第一回:死地

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 漢中。
 それは、かつて漢の高祖劉邦が封じられた土地。
 周囲を山で囲まれるために寒波が侵入しづらく、気候は温暖で地味は豊か。
 恵まれた土地であった。
 その漢中の中心都市たる南鄭の城から、二頭立ての馬車が走り出た。周囲を騎馬の兵に囲まれたそれは、がたごとと揺れながら道をひた走る。
「田豊さん、気むずかしそうな人じゃなくてよかったね」
 体の芯に響いてくる揺れに耐えながら、二人の乗客のうち一人がもう片方に話しかける。
 彼女の首についた鈴が振動を受ける度に小さな音を立てた。時折、彼女は大きな飾りのついた帽子が落ちないよう押さえつけていたりもする。
 彼女こそ、この漢中も含めた益州、及び荊州を支配する蜀の大軍師、世にも名高き諸葛亮であった。
「うん。でも、はっきり物事を言う人だね。ちょっと……怖かったかも」
 これもまた、先のとがった大きな帽子が落ちないよう押さえながら答える片割れは、諸葛亮と並び称される鳳統その人である。
 彼女は、大きく広がった帽子のつばで顔を隠すようにしながら、小さな声で答えていた。
「元々、袁紹さんのところにいた人だし、あれでもましだと思うけどな」
「それは……。うん、そうだね」
 彼女たちは世に名高き大軍師であると共に、まだ年若き少女でもあった。
 その真名を朱里と雛里という。
「たしかに秋蘭さんは話しやすかったけど……。でも、なにしろあの曹操さんの側近中の側近だもん。下手になにか言ってしまうと大変だったわけだし」
「そういう意味では、少し緊張してるくらいのほうがいいのかな……」
「うん。たぶんそうだよ」
 二人は顔を合わせて頷き合う。
「桃香様と鈴々ちゃんは、いまどこらへんかな」
「どうだろうねー。天候も悪くないから、長江を順調に下ってれば、結構進んでいると思うけど」
 雛里が彼女たちの主たる劉備こと桃香と、その義姉妹でもある鈴々――張飛のことを口に出すと、朱里は腕を組んで考え込む。
 その途端、車輪が石でもはねたのか、がたんと大きな揺れが届き、彼女はひゃっと声をあげた。
 それを見て、雛里は思い出したように呟く。
「曹操さんのところの馬車、すごかったね」
「うん、全然揺れなかった」
 彼女たちが話しているのは、以前、三国会談で洛陽を訪れた折に乗った貴賓専用馬車のことだ。
 だが、それが工兵隊長にしておそらくは三国一の発明家であり技術者でもある真桜の手によって改良を続けられ、さらなる発展を遂げていることは、もちろん知る由もない。
「あれは、馬車自体もだけど、道のおかげもあるよね」
 それに比べて、この道のなんとお粗末なことだろう。
 体の芯を突き上げてくる振動に、雛里は嘆息せずにはいられない。
 これでも益州の要所である漢中と、蜀の都成都とを結ぶ幹線道なのだ。後漢代々の都、洛陽の周辺と比するのはおこがましいことかもしれないが、やはり比べてしまう。
「でも、蜀であれほどの整備をするには……ね」
「手が回らないね」
 蜀はけして不毛の地ではない。
 山がちな地形ではあるが、四川盆地やその中心となる成都平原のように、気候が安定し土壌も豊かな地も多い。
 塩、銅などの埋蔵資源も含めれば、十分に民を潤すだけの富を得ることの出来る、比較的恵まれた場所だ。
 そして、民も蜀という国を――なによりも、その王である桃香を慕っていて、納税や賦役の状況も悪くない。
 しかし、一度、三国全体、大陸全体に目を向けると、途端にその不足が目立ってくる。
 確かに住んでいる民が困らないだけの作物や、生活物資は手に入る。
 だが、豊かでなんでも実る土地があり、周囲を峻烈な山々に囲まれているだけに、経済が自己完結してしまいがちなのだ。
 民には、足りないものを購うために余剰物資を生産しようという意識が働かない。なにしろ、食うに困るわけではないのだから。
 そういった人々は山向こうの世界のことを気にしなくなってしまう。そして、発展は止まる。残るのは停滞だけだ。

 けして貧しくはない。
 けれど、さらなる展望を開くには、力が足りない。

 蜀とは、そういう土地であった。
 力をためることは出来る。民に少しだけ苦しい暮らしを強いることで、外に向かう兵や、他国と伍する富を得ることが出来る。実際、戦乱の世の中では、蜀はそうしてきたのだ。
 しかし、いまそれをやるわけにはいかない。
 戦乱の世が過ぎ、世は平和を謳歌している。
 その状況で、民に我慢を強制することは出来なかった。なによりも、国主である桃香自身がそれを許さないだろう。
 だが、他の二国とは、そもそもの生産力が違う。
 住まう人の数が違う。
 このまま時が過ぎていけば、その差は圧倒的なものとなっていくはずだ。特に、戦乱で人が減っていた状況が改善されつつある現状では、広大な土地を抱える国の強みが出てくる。
 三国の中で三番手となるのはしかたないにしても、それなりの存在感は確保しておかなければならない。
 そのために彼女たちは考えに考え、様々な施策を執りおこなっているのだが、それでも他国との差はなかなかに埋まらない。
 自分たちが一歩進む間に、呉は二歩、魏は三歩進んでいる。
 そんな実感を覚え、焦りを抱える日々だった。
 ふと、雛里は恐怖を覚えたかのように顔を青ざめさせた。
「そういえば、まさか、雪蓮さんたちまで北郷さんのところへいくのかな?」
「それはいくらなんでも……。翠さんたちがあの人の指揮下に入ってる現状で、雪蓮さんと冥琳さんまでってなったら……」
「亡くなってることになってるから、公的な影響力は及ぼせなくても、実質的な影響力は残るものね」
 うーんと二人は困ったような声を上げる。その後で、朱里は小さく息を吐いた。
「でも、私たちには教えてくれてもよかったのに……」
「雪蓮さんたちのこと? そうだよね」
 この国の王桃香は、いま、その義姉妹の一人鈴々を連れて、かつての盟友孫策と、その軍師でもあり親友でもあった周瑜の葬儀に出席するために、呉の都建業に向かっていた。
 呉とは隣国でもあり、戦乱の時代には同盟を組んで魏に対していた縁もあり、その王と軍師が一時に死去したとなれば、これはもう国家的な大事件であった。
 もちろん、蜀の重臣たちも大慌てで今後の政治情勢の分析などに入った。
 だが、それ以上に、呉の国主孫策とその軍師周瑜としての顔ではなく、雪蓮と冥琳という皆が親しくしていた女性たちの突然の死に、個人的な衝撃を受けてもいた。
 ところが、そこで、のほほんと――いつもの調子で――彼女たちの主はこうのたまったのだ。
「雪蓮さんと冥琳さんなら、月ちゃんたちと同じく、死んだことにしたってだけらしいよ」
 と。
 そのことを誰一人知らされていなかった重臣たちは、まさに驚天動地の有様で、呆然とするしかなかった。
「でも、呉でも、魏でもほとんどは知らされてなかったんだってね」
「桃香様によると、呉でも知ってたのは、亞莎さん、明命ちゃん、穏さんだけだったらしいね。蓮華さんや小蓮ちゃんにも隠すってのはすごいと思うけど」
「あとは魏の華琳さんと、大使をしてた真桜さん、それに……北郷さん」
 その名を口にした途端、二人は揃って表情を複雑なものとした。
 がたごとと馬車の揺れる音だけが響く。
 その顔に浮かぶのは嫌悪のようにも、恐怖のようにも見えた。
 あるいは憧憬のようでもあり、畏怖のようでもあるその複雑な表情は、鏡に映したようにそっくりで、二人の軍師の心が思い切りかき乱されているのを如実に語っていた。
「……北郷さんかぁ」
 ため息をつくように吐いた言葉が見事に重なる。
「個人的にはいい人だと思うんだけどなあ、北郷さん」
「うん。でも、あの人の影響力は……怖いよ」
「華琳さんも、それを助けてるよね」
 諸葛亮、鳳統、共に蜀を代表する大軍師。
 その知恵は誰よりも深く、その眼は遥か彼方を見据えている。
 その……はずだ。
 その二人が、たった一人の人間を恐れている。これは、異常な事態だ。
 たとえば、曹孟徳という人物がいる。
 魏を打ち立て、並み居る豪族たちを膝下に降し、蜀、呉の二国も呑み込んだ覇王。
 大陸の未来を左右する、この大陸でも最重要の人物。
 朱里も雛里も、彼女を警戒する。だが、恐れはしない。
 なぜならば、曹孟徳の持つ力を理解しているから。
 その民政の能力、所有する地盤の力、あらゆる事に対する観察力と決断力、そして、なによりも、彼女が抱える軍の膨大なまでの暴力。
 全てを彼女たちは知っている。たとえ、曹孟德という人物自身を、その行動原理を理解できなくとも、周囲の状況から、臣下の動きから、あるいは自分たち自身の働きかけから考えて、次に繰り出す策をおおまかに推測することが可能だ。

 だが、北郷一刀は違う。
 彼女たちは彼を恐れる。

 なぜならば、彼女たちには理解できないから。
 北郷一刀という人間が、なぜそれだけの影響力を持ち、なぜそれだけの人々を惹きつけるのかが。
 北郷一刀という人間を理解できないわけではない。
 夏侯姉妹に次ぐ魏陣営最古参という経歴は知っているし、何度か会って話をしたこともある。天の御遣いという存在の意味や、天の世界の知識も含めたその実力をきちんと把握してもいる。
 そうやって彼女たちなりに理解した上でなお、なぜ彼がそれほどの影響力を持つのか、その理由がわからない。
 なぜわからないのか、その仕組みすら理解できず、二人の賢人は頭を悩ませる。そうして思い惑う二人を乗せて、馬車は行く。
 おそらく、いまの彼女たちには、けして理解することが出来ないだろう。
 なぜならば。

 ――彼女たちはまだ、恋を、知らない。

 そう、これは――。

 恋姫たちの物語。

   

第二部 望郷編 開幕

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