北郷一刀の消失・後編

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2.慟哭

 切れていたはずの発泡酒を買い込んで部屋に帰る間も、ずっとその幻影は彼の後を着いてきた。
 車内で話しかけられた後は無視を決め込んでいるのだが、いっこうに消えてくれない。
 疲れているのだろうと一刀は思う。
 そう思いたかった。
 とはいえ、肉体労働での疲労はあるにしても、己がそれほど追い詰められるような状況にないこともまた知っているのだった。
「今日の幻影はしつこい。薬をもらうべきかね」
 部屋に入って、ようやくのようにため息をつき、その存在に言及する。さすがに外で反応するようなまねはしたくなかった。
 一方の稟は、それほど広くもない部屋の中を興味深そうに見回している。もしかしたら、外でもそうだったのかもしれない。
 後ろに着いてくる彼女の事を努めて無視していた一刀には、事実はわからなかった。
「いや、そんなこと気にしてる場合じゃない」
 断ち切るように言って部屋着に着替え、こたつの上でノートパソコンを立ち上げる。
 今日中に上司に簡単な報告のメールを送り、詳細な報告書は明日提出せねばならない。
 さて、詳細なものを作ってから要約するか、メールを書き上げてそれに肉付けするか。
 そう考えていると、隣に座って液晶画面を覗いていた稟が問いかけてくる。
「それは……よくわかりませんが、いまやらねばならないことですか?」
「ああ、仕事だからな」
 幻影相手に普通に答えてしまうのもどうなのかと思いつつ、部屋で独り言を言うくらい、別に問題ないだろうと結論づける。
「ふむ。では、それが終われば私の話を聞く気にもなるでしょうか」
「さて、どうかな。でも、いずれにせよ、こっちを先にするのは確実だな」
「そうですか……」
 寄り添うようにして画面を覗き込んでいた稟が離れる。
 立ち上がって何事か考えている様子の彼女から目を離し、仕事に集中しようと座り直す。
 ぱちんと指を鳴らすような音がした。
 その途端、まばたきをするように一瞬視界が暗くなり、慌てて目を戻した画面には、先ほどまでにはなかった文章がずらずらと書き連ねられていた。それはどう見ても、さっきまで自分が書こうとしていた報告書そのものだ。
「何をした!?」
 画面をスクロールさせ、その文書の最初から最後までを確かめてみても、しっかりと書き上がっている。
 メーラーを確認してみれば、上司へのメールも送信済みになっていた。
「私はただ、場面を進めただけにすぎませんよ」
 戸惑いながらキーボードをいじっている彼の対面に座り直した稟が、さも当然のように言うのを聞いて、一刀の指の動きが止まる。そのまま彼は顔を上げ、彼女をまっすぐに見つめた。
「……場面?」
「ええ、ですから、夢の中の場面を」
 ほら、と窓の外を指さす稟。見れば、窓の外はすでに日もとっぷりとくれている。
 冬のまっただ中とて帰宅時点でもかなり暗かったが、さすがにこれほどではなかった。
 壁の時計を見てみれば、もう八時をまわっている。パソコンを開いてから、三時間は軽く経っている計算だ。
「あなたはその……なんだかよくわからないですが、それで仕事をし、それなりの時が経った。そういう場面に進めただけです。芝居なら一度舞台を暗くしたりするところですか」
 呆然と彼女を見る一刀に、稟はひとつ眼鏡を押し上げながら繰り返す。
「これは、夢ですから」
 もう一度、彼は目の前の書類と、メーラーを確認する。
 何度見直しても、それは書き上がっていたし、どの時計を見ても同じだけの時間が経過していた。
 念のためネットを通じて時計をオンラインで同期させてみても、変わることはない。
 彼は乾ききった唇をなめて、なんとか声を絞り出した。
「……だが、こう考えることも出来る。俺は仕事を終えた後で妄想に入り、君に不思議なことを見せられたということに……」
「……どうしました?」
 唐突に途切れた声に心配げに身を乗り出す稟。一刀はぱたぱたと手を振って体の力を抜き、ノートパソコンを閉じた。
「いや、言っててあほらしくなった」
 それからこたつを出て、パソコンをしまい、台所に向かう。冷蔵庫から発泡酒を二本取り出し、稟と自分の前に置いた。
「話を聞いてほしいって言ってたっけ?」
「はい。一刀殿の力が必要なのです。それが皆を……」
「あー。稟のことだからわかってると思うけど、俺にも把握できるよう最初から説明してくれよな。ともかく話だけは聞いてみるから。これが幻想だったとしても、仕事もこうして終わっている以上、つきあってみるのも悪くない」
 プルタブを引いて泡があふれ出る缶を呷る。彼が喉を潤した後に稟を見れば、彼女は一刀の行為と目の前の缶とを見比べて目を見張っていた。
「これは……保存容器ですか? しかも発泡する液体の……。さすが天の国ですね。いえ、一刀殿の記憶を元にした天の国でしょうか」
 言われてから、彼女の前にも缶を一つ置いていたことに気づき、幻影を前に何してるんだろうね、と彼は自嘲を漏らすのだった。

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北郷一刀の消失・後編」への2件のフィードバック

  1. 北郷一刀の消失・前後編共に稟メインヒロイン回でしたね。
    稟ががっつり主役を張る話は此方に限らず珍しい部類です。もう少しスポットを浴びても良いキャラなんですがねぇ~不思議なもんです。

    •  魏のキャラは濃い人が多いですからねー。
       軍師に限っても、風と桂花が強烈ですから、なかなか稟だけ、となると難しいのかもしれませんね。
       掘り下げると面白いと思うんですけども。

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