北郷一刀の消失・後編

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10.終焉

「子を奪われた母がいたとします」
 彼女は、確かめるように問いかける。
「そうですね、賊では死んでしまっていることが多いので、奴隷商人にでも捕らえられたとしましょう」
 諭すように、語りかける。
「母はその子が生きていることを知っている。ならば、母はどうするでしょう?」
「そりゃあ……行方を突き止めて、出来れば取り返そうとするだろうな」
「その通り。その母は必死で子を取り戻そうとするでしょう。いかなる手段を使おうと、どんなに自らを傷つけようと」
 にぃと彼女は笑う。一刀はその笑みを不吉なものと見た。
「あなたは先ほど、夢の中の世界はどうなるのだろうと仰りましたね」
 唐突な話題変換に違和を覚えつつも、彼は首肯する。
「消えるのですよ」
 吐き捨てるような言葉は、あまりに彼女の印象とは違っていて、一瞬彼はそれを認識できなかった。
「……なに?」
「消えるのです。なにも残さず、誰にも省みられることなく」
 小鳥のさえずりのように、軽やかに歌うように、彼女は言う。
「その夢の主人公を奪われて、夢は死に絶えていくのです」
 笑みを刻むその唇のなんと赤いことか。
 眼鏡の奥から見つめる瞳の、なんとおぞましいことか。
「それは当然でしょう? 物語の主人公を失って、その物語が生きていけるはずがない。もしそれが続くとすれば、それは、新生した別の物語なのですよ」
 当たり前のことのように、理解しがたい事を語る。
 その姿に、一刀は戦くしかなかった。
「終端から再び始まるのならば、それすなわち、突端ならば」
「……誰だ?」
「はい?」
 ほとんど彼女の言葉を無視して、彼は問いかける。
 愛しい人の姿を持つ、何者かに向かって。
「お前は誰だ?」
 その言葉に、彼女は笑った。
 からからと吠え猛るように笑うその声が、彼の頭を揺らす。それは、とてつもなく不快な体験であった。
「誰でしょうねー?」
 ゆらりと陽炎のように揺れる。
 かつて、何度も彼が見たように。幻だと断じた時のように。
 彼女の姿はゆらめく。
 そして、そこに代わって現れるのは、人形のようなものを頭にのせた、茫洋とした雰囲気を漂わせる背の低い少女の姿。
 ご丁寧に棒つきの飴をなめている姿は、見間違えようのない程昱こと風のもの。
「なっ」
「実は、風は風に見えて風であり、稟ちゃんでもあるのですよー。そして、華琳様であり、凪ちゃんであり、真桜ちゃんであり、霞ちゃんだったりもするのですよー。おにーさんのアニマといえばわかりやすいですかねー?」
「あに……ま?」
「誰にでもなれますよー? やっぱり華琳様がいいですか? それとも雪蓮さん? ああ、まだ手を出していない星ちゃんとかどですかねー?」
 違う。これは風じゃない。
 風はこんなあざけるように人をからかわない。彼女はもっと……。
「ええ、わかりますよー。もっと優しくしてほしいんですよねー。毒の中にも優しさを。でもね、残念。夢だったんですよ、おにーさん。おにーさんの活躍もなにもかも夢」
 その言葉は、北郷一刀の胸を打ち抜いた。
「ゆ、め……」
「ちょっと寂しいけど、現実はなかなかに厳しいのですよ。それでいいじゃないですか」
「だいたい、にーちゃん一度諦めたんだろ? それが順当。常識ってもんよ」
「そもそも、三国志の武将たちを女に変えた世界なんて……あると思いますか、おにーさん」
 くふくふと笑いながら、彼女は続ける。
 そう、程昱は男のはずだ。曹操も、それを支えた武将たちもまた。
「こうして話してるのも、幻に過ぎないと、心の底ではわかっているのではないですか?」
 一刀は答えられない。その不安がないと、彼には言い切れなかったから。
「そして、これも夢なんですよ。だから、ちゃんと目覚めてください、おにーさん」
「目覚める先は……現実か」
 しかし、どの?
「そですー。風も稟ちゃんもいない、本当の現実」
 風が腕を振る。
 それに応じたように、彼らの傍に、イブの町並みの中から幾人かの人物が寄ってきた。
「及川? 不動(ふゆるぎ)先輩!?」
 それは彼にとっては懐かしいとしか言いようのない人々だった。
 学友であり、先輩であり、後輩たちの姿。
「かずぴー、なにしてんねん。はよ帰って来」
「北郷。血迷うでない。おぬしのいるべき場所はここであろう」
 彼らは口々に彼に呼びかける。
 それは、華琳たちや、稟の呼びかけとどれほど違ったろうか。
「かずぴー、心配せんでええ。一晩ぐっすり眠ったら、なんもかんも元通り。明日はクリスマスや。寂しい同士、ケーキでも食うか?」
 及川が学生時代と変わらぬ笑顔でそうのたまう。
 そうだ、こいつはクリスマスやバレンタインのイベントの度に彼女を作ろうとして、最初はうまくいくのに肝心のイベント当日にはふられていたんだっけ。
「ええ、なにもかも元通りですよ。あんな外史はなかったことになっておしまいですよー」
 何人もの人たちが、彼の親しい人々が彼を取り囲む。
 肩を叩かれたり、あるいはただ言葉をくれたり。
 そのことに何とも言えないあたたかさを感じながら、一刀の思考のどこかは、しっかりと冷めきっていた。
 ひっかかる。
 夢でもいい、幻想だろうといい。
 だが、それ自体が矛盾しているのは、どういうことだろう?
 そのことに気づいた途端、彼は大声で笑い出した。
 周囲の人々がぎょっと動きを止めるほど強烈な笑い声が、イブの空に消えていく。
「ありゃ、おかしくなっちゃいましたー?」
「はっ。そんなわけないだろう」
 風を装った何者かが焦るように言うのに、楽しそうに答える。
 その顔は、評議の場でまさに風や稟を相手に論陣を張る時のように冴えて澄み切っていた。
「ちょっと迂闊じゃないかな?」
「えー?」
「突端だとか外史だとか。これが夢だというのなら、そもそもそんな話を出す必要がどこにある? 幻想で押すか、外史でいくか、決めておくべきだったんじゃないか?」
 彼女は答えない。
 飴をがじがじとかじりながら、ただ、ねめつけるように彼を見上げてくる。その沈黙こそが雄弁に語っていた。
「あるんだろ。あの世界も。ここと同じように」
 ここが夢だというのも眉唾だ。幻だというなら、及川や不動先輩こそが幻であろう。
 そもそも、高校時代と変わっていないなんてことがあるか?
 そして、いま、まるで動かずに二人の会話を聞いているのはなぜだ?
「あの人に言われたことを思い出したよ。俺があの世界に戻ることで、この外史は消えるかもしれないってね」
 はぁと贋の風と宝譿が揃って肩を落とす。
「おにーさんは頭の回転がよすぎですねー。そです。おにーさんが要なんです。唯一の主人公というわけではありませんけれど、おにーさんがいないと保てない、そういう外史なんですねー、ここは」
「だが……」
 とてつもない重責を負わされた一刀は、なんだか現実感がないままに、問いを重ねる。ここで聞いておかなければ、彼は再び混乱の中に落ちてしまいそうだった。
「あちらはどうなる? 華琳たちの世界は」
「気にする必要がありますかねー?」
「……消えるんだな」
 暢気な答えに、彼は確信するしかなかった。否定ですらないその答えは、肯定と受け取るしかない。
「俺が戻らなければ、あちらも、消えてしまうんだな」
「……おにーさんは関わりすぎましたからね」
 でも、と明るい声で彼女は続けた。
「あそこは、元々華琳様が死ねば、衰えて自然消滅するさだめなんですよー。こちらとでは話が違……」
「違わないっ!」
 彼女の言葉を遮って、彼は叫ぶ。思いの丈を込めて、彼は愛する少女の姿をした者にたたきつける。
「あちらの人口は、いま、一億か? 二億か? 数は問題じゃない。いま、こちらにどれだけの人がいようと……」
「六十八億ですねー」
「……なに?」
 関係ない、と言い切るにはあまりに凄まじい数字であった。
「約六十八億。正確に言えば、六十七億九千二百八万九千二百七十一。ああ、いま三人生まれて一人死にました」
 一刀はまじまじと、飴をなめ続ける少女の顔を見つめる。
 その表情がまるで変わらないのを受けて、彼は空を見上げるしかなかった。
「ああ、華琳。雪蓮。二人の決断の重みが、いま本当の意味でわかったよ」
 暗い空は答えてくれない。イルミネーションの光に侵された空では、天命を示す星すら見えない。
「考えるまでもないでしょう。家族も友達もこちらにはたくさんいるんですよー。対してあちらは帰らないでもすぐさま消えるわけじゃない。華琳様という主人公がいる以上、おにーさんの存在は必須であっても、絶対ではないのですよー」
 だが、それでも。
 それでも、華琳が死ねば、消えるのだという。
 しかし、六十八億だ。六十八億の人生を、彼一人が左右できると……。
『おぎゃー』
「なんだ?」
「はい?」
 その声は、空気を伝って聞こえるのではなかった。
 その声は、耳を通して聞こえるのではなかった。
『おぎゃっ、おぎゃっ、おぎゃーーーーー』
 それは、彼の体を震わせて聞こえてきた。
 あれは、千年。少し最後をのばすのが癖。
 これは、木犀。控えめながら、リズムよく泣き続けるのが特徴。
 そして、その二つを支えるように聞こえるあの元気な声は、阿喜の泣き声以外のなにものでもない。
 赤ん坊の泣き声は悲しみの声ではない。
 それは、呼びかけ。
 母を、父を、庇護者を求めるただ一つの欲求充足手段。
「あの声が聞こえるか?」
 聞こえるわけがない。
 この外史に所属しない者の声が、目の前の存在に聞こえるはずがない。そのことを半ば確信しながら、彼は尋ねた。
 案の定風の姿をした『それ』は、戸惑うばかりの風情。
「すまない。俺は、阿喜たちの父親なんだ」
 一刀の声に周囲が途端にざわついた。
「一刀!」
「かずぴー!」
「北郷!」
 かつて親しかった人々が口々に呼びかける声は、体の芯を振るわせない。
 血のたぎりを呼び寄せない。そこに流れるのは、子供たちが懸命に彼を呼ぶ声だけだ。
「そして、華琳や風や稟たちが大事なんだ」
「ああ……」
 風の姿が霧に包まれる。
 及川が、不動先輩が、かつての学友たちや会社の同僚が白い霧に包まれて、風巻くように、一カ所に集まっていく。
「そちらを選んだのですね」
 そして、その霧は、最初にそこにいたはずの稟の姿に結実する。
「悪鬼と誹られ、修羅と罵られようとも」
 彼女は穏やかな笑みを浮かべた。
 辛そうに、悲しそうに。けれど、どこか仕方ないというように。
「ならば、これも一つの結末」
 彼女は大きく腕を広げる。抱きしめるように、受け止めるように。
「せかいの、おわり」
 あどけない少女が、初めて見たものを評するように、彼女は唱える。
「消えていく。ニューヨークが、ロンドンが、アレクサンドリアが、ハノイが……」
 消えていく。
 全ての命が。
 全ての思いが。
 ありとあらゆる希望も。
 いかなる種類の絶望も。
 不幸も幸福も安らぎも苦痛も後悔も愛情も憎悪も憐憫も無関心も怒りも飢えも満足も悲しみも野望も決心も覚悟も誓いも苛立ちも酩酊も。

 明日への願いも。

 全ては途切れ、ここで朽ちていく。
 死よりもむごい運命へとたたき落とされていく。
 完全なる消滅。
 生きていたという証も全て消え去って。
 その数、実に6,792,089,274人。

 六十八億の夢を踏みにじり、
 六十八億の命を贄として、
 六十八億の魂を背負い、
 彼は往く。
 全ての罪業を負って、北郷一刀は往く。

 その時、世界の多くの人々はクリスマスを祝い、新年の歓びを祝っていた。
 妙なる歌声が、天へ登っていく。

Glorious now behold Him arise,
King and God and Sacrifice;
Alleluia, Alleluia,
Earth to the heavens replies.

Star of wonder, star of ni-ight,
Star with royal beauty bright,
Westward leading, still proceeding,
Guide us to Thy perfect light.

 消えていく。
 その歌声も。
 救い主に捧げる祈りも。
 その全てが砂のように崩れ去っていく。

 そして、ただ一つのクリスマスの奇蹟は、いま、ここに。
「一刀殿! お手を!」
 空間を断ち割って、彼女は現れる。栗色の髪、強い意志を感じさせる青の瞳。黒手袋の腕は、彼を目指して限界まで伸ばされている。
「稟!」
 彼はその腕をがっちりとつかみ、しっかりと指と指を絡ませ合ってから、背後を振り返った。
「あなたをなんと呼ぶべきかな」
「この姿を借りた女性の名で呼べばいいでしょう」
「じゃあ……」
 少しためらって、彼は言う。
「さようなら、稟」
 本物の稟の手をしっかとつかみ取りながら、彼は言う。
「ええ、さようなら。お行きなさい。ただ、願うのは、私たちを忘れないでくれること」
 『それ』は、本当に透明な表情を浮かべた。
「私たちの呪いをどうぞ、北郷一刀。私たちの祝福をどうぞ、天の御遣いよ」
 笑みではない。怒りではない。そこに浮かんだ表情は。
 それを呪いと言おう。
 それを祝福と名付けよう。
「胸を張って進みなさい。あなたの帰るべき場所へ」
「ああ」
 謝罪は出来ない。その必要がない。その意味がない。
 そして、許されない。
 彼は選んだのだから。
 だから、一刀は歯を食いしばり、漏れそうになる声を殺して、ただ繰り返す。
「さようなら」
 だが、ふと、彼はなにかに気づいたように、かすかに頬をつり上げた。
「そうか……そういうことか」
 そこに必死の形相の稟が手を引きながら語りかける。
「一刀殿、お早く。長引けば阿喜たちに負担がかかりかねません!」
「ああ、すまない、稟。でも一言だけ言わせてくれ」
 そうして彼は向き直り、深々と頭を下げた。
「さようなら。そして……ありがとう、母さん」
 かくして、天空より劫火が降ることもなく、大地が割れて地獄が現出することもなく、聖なる夜は終わりを告げる。
 永遠の、終わりを。

 それでも――。
「ただいま、みんな」
 物語は、再び紡がれ始める。

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北郷一刀の消失・後編」への2件のフィードバック

  1. 北郷一刀の消失・前後編共に稟メインヒロイン回でしたね。
    稟ががっつり主役を張る話は此方に限らず珍しい部類です。もう少しスポットを浴びても良いキャラなんですがねぇ~不思議なもんです。

    •  魏のキャラは濃い人が多いですからねー。
       軍師に限っても、風と桂花が強烈ですから、なかなか稟だけ、となると難しいのかもしれませんね。
       掘り下げると面白いと思うんですけども。

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