第一回:死地

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1.叛旗

「おぉおおおおおおおおっ」
 騎兵に対するにはただひたすらに踏ん張ることだ。
 小細工は通用しない。逃げれば死ぬ。
 かつての指揮官の言葉を思い出し、彼はしっかと大地を踏みしめ、槍を突き出す。
 彼は、かつて魏の正規兵だった。あの赤壁にも、成都攻略戦にすら参加した歴戦の勇士だった。
 三国が平定された後も、軍を辞めさせられたわけではない。自分から家族の許に戻るために、望んで辞めたのだ。
 おかげでまとまった金を得られた。
 出身地で帰農することを条件に牛と――これはさすがに脚色であろうが――李典将軍自らが鍛えたという触れ込みの鉄製の犂さえもらえたのだ。
 しかし、帰った故郷に、待っているはずの父母はいなかった。かわいい弟はいなかった。彼が兵役に出た直後、黄巾の乱の後期に村が襲われ、父母兄弟を含めて親族のほとんどが死んでいたのだ。
 ただ叔父夫婦だけは生きていた。そして、彼が送り続けた給金は、全て彼らのものとなっていた。
 そこで、どうでもよくなった。
 おためごかしを言いに近づいてきた叔父をそのまま引き倒し、金切り声を上げる叔母を拝領した犂で殴り殺したところで、さらにどうでもよくなった。
 叔父は背骨を踏み抜くだけにとどめた。そのまま放ってきたが、生きていても一生歩けはしないだろう。
 そして、軍時代の顔なじみを頼って傭兵となり転々としていたところで、今回の戦に誘われた。
 なんと、魏の覇王、曹操に叛旗を翻す戦だという。
 賭けてみるか、と思った。
 魏軍で築き上げたものは全て失った。今度は、かつて仕えた相手から無理矢理毟り取るのもありだろう、そう思った。
 そうして、彼は戦場にいる。
 敵は、あまりに寡兵だった。
 こちらは万を超える軍を揃えているというのに、あちらにはせいぜい数千しかいない。
 この場に来るまでは震え上がっていたような賊上がりの兵も、それを知って急に元気になって、何事か空虚な言葉をわめき散らしていたくらいだ。
 だが、実際に対してみれば、数百頭の騎馬とはいえ、その巨体が列になって襲いかかってくる姿は、やはり恐ろしい。
 逃げようとした左隣の兵をぶん殴って踏みとどまらせ、槍を構えて大声を上げる。
 そうして気構えを組んでいれば、よほどのことがない限りは生き残ることが出来る。
 騎兵による最初の突撃で怖いのは、長距離を走って勢いにのった馬にはじき飛ばされ、踏みにじられることだ。馬上の兵たちの攻撃など、その勢いの中ではほとんど届くことはない。乗り手を恐れねばならないのは、二度目三度目の緩い刈り取るような突撃の時だ。
 だから、先手を打って馬を槍で突き殺す。
 それが、歩兵に出来る最良の選択だ。
 もちろん一刺しであの馬体が倒れるはずはないが、こちらは数で遥かに勝るのだ。それになによりも、馬体の突進の力が、そのままこちらの力となってくれる。
 そうして同じように槍を構える列の中、彼は近づきつつある騎馬の群れの先頭にいる人物を見つける。
 結い上げられた髪、挑むように浮かべた獰猛な笑み。そして、切れ上がった深い緑の瞳。
 それは、戦場には似つかわしくないほど美しい一人の女性だった。
 身につけているものと言えば、風をはらんで翻る羽織と、胸に巻いたさらしと袴だけ。防御を微塵も考えぬその姿。
「張遼将軍……!」
 その部隊を率いる将の正体を悟った瞬間、彼の体から戦場の高揚は消え去った。
 そして、彼は悟る。
 ああ、これが俺の。

「ん?」
 手近にいた敵の首を刎ね上げながら、霞は何かを見つけたような気がしたが、そのひっかかりはするりと思考の編み目を抜け落ちていく。
 さらに二度三度飛龍偃月刀を振るった後で、軽い口調で呟いた。
「まあ、ええか」
 敵はそこら中にいた。
 なにしろ、こちらは五百、あちらは一部隊でもそれを倍するだろう。気にするまでもなく、武器を振るえばそれだけで敵にあたるような状況だった。
 とはいえ、もちろん、そんなことを言えるのは世に謳われる張遼だからこそだ。
 彼女の隊の兵たちは優れた兵士だが、霞に並ぶほどの者はいない。
 猛烈な勢いで走る馬を御し、相手の突き出す槍から馬体を避けさせても仲間の馬の進路を邪魔しないだけの技量はあれども、走り際に武器を三度振るうだけで五人から十人の体を引き裂くなどという荒技が可能なわけではないのだ。
「んー、右が弱いか?」
 彼女は敵の兵を斃しながらも、隊全体の様子を常に見ている。
 いや、感じていると言うほうが正しいだろう。
 視界に入っていなくとも、いななきや地を蹴る蹄の音や空気の流れ、あるいは何とは言えない雰囲気を感じ取って、彼女は隊の動きをまるで自分の体の動きと同じように把握している。
 その感覚が、妙に右端で鈍いように思えた。
 絶影の腹を腿で挟み込み、ほんの少し走る速度を抑えさせる。そのまま敵の歩兵を蹂躙する隊列の中に入り込み、右側にいた兵の一団の中へ移動していった。
 その中で、霞は一人の兵の近くに駆け寄る。
「なんや、縮こまって。あんた、隊を率いるんは初めてやったっけ?」
 目をつけた相手と馬首を並べ、わらわらと打ちかかってくる敵を払いのけるように薙ぎ切りながら剣戟の音に紛れぬほどの声で尋ねてみる。
 相手は馬を操ってはいるものの、武器は前に突き出されただけで、明らかにもてあましている感があった。
 集団としては、最初の衝撃が薄れ、動いてはいるものの、馬群の動き自体が鈍りつつある。
 本来はこの部隊を突き抜けて、その後に旋回する予定であった。霞は、抜けきれへんかもな、とそう考えていた。
「は、はい、張遼隊では、初めてであります!」
 こいつは、たしか親衛隊の出やったか。
 部下を指揮するんはうまい思て百人長にしたけど、ちょい焦ったか?
 自分の判断を省みつつ、特に気にもせず、絶影の駆けるのを楽しむ。
「そうかー。うちとこで戦うのが初めてでこれは大変やろなー。せやけど……ここまで来たら覚悟決めんかい、だぁほ」
「は、はいっ。死ぬ覚悟ならば出来ております!」
 思わず怒鳴っておきながら、百人長としての戦が初めてならばそのようなものだろうとも彼女は思っていた。
 彼女から見れば、まだ一般兵とそれほど変わらない。
 指揮する者としての意識が生まれるのは今日生き延びた後のことだろう。
 それでも、やはり伝えておかねばならない。
 この場で。
 血風吹き荒れるこの戦場でこそ。
「かーっ、これやから。あんた! そこの百人長」
 呆れたように息を吐きながら、左の方、五騎ほどを隔てて駆けていた隊長の一人に声をかける。
「はいっ」
「一度兵をまとめて退くで。うちがここで踏ん張るから、小さくまとめ」
「了解っ」
 絶影に膝の動きだけで方向を示すと、途端にその速度を上げ、先頭に立つ霞。その合間に、彼女は命を下した百人長に問いかけていた。
「あんた、死ぬ覚悟なんてもって戦っとるか?」
「いえ、死ぬ覚悟はありません。ただ、命の使い道を考えているだけでして。使いどころを、おっと、間違えぬ覚悟はありますが」
 横合いから打ちかかってきた槍を避けながら答える百人長を後ろに残して駆けながら、こいつは百人長止まりやな、と彼女は口の中だけで呟く。
 絶影の蹄が一人の兵士を右前に蹴り上げ、そのはじき飛ばされた体を、待ち構えていたように飛龍偃月刀が両断する。
 息の合った人馬は、まるで踊るように歩兵の隊列の中で人をはね上げ、踏み潰し、切り裂き、打ち砕いていた。
 それと共に、滑るように隊列の後方から進み出てきた騎馬の姿がある。これまで殿についていた彼は、千人長という肩書きを持つ。
「おう、あんた。死ぬ覚悟なんかあるか?」
 麾下にも五人しかいない千人長に問いかける。
 常日頃副官としての任を果たし、これまで何度も死線を共にくぐり抜けてきた男だ。
「そうですなあ……。まあ、生きるも死ぬも、一歩踏み出すだけの違いですからね。なるようにしかならんでしょうよ」
 霞が武器をはじき飛ばした男を手に持つ矛でとどめをさしながら、彼は飄々と答える。
 彼と霞が敵陣中央で目立つ戦いをしている間に、兵たちが背後で小さくまとまりつつあるのを二人はしっかり感じていた。
「ああ、しかし、このような言は講談師には好かれますまいな。もう少し格好をつけたほうがよろしいでしょうかね?」
「なんや、詩でも作ってもらうつもりかいな」
「五百で二万五千の本陣を崩せば、物語の一つ二つ出来ますよ」
 彼らは談笑しながら、規則正しく刃を振るう。
 遮二無二つっかかってくる歩兵たちをあやすように長柄が突き出される度に、血の花が咲き、苦鳴と肉を切り裂く音がする。
「ははっ! せやな」
 猛る絶影を少し押さえ込むようにして、霞はその場を確保する。あまりの斬撃の鋭さに彼女たちの周囲の兵は距離を置くようになっていた。
「よっしゃ、右に旋回すんで」
「は。では、私が先駆けを」
 千人長は馬首を巡らし、兵たちを引き連れて右へと流れていく。もちろん、敵も黙ってそれを見逃してくれるわけはない。
 流れる馬群に猛然と向かおうとする兵の群れの前に、霞の真っ直ぐに伸ばされた偃月刀が横たわる。一声高く、絶影がいななきを上げた。
「さあて?」
 なんとも知れぬ問いかけに、歩兵たちはたじっと一歩足を止めてしまった。
 その一瞬で、全てが決まった。
 張遼隊は駆け抜け、それに応じて前に出ようとした歩兵たちは、軽く振るわれた偃月刀に飛ばされた仲間の首を見て、さらにその動きを鈍らせた。
 にたりと後に残る笑みを見せ、張遼はその身を翻す。
 右方の開けた場所を目指す張遼隊の後ろについた彼女は、次第に兵たちを追い抜き、その先頭に立つ。
 そして、そこで絶影の足をゆるめ、ゆっくりと向きを変える。
 向かうは新たな部隊。その部隊が弓を持ち出そうとしているのを見て、霞は嘲りの笑みを浮かべる。
 最初から弓隊として配置されているならともかく、付け焼き刃の持ち替えなど無駄に決まっているだろう。
 かえって突撃に備えることが出来なくなるというのに。
「おう、うちの隊のやつら、よっく聞け。進むも死地、退くも死地や。周り見渡してみぃ。死で溢れとる。その死に呑み込まれるんも、生き残るんも、たった一歩の差ぁしかあらへんのや。
 どうするか?
 そんなん考えてる間に死ぬわ」
 彼女の背後に集まった兵は物音一つ立てず、彼女の言葉を聞いている。
「もうな、うちらには死地しかないねん。
 せやったら、進んでみぃ。一歩でも進んで死んでけ。その先に生きる道もあるかもしれん。うちらの進む先は、ただ、死ぃあるのみや。その死が敵のもんか己のもんか、たった一歩の差ぁや。どの一歩がそれかなんて、わかるんは鬼のみや。
 うちらはただ信じて進むしかない。それしかないんや」
 彼女は飛龍偃月刀を構える。すでにべっとりと血にまみれたそれは、なによりも雄弁に身近な死を物語る。
「いま、うちらが世界の中心や。
 ええか、死地こそが世界のど真ん中や。ここに全てがあり、ここで全て無くすんや。
 さぁあ、置いていけ!
 命を、死を、生きたい思う気持ちも、死ぬと決めた覚悟も、全て置き去りにして、一歩を踏み出せ!」
 そうだ置いていこう。
 あの人がくれた、一人の女としての安らかな思いも。
 あの人に感じる、このはちきれんばかりの思いも。
 いまは、置いていこう。
 ただ、殺すために。
 ただ、打ち砕くために。
 あの人と、その後ろにいる幾人もの愛しい人々のために。
 さあ、行け。
 いま、自分は、なによりも無敵だ。
「張遼隊、突撃」
 その宣言は、いっそ静かに戦場に響いた。

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