北郷一刀の消失・後編

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8.孤高

 銅雀台の奥、謁見の間には、二つの影があった。
 一つは白亜の座にある老境に入りかけた女性。
 かつて太陽のように輝いていた黄金の髪は、すっかり色が抜け落ちて、いまや硬質の銀を宿している。
 引き締まった体躯は節制のためもあってか衰えを見せていないが、その手の甲や首筋には長年の年月を感じさせる皺や固さが存在した。以前は笑みをたたえても遙かに鋭かった面貌も、いまは柔和なものだ。
 もう一つはその女性の脇に控える人物。
 年齢は主よりも若いようで、いまだに快活な雰囲気と強靱さを漂わせている。なによりその背後に置かれた巨大な武器が、彼女の剣呑さを明らかにしていた。
「流琉」
 曹魏の創始者、先帝曹操が親衛隊長に酒を注がれながら声をかける。
「はい」
「あなた、私に仕えて何年になるかしら?」
 曹操自らが醸造した酒を注ぎ終えて、彼女は瞑目しつつ答える。
「かれこれ三十五年になりましょうか」
 三十五年。
 それは、この時代の人間にとっては、真に長い時間だ。
「霞は去り、真桜と凪が市井に戻り、稟と秋蘭が逝き、桂花と風も逝った。残ってくれているのは、あなたと春蘭、季衣、それに沙和だけね。と言っても春蘭も私と同じくよぼよぼだけど」
「曹丕様たちが……」
「ふん、あんなばか息子たち。親類だからと養子にしてみたけど、帝の器ではないわね。王がせいぜいだったわ」
 そう言いつつも、華琳は帝位を養子とした丕に譲っている。
 しかしながら、それが苦渋の決断であったこともたしかだ。彼女はついに嗣子を産まなかったし、幾人もの縁者の優秀な子を養子としてみても、なかなか彼女の眼鏡にかなう人物は現れなかった。
 曹丕が二代皇帝に選ばれたのは、多分に消極的な理由からだ。
「まあ、丕も邪魔になる昂を暗殺するくらい肝がすわってると言えば言えるんだけれど。でも、それを私に知られているあたり、まだまだ脇が甘いわね」
「曹昂様は惜しいことを……」
 流琉がその顔に悲痛な色を乗せて呟く。華琳は手を伸ばして、流琉の腕を軽く叩いた。
「流琉。たしかにあれを亡くしたのは残念だと思うけれど、あなたが気に病むことはないのよ。丕の動きは事前に警告を与えていたのだし、それでも自らの身を守れなかったのだから」
「それはそうなのですが……」
 曹魏の親衛隊長という立場からすれば、皇子の暗殺を防げなかったことは、彼女にとって大きな汚点なのだろう。
 華琳は申し訳ないと思いつつ、仕方ないとも思う。国を任せる人間を過保護にするわけにはいかない。
 弟に殺されるという警告を読み取れなかったか、それとも信じられなかったのか。曹昂が身を守ることを怠ったのは確かだ。この点、曹丕が狡猾さで勝ったとも言える。
 しばらくは無言で杯を傾けていた華琳だったが、次に杯を満たしたところで、流琉の持っていた酒瓶が空になった。
「次もこちらを? それともお食事にしましょうか」
「いえ……ああ、そうだ、ちょうどいいわ。波斯(ペルシア)から流れてきた酒があったでしょう。あれを持ってきてちょうだい」
「はい」
 流琉が酒蔵へと立ち去った後、誰もいない謁見の間を見渡して、華琳は一つため息をついた。
「風、私は日輪たり得たかしら?」
 四年前にこの世を去った側近に語りかける。
 果たして彼女が望んだように大陸を照らす日輪となり得ただろうか。たしかに呉も吸収して三国を統一は出来た。しかし、それは本当に民への穏やかな日差しとなったろうか?
「あの頃の混乱に比べればずいぶんましだとは思うけれどね、そうでしょう、稟?」
 この場に郭嘉が居れば、きっと辛辣な意見を言ってくれたろう。華琳はそう思いつつ唇の端を持ち上げた。あるいは、桂花がそれに対して自分をたたえる言葉を重ねてくれたろうか。
「全く、年を取ると、昔のことばかり思い出してだめね」
 とはいえ、既に政治の世界から完全に退いた隠居の身としては、それくらいの慰みは許してもらいたいところだ。本当なら生き残っている側近を常に侍らせておきたいところだが、それをすると帝国の官僚たちに、実際の権力は未だに華琳と古い世代にあるのだと受け取られかねない。
 曹丕が基盤を固めるまで邪魔をするつもりはなかった。
「一刀がいたら……」
 その想像を口にするのは、久方ぶりだ。だが、ずいぶんと年月が経ったからこそ見えるものもある。
「もしかしたら、日輪の上で広々と存在する天のように受け止めてくれていたかもしれないわね」
 そこで、彼女はその気配に気づいた。
 流琉のものではけっしてない、他の何者か。
 彼女の腕が剣をとり、まっすぐにその誰かの影へと向かう。
「何者かっ」
「まったく、どれだけ買いかぶってくれるんだか」
 柱の裏から唐突に現れるその姿。
 懐かしい、けれど、一日たりとて忘れたことはない、その底抜けに優しい瞳。
 白く輝くぽりえすてる。
 それは……!
「あ……あ、あ……」
 からん、と音を立てて華琳の手に握られていた剣が床を転がる。そのまま駆け寄り、しかし、華琳は涙が流れ続ける己の顔を覆うようにして体を反らした。
「華琳は年齢を重ねると、ますます魅力的になるんだな」
「お、おばあちゃんをからかうんじゃないわよ!」
 一刀はゆっくりと華琳の体を抱きしめる。かつては柔らかで、しなやかだった体は、たしかに少しだけ固く、骨っぽくなったような気がした。それでも、それは、彼にその行為をためらわせるようなことはけしてなかった。
「からかってなんかいないよ」
 華琳はその言葉を吟味するように彼の顔をじっと見つめていたが、不意に得心したように頷いた。
「迎えに来たのね」
「ああ、そうだ。俺の可愛い女の子」
 その台詞に、華琳はくすくすと笑い、肩を振るわせた。そのまま手を彼の首に回し、よりお互いを引き寄せる。
「偽りの日輪は、もう終わり、ね」
 そうして、彼女は朗らかに笑った。

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北郷一刀の消失・後編」への2件のフィードバック

  1. 北郷一刀の消失・前後編共に稟メインヒロイン回でしたね。
    稟ががっつり主役を張る話は此方に限らず珍しい部類です。もう少しスポットを浴びても良いキャラなんですがねぇ~不思議なもんです。

    •  魏のキャラは濃い人が多いですからねー。
       軍師に限っても、風と桂花が強烈ですから、なかなか稟だけ、となると難しいのかもしれませんね。
       掘り下げると面白いと思うんですけども。

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