北郷一刀の消失・後編

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11

「がっ」
 一声上げて、細い体が痙攣する。栗色の髪が跳ね、かけていた眼鏡が甲高い音を立てて床に落ちた。
 彼女を囲んでいた三人が揃って身をかがめ、跳ね回る体を優しく抱き留める。
 天和、地和、人和の三人に抱きしめられた稟はしばらくの間体を震わせていたが、やがて、その動きも収まり、苦しげにうめくだけになった。
 その目が見開かれ、焦点が合う頃には、彼女の周囲には華琳や春蘭をはじめとした多くの武将たちが集まっていた。
「稟、大丈夫?」
 代表して華琳が尋ねるが、ぱくぱくと口を開くだけで、答えはない。
 月が慌てて水を汲んで持ってくるのを受け取って、華琳は人和たちに場所を譲ってもらい、水を飲ませようとする。
「しばし……お待ち、を……」
 稟は華琳の動きを避け、天和たちの手からも離れて体を起こした。
 その途端、胸に灼熱を感じ咳き込んだ彼女の口から吐き出されたのは、暗い色をした血に他ならない。
「稟っ」
「水を……」
 竹筒を受け取ろうとする稟に対して、華琳はあくまで彼女を抱き寄せようとする。だが、稟は淡く微笑んだ。
「汚れ、ます」
「愚か者! 忠臣の血を汚れと思う王がいるものか!」
 稟の抵抗などものともせず、彼女を抱き寄せて、竹筒を口元にあてる華琳。稟はむさぼるように水を飲み込み、ついに全て飲み干してしまった。
「出来れば、もう、少し……」
 先を争うようにいくつもの竹筒が出される。それを見て、思わず華琳は苦笑を浮かべる。
「さすがにそんなにいらないわよ、ねえ、稟」
「ええ」
 稟も力ないながらも爽やかにそう言うのだった。

「一刀殿の夢からはじき出されました」
 ようやく呼吸が落ち着いたところで、稟は華琳に説明を行う。外れた眼鏡は戻したものの、両者血にまみれたままなので、まるで戦場のようであった。
「そう。あとは風と一刀だけだというのに……」
「風が目覚めていない? そんなはずは……」
 稟からの視線が届くように、武将たちが場所を開ける。その先に確かに寝台で眠り続ける一刀と風の姿があった。
「これは……風を利用した罠を仕掛けていたか」
 その事実を確認して、がっくりと肩を落とす稟。その拳がぎりぎりと握りしめられて、色を失うほど。
「申し訳ありません、これを予想できなかった私の落ち度です」
「冗談を言わないで。あなたがいなければ、誰一人目覚めることは出来なかった。罪は全てこの呪いをかけた者自身にある。あなたが自分を責めるなんてお門違いもいいところよ」
 同意のさざなみが流れる。この場にいる誰もが、稟の尽力を認め、感謝していた。彼女を責めることなど、誰一人許しはしないだろう。
「それで、これからどうすべきかしら? 私たちが出来ることなら、なんでもするけれど。まずは稟の体調を戻すのが先決かしらね」
 主の言葉を吟味するように稟は考え込んでいたが、その顔が上がった時には彼女の面貌には決意が充ち満ちていた。
「いえ、急ぐ必要があるでしょう。時間をかければ、より強固になるは必定。しかし、いまですら、私だけでは足りません」
 郭奉孝は、まさに血を吐くように、言葉を吐き出した。
「……阿喜に頼ります」

「袁家のお二人を見ればわかるとおり、血縁というのは強い。呪術の世界でもどんな象徴より重視されると言っていいでしょう。しかも、一刀殿は阿喜の名付け親でもある。名前と血、なによりも強い絆をもってすれば、再び一刀殿の夢に接触できるものかと」
 血のついた衣服を取り替えた稟は、誰に問われるともなく、そう説明を行う。
 そのこと自体、自分を納得させるためであろうとは思っても、その事を口に出す者はいなかった。
 そして、阿喜を抱いた紫苑が現れた時、その隣には同じく木犀を抱いた桂花の姿があった。
「私は、阿喜をと」
 驚いて声をうわずらせる同輩に、桂花は一つ肩をすくめてみせる。
「一応、あんなんでも木犀の父親だしね。あんまり認めたくないけど……。それに、一人より二人のほうが負担もないでしょ」
「その通り、戦力は集中させねばな」
 後ろから声をかけるのは、自らの娘を抱いた桔梗。その豊かな胸にきゃっきゃと戯れる千年をあやしながら、彼女は進み出る。
「あら、桔梗も連れてきたの」
「千年も父を呼びたかろうと思ってな」
 二人の母親を、もう一人の母親は呆然と見返すしかない。
「あなたたちは……」
 そこへ、華琳が静かだが鋭い声をかける。
「稟」
「はっ」
「まさか、郭奕を死なせるようなことをするつもりだったわけではないでしょう? 名付け親の一人として、そんなこと許さないわよ?」
「ええ、それは。たとえ私が死のうとも、阿喜にそのようなことはさせません」
 主の叱咤に、稟はようやくいつもの自信に溢れた笑みを取り戻す。
「自分も死ぬつもりなぞありませんが」
「ならば、木犀や千年にもそこまでの負担はかからないし、より一刀に近づける。違う?」
「その通りですね」
 稟はすぅと大きく息を吸うと、まっすぐ背を伸ばした。
「これより、風と一刀殿を取り戻しに参ります」
 彼女ははっきりと、そう宣言した。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11

北郷一刀の消失・後編」への2件のフィードバック

  1. 北郷一刀の消失・前後編共に稟メインヒロイン回でしたね。
    稟ががっつり主役を張る話は此方に限らず珍しい部類です。もう少しスポットを浴びても良いキャラなんですがねぇ~不思議なもんです。

    •  魏のキャラは濃い人が多いですからねー。
       軍師に限っても、風と桂花が強烈ですから、なかなか稟だけ、となると難しいのかもしれませんね。
       掘り下げると面白いと思うんですけども。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です