北郷一刀の消失・前編

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9.横浜

 疲れた。
 北郷一刀は座面にだけ暖房の効いた座席に座り込みながら、思うともなく思った。
 休日午後の湘南新宿ラインは比較的空いていて、こうして座れるのが幸いだった。横浜方面から帰るならば東海道線でもよかったのだが、あちらは常に混んでいるのが困りものだ。
 今日は日曜日だというのに、彼は後輩が引き起こしたトラブル解決のために早朝から横浜の港湾倉庫に出向いていたのだった。会社に顔を出しても誰かいるわけでもないので直帰できるのだけが不幸中の幸いというところだろうか。
 報告書だけは書かなければならないが、家でぬくぬくしながら書けるから、まだましというものだ。
 ホームで買ったスポーツドリンクを流し込んでいると、視界の隅のボックス席が丸ごと空いていることに気づき、揺れが少ないところを狙って移動することにした。ロングシートより開放感はなくなるが、一人でぼうっとするには他と隔絶している感があっていい。
 鞄を網棚に乗せて、ボックス席でゆっくりと体を伸ばす。朝から重い物を持って何往復もしたからか、腕や腿の筋肉がぴくぴく痙攣していた。
「ま、これもお仕事だよな」
 独りごちる声に答える者はもちろんいないが、そんなことを期待しているわけではない。
「そういえば、またあの夢をみたな」
 今朝、電話でたたき起こされる前に見ていた夢を思い出す。
 懐かしい、あの夢。
 おそらくは自分の妄想でできあがった夢の世界。
 それでも、それは彼にいくつかのことを教えてくれていた。
 よく、社会の歯車にはなりたくない云々という主張があるが、一刀があの夢で学んだのは、よくできた歯車になるのは本当に骨が折れるということだ。
 そして、実際には社会で活躍しているように見えるのは影響力のある重要な歯車であり、そういう歯車にはとんでもなく重い回転と素早い回転の両者が求められているという事実だ。
 一刀はそこまで重要な歯車になれる自信はとてもなかった。
 なにしろ、人に必要とされるというのは、それだけでとてつもなく大変な出来事なのだから。
 まずは会社の歯車になろうと一刀は働いていた。彼でなくともいいかもしれないが、誰かはそれをやらねばならないのだから。
 幸い、彼が所属している会社は、この不況の中でも多少のサービス残業はあっても、死にそうなほど追い詰めてくることもないので、なんとかやっていけている。
「夢、ですか」
 問いかけは、対面の座席からやってきた。天井に向かっていた視線がそのまま落ちて、その声の主を見つめる。
「私たちは、夢ですか?」
 栗色の髪、強い意志を感じさせる青の瞳。大きめの縁なし眼鏡をくいと上げる黒手袋のその仕草。
 なによりも、真剣でただひたすらに物事を見極めようとするようなその凛然とした表情。
 だが、いまはその相貌に、ほんの少しだけ悲しみの色が乗る。
「ああ、夢だよ。稟」
 一刀は微笑みを崩さぬままに答えた。
「これも夢なんだ。きっとね。俺は一人で電車に座っていて、心の中で君との会話を妄想している。特に誰も迷惑をかけることのない、一時の罪のない夢ってわけさ」
 あるいは、ぶつぶつ一人で呟いたり、変なジェスチャーをしたりしてるって避けられているかもしれないね、と肩をすくめて彼は続けた。
「ふむ。では、夢ではないことを証明するにはどうすればよいでしょうね?」
「無理だろう。なにしろ、君が話すことが出来るのは俺が知っていることだけだ。それは、君が俺の妄想の産物であることをけして否定しない」
「私がいまあなたの手助けを必要としていると言っても、ですか」
 その言葉に一刀は固まってしまう。
 かつて、夢の中の人物たちは、彼に何度も語りかけてきた。
 帰ってきなさい、と華琳は命じた。
 一刀に会いたいんや、と霞は吐息のように漏らした。
 兄様、新しい料理を覚えたんです、と流琉は涙声で告げた。
 だが、助けてほしいと、手を貸してくれと言った者はいただろうか。
 そして、こんなことを言ってのけた者は、いただろうか。
「一刀殿。夢を見ているのはあなたのほうなのです」

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