北郷一刀の消失・後編

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1.初心

 肩に手を触れられたことで、彼女の意識はぼんやりと戻り始める。
「すまないが、言われた時間になった」
 声もかけられて、ようやく明晰になる意識。視界がいまだぼんやりとしているのは、単純に眼鏡を外しているからだ。
 栗色の髪の女性は体を起こし、手探りで寝台脇を探ると眼鏡をかける。頭を一つ振って眠気を完全に払拭すると、そこにいるのは常に毅然とした態度を崩さない魏の軍師の一角、郭奉孝こと稟だ。
 彼女は起こしに来てくれた華雄に頭を下げた。
「いえ、ありがとうございます」
「疲れは取れたか?」
 言われて目をつむり、自分の体の状態を確認する。肩がこっている感じはあるが、これはいつものことだ。
「あなたの刃の前に出るには不十分ですが、これからやることには十分ですね」
 軽い笑い。彼女の目の前にいる武将は細い体ながら、天下無双の武芸を身につけている。
 華雄の前に立ちふさがるのならば、飛将軍と謳われる呂布こと恋なみの武勇を身につけなければなるまい。一方、稟は頭脳はともかく武芸には秀でない。だからこそ、こうした冗談も許される。
「解決したら丸一日は余暇をもらいたいものですが」
「魏の軍師殿にそんな余裕があるか?」
 先ほどと同じように笑いを混ぜながら返される。実際の所、ないだろう。
 昏睡状態に陥っている面々の目が覚めれば、その間に滞った国事の後始末に追われることは確実だ。
 そして、失敗したのなら……。
「少し待っていて下さい。衣服を替えます」
「ああ」
 考えが暗く沈みそうになるのをあえて無視して、事務的な行為に意識を集中させる。肌の露出の多い武官が部屋を出て行くと、さっさと身支度を終えた。
 少し離れた小さな寝台で寝息をたてている阿喜を、起こさないように抱き上げる。
 華雄に起こすのを頼んだのは吉と出たようだ。彼女の足音は、武術に優れた武将たちでも聞き取りがたいという。赤ん坊に気づかれずに近づくなどお手の物だろう。
 いま、ぐずられてしまうと、立ち去りがたくなる。
 はふぅとよくわからない寝息を吐く阿喜に微笑みかけ、その軽い体をそっと寝台に戻して部屋を出る。
 名残を惜しむように視線が追ったが、なんとか引きはがして扉をくぐった。
「よいのか?」
「ええ」
 張三姉妹が準備を整えてくれているはずの堂院に向かう道すがら、稟はふと華雄に話しかけた。
「あなたの主は実に不思議な人ですね」
「ん? ああ、あれはな。しかし、そちらのほうがつきあいは長かろう」
「ええ、もちろん。けれど、いつまで経っても不思議だという気持ちが尽きないのですよ」
 華雄は言葉にせずに、同意の笑みを返してくる。その笑みの獰猛さが、稟には心地よい。
「私は、華琳様を尊敬し、愛しています」
 なんでもないことのようにするりと話す。以前の稟を知っている人間であれば、鼻血も噴かずそうすることに驚いたことだろう。
「昔は、それだけの当たり前のことすら、口に出来ませんでした。けれど、一刀殿のおかげで……」
 華雄は口を挟まない。興味がないというわけではない。ただ、口を挟んではいけないことだろうと、彼女なりの感覚で悟っていた。
「ふふ。あの方は大まじめに、皆を愛しているのですよ。すごいと思いませんか?」
「なんと言っていいのやらな」
 魏の面々に比べればずいぶん遅れて愛される一員となった華雄としては、くすぐったくもあり、誇らしくもある。
 本当になんと表現すればいいのかよくわからなかった。
「あれを見ていては、意地を張っているのがばかばかくなりましてね」
 歌うように彼女は言う。夏の空を、美しい鳥が高い鳴き声と共に横切っていく。
 あれは大瑠璃。青き美しき鳥。
「自分でも認められるようになったのですよ。華琳様を愛している。そして、一刀殿を愛している、とね。無論、彼との間の子の阿喜も」
 その言葉を、華雄はじっと咀嚼するように聞いていたが、ふと横を歩く女性を見て、呟く
「悪くない」
 それに対する稟の笑顔は、とても清冽なものであった。
「北伐の軍、だいぶ負担がそちらにいってしまったようで」
 不意に話題を変える稟。すでにその顔は軍師の表情を貼り付けている。
「私は、ただこれしか知らん。それに、あやつが起きてきた時に兵が弱くなっていたではたまったものではなかろう。だから私がやっている。それだけのことだ」
 肩をすくめ、常に携帯している武器の柄をぽんぽんと叩いてみせる華雄。
「お前たちのように、今回の問題に関して働けるものならよかったのだろうがな。武しか知らん私では、ただ邪魔になるだけだ。だから、これに逃げているのさ、私は」
 自嘲気味に頬をつり上げる華雄に、稟は淡々と普段と変わらぬ声で言う。
「いいえ、違うでしょう。あなたは、出来ることを誠実にやり遂げようとしている。それは、すばらしいことです。そして、なによりも、あなたは皆が……華琳様や一刀殿が戻ってくることを疑っていない。それは、強さです」
「ふふん。ただ、単純なだけだろう。それに、それは恋たちとて同じことだろうさ」
 とはいえ、と彼女は続ける。
「まあ、そう言ってくれるなら、素直に受け取っておくとしよう。……礼に一つ、言ってみようか」
「はい?」
「たまには難しく考えない方がうまくいくものだぞ」
 稟はおし黙る。そうして、彼女たちが目的地についたところで、彼女はぽつりと呟いた。
「きっと……そうですね」

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北郷一刀の消失・後編」への2件のフィードバック

  1. 北郷一刀の消失・前後編共に稟メインヒロイン回でしたね。
    稟ががっつり主役を張る話は此方に限らず珍しい部類です。もう少しスポットを浴びても良いキャラなんですがねぇ~不思議なもんです。

    •  魏のキャラは濃い人が多いですからねー。
       軍師に限っても、風と桂花が強烈ですから、なかなか稟だけ、となると難しいのかもしれませんね。
       掘り下げると面白いと思うんですけども。

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