一人の将軍――天下一と名高い武人、飛将軍呂奉先その人であった。
 方天画戟が振られる。
 その速度は凄まじく、その技の冴えはすばらしい。
 おお、見よ。その刃は、血に濡れてすらいない。
 だが、それがもたらすのは、無惨な現実だった。
 肉が潰れ、体の部位が引きちぎられ、手足の何本かが切り裂かれて飛ぶ。呂奉先が一振りする度に、いくつもの生命が失われ、幾人もが不具にされていく。
 それは、まさに暴風。
 一人の女性を中心に荒れ狂う暴虐の嵐であった。
 呂布将軍一人だけで、一部隊、いや、一軍に匹敵する。
 指揮する彼女をはじめとして、親衛隊の面々がそう思ってしまうのは無理もない働きであった。
 もちろん、それだけで劣勢を覆せるわけではない。呂布のあまりの強さに恐れをなして、それよりはましな相手――つまり、親衛隊のほうへ向かってくる敵もいれば、単純に位置取りの問題で、呂布の手が届かない兵もいる。それらに対して、親衛隊はまさに獅子奮迅の働きをしている。
 だが、それでも、その戦場を支配しているのは、膨大な血を流しながら、まるでそれに汚れていない赤毛の女性であった。
 彼女はしばらく前――この戦が始まる直前の事を思い出す。
 ちょいちょい、と存外にかわいらしい――恋という一人の女性をよく知る者にとってはとても彼女らしい――仕草で手招かれ、親衛隊の将校である彼女は主である曹孟德に対する時とは別の意味での緊張を感じながら、臨時の将軍である呂奉先の許へ近づいていく。
「なんなりとご命令を」
「ん」
 将軍はそう言った後、しばし無言だった。
 彼女としては、その無言の圧力に耐えがたいものを感じながらもなんとか踏ん張っている有様。
 ここで無様な姿を見せれば、曹魏の主はもちろん、親衛隊の長である許将軍や典将軍にまで恥をかかせることになる。
「先に、恋が敵を真っ直ぐに切り裂く。みんなは、それを広げて」
 発せられた言葉は簡潔で、意味を取り違えようのないものだった。それでも、彼女はそれに驚かざるを得ない。
「それは……」
「馬車の時といっしょ」
「わかります。わかりますが、しかし、あの時とは数が違います。囲まれてしまうのでは……」
 彼女の抗弁に、将軍はふるふると首を振った。
「いっしょ」
 それでも納得できなさそうな彼女をじっと見て、呂布はしばし首をかしげる。
 それから、ようやく思いついたというようにゆっくりと話し始めた。
「みんなで背中を預けながら両側に向かって戦う。そうしたら、敵は前にいる三人ぐらい」
 将軍の言うことはわかる。囲まれれば、それなりの密集陣を取って戦わなければならない。
 だが、おそらくその言葉はもっと単純なことを言っている。言葉通りのことを。
「その向こうにいるのは、前を倒してから考えればいい」
 それから、赤毛の女性は思い出したように付け加えた。
「殿が包まれそうになったら、恋が戻る」
「わかりました。我々はただ、二列になり、両側から向かってくる敵を討てばよろしいと、そうおっしゃるのですね」
 少々呆れながら――こんなのは戦術とも言えない――答えると、将軍のほうは真剣に頷く。
「ん」
 もちろん、この人ならば大丈夫だろう。しかし、我々は……。
 その不安をなんとか表情に出さぬよう努力したものの、目の前の女性は敏感に感じ取ってしまったようだった。
「だいじょぶ」
 にっこりと朗らかな笑みは、彼女にまつわる噂とはまるで印象が違った。
「恋たちは、負けない」
 それに、と続ける呂奉先。
「勝つだけなら、簡単」
「簡単、ですか……」
 やはり、言うことが違う、と思った途端、次の言葉に彼女は体を貫かれるような衝撃を受けていた。
「勝つまで戦えばいい」
 ああ。
 彼女は嘆息せざるをえない。
 この女性は、これまで幾度戦ってきたのだろう。
 百度か、千度か、百億の戦か。
 戦って、戦って、負けてもなお立ち上がって、勝つまで戦い続けること。
 その、強い意志の化身がここにある。
 呂奉先。天下の飛将軍。
 その示す言葉の意味を、彼女は初めて理解した。
 この人は、強いから勝つのではない。
 勝つからこそ強いのだ、と。
 だが、その認識をさらに改めるような表情を眼前の赤髪の女性は浮かべる。
「でも、もっと大事なのは負けないこと」
 そのはにかんだような笑みを浮かべた顔が向いているのは、本陣。
 そこに、この方の大事な御方がいる。
 直感的に、彼女はそう思った。
 そして、そのことをうらやましいと思った。
「みんなを……まもる、こと」
 言っているうちに、温かな笑みは、だんだんと引き締まり、真剣きわまりない表情がそこに残る。
「恋が守る。だから、みんな、負けない」
 将校はそこまで思い出し、手に持った剣を握り直す。
 目の前には、数倍の敵。
 だが。
「ええ、そうですとも」
 彼女の頬には笑みが乗っていた。
「私たちは負けません」

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