北郷一刀の消失・前編

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8.軫憂

「星が倒れるとはな」
 我が子を寝かしつけて、隣室に入るなり呟いた桔梗の言葉を、紫苑は困ったような苦笑いで受ける。同じように寝入った璃々を置いて、二人で少し狭い部屋に移った。
 養育棟の中は夜特有の静けさに満ちていたが、この部屋はさらに静かだった。蜀の人間のために用意された会議用――つまりは密談用の部屋であるからだろうか。
「月ちゃん、七乃さんに猪々子さん、そして、星ちゃん」
 紫苑がこの二日間に異常な眠りに落ちた人々の名を挙げていく。
 最初の八人に加えて四人。すでに十二人もの人間が目覚めぬ眠りに引き込まれていた。
「蒲公英はこちらに戻さず、西涼の騎馬隊を長安まで送ることになったらしいの。名目は行軍訓練じゃがな」
「ええ、次は蒲公英ちゃんが危ないだろうということで。さすがに洛陽にいなければ大丈夫だろうということらしいわ」
「実際はどうだか……。妖術がどう効くかなぞ想像もつかん」
 いらついたように言って、桔梗は酒瓶の栓を抜く。紫苑があうんの呼吸で取り出した杯に酒を注いだ。
「うがって考えれば、自作自演の可能性すらありうるわ。この機を突いて他国が――たとえば我が蜀が策動を始めれば……」
「魏は堂々たる大義名分を手に入れ、再侵攻を行える、か」
 二人は杯を取り、ゆっくりとなめるように酒を飲む。酔いたいが酔いすぎるわけにもいかない。そんな飲み方だった。
「もちろん、考えすぎだとは思うけれど、軽挙は慎むべきよ」
「まあ、軍師殿たちもそれくらいはわかっておろう。それよりも……そのような謀ではなく、文字通りの凶事であった時の事よ」
 二人とも、本気で謀略を疑ってはいない。もしそうであれば、いっそ華琳一人で構わないのだ。彼女一人が倒れただけで、国家機構の柔軟な動きは阻害される。
「……困るわね」
「うむ」
 困る。困るのだ。
 いま、魏が崩壊すれば、それにつけこむどころではない。戦禍が飛び火しないよう備えねばならないし、大動員した北伐の軍がどこへ向かうかもわからない。
 それ以上に、親しい人々を、戦でもないのにこのような形で失うというのは、彼女たちにはとうてい容認しえることではなかった。
「千年が物心つく前に、死なれるなどたまったものではない」
 吐き捨てるように言うのは、桔梗。ぐいと酒を喉に落とし込む様は、不吉な言葉を流し去ろうとするようにも見えた。
 一方の紫苑は眉根を寄せて、静かにほおづえをついている。
「心情的にも、政治的にも、あの人たちが去ってしまうなんて事態は避けなければならないわ」
「どうする? わしらには妖術を操る知恵も術もないぞ」
「これまでどおりするしかないでしょう。なんとかする術を持っている人を支えるのよ」
 沈黙。
 杯を干し、それに酒を注ぐ音だけが、部屋に満ちる。
「のう、紫苑」
「なあに?」
「己が無力だと思いはしないか? 今回の事だけではないぞ。我らは武将。戦うための人間よ。だが、この時勢、いくさびとなぞ求められておらん。北伐など規模が大きいだけで、そう長く続くものではなかろう」
 紫苑は目を丸くする。目の前の相手とも長いつきあいだが、このような愚痴を吐くことがあろうとは思ってもみなかった。どうやら今回の事件はいろいろな所に影響を与えているようだ。
 そのことを、彼女は己の中の要注意事項を書きつける部分にしっかりと刻み込んだ。
「なにもまた戦が起きてほしいなどと思うわけではない。ただ……」
 言葉にならない言葉を、酒で飲み下す。その様子を見て、紫苑は体を起こすと、ふっと暖かな笑みを浮かべた。
「わたくしには璃々が、あなたには千年ちゃんがいるじゃない」
 ゆっくりと、説得するのではなく、ただ事実を語りかける。それは紫苑にとってはあまりに自明のことで、あえて賛同や理解を得るものではないから。
「子を育てるというのは、戦ばたらきと同じくらい誇るべきものだと、わたくしは思っているわよ」
「紫苑……」
「なにしろ、次の世界は璃々たちが作るのですもの。わたくしたちはそのための舞台を用意する。それが務めではなくて?」
 ふむ、と考え込むような声。だが、すぐに持ち上がった桔梗の顔は実に晴れ晴れとしていた。
「そうさな。ああ、そうよの。よし、そうと決まれば飲もうぞ」
「もう飲んでるじゃないの」
 空元気なのかそうでないのか大きな声を上げる桔梗に、しかたないわね、という風に紫苑は微笑むのだった。

 朝、目を覚ます。ごく普通のことが、こんなにも嬉しくなるものだとは思わなかった。
 思春は寝間着を脱いで身支度を調えながら、そんな風に思った。
 解いている長い髪をまとめようとする時に、つい手に取った紐を見つめて動きが止まってしまう。赤を基調に黒の紋が編み込まれた紐は、今は覚めぬ眠りに封じられたある人物から彼女に贈られたものだ。
 何事もなかったようにその紐で髪をしばり、一つ頷くと部屋を出る。
 執務室に向かうと、ひらひらの服を振り立てながら、いらいらと部屋の中を歩き回る小柄な影がすでにあった。
「小蓮様。今日はお早いですな」
 孫呉の末妹は朝が弱いというわけではないが、そうそう早いうちに仕事に出てくるような性質ではない。
 最近は武術の鍛錬などに熱心だが、書類仕事に関しては相変わらずあまり得意というわけでもないようだ。
 そうした思春の見立てであったのだが、今日はどうしたことだろう。
「眠れなかったの」
 半ば予想していた答えであったので、彼女は逆に安心した。
 今日は真面目にしようとしたのに書記官たちがいなかった、などということが――たとえ気まぐれでも――あっては、文官たちの出仕時刻をはやめざるを得なくなる。
「そうですか。それでは今日の勉強に身が入りませんぞ」
 自分の席につきながら冷静に指摘すると、たたたっと走り寄ってこられた。
「思春は一刀のことが心配じゃないのっ!?」
「……個人の感情を優先させる時ではありますまい」
 返答までに間があったのは、一体なぜだったろう。あの思春が、孫呉の姫に対して軽く目をそらしているのは?
「それよりも、あの面々が、目を覚まさなかった時……」
「三国は大変なことになるでしょうね」
 声は開いたままの扉の方からやってきた。その柔らかで、けれどどこか芯の通った声の持ち主は、桃色の髪を揺らしながら、部屋の中へと歩み入る。
「蓮華さま」
「お姉ちゃん」
 扉をしっかりと閉め、蓮華自身の机につくと、思春が茶を淹れに立ち上がる。
「戸を開け放して言い合いをするものではないわよ」
「申し訳も……」
「でもさー」
 二人のそれぞれの反応に、くすりと笑ってから、彼女は真面目な顔に戻る。
「とはいえ、私はそこまでの心配はしていないわ。皆、必死で解決法を探しているもの。私にはなにもできないけど……。でもね、思春、希望を失ってはいけないわよ。小蓮も無駄に焦らないの」
「……はっ」
「理屈はわかるよ。理屈はさ」
 そこで思春が淹れてくれた茶を三人で口にする。南方の土地で生まれ育った三人だけに、夏にこそ熱いものだとわかっているのか、それなりに熱い茶をぐいぐいと飲んでいく。
「ただ、今回の事態はともかくとして」
 一息ついたところで、蓮華が会話を再開する。この三人だと、小蓮が騒いでいる時以外は、蓮華が主導する形になるのが自然だった。
「私、今回倒れた面々やそこに集まった人たちを見ていて思ったのだけれど」
「はい」
「一刀ってほんと手を出し過ぎよね」
 さすがに予想外だったのか思春がぎょっと目をむく。
「お、お姉ちゃん?」
「あ、違うのよ。これは真面目な話なのよ」
 反応に戸惑ったのか、蓮華が頬を染めて、ぱたぱたと手を振った。
「呉や蜀の面々にまで女を作る。そのことを一刀本人はそう重大に考えていないけれど――いえ、愛情の面ではなくてね。でも、これは実際大事ではないかしら」
「そりゃあ、政治的にはねぇ」
 姉が会話をどこに持って行くつもりかまだよくわからない小蓮は一応無難な反応をしておく。
 一刀とは和解したと聞いたはずだったのだが、またぶり返したのだろうかと内心ひやひやしている小蓮であったが、当然、表にそれを出すわけにもいかない。
「だいたい、華琳の性格を考えると、親しい魏の仲間たちにはともかく、呉の面々や蜀の人間にまで一刀を共有させようとするものかしら?」
「色々と問題を誘発しかねないとは思います」
「たとえば、この間までは呉にいたわけだから、その間は華琳たちの目も届かなかった。それはわかるわ。でも、魏に居る間は間違いなく華琳たちの存在を無視できないし、そもそも明言されなくともそういう雰囲気を感じ取ったら、一刀本人が自重すると思うのだけど」
 進んで女を泣かせるような男には見えないし、と褒めているのだかなんなのかよくわからないことを、彼女は付け加える。
「冥琳たちは洛陽にいる間だっけ」
「北郷本人は、ただその相手を見ているだけでしょうが……。たしかに、孟徳殿たちがその先を考えないはずがない」
「そこなのよね……」
 蓮華の声が途切れて、視線がどこか宙に走ったところで、小蓮が焦れたように切り込んだ。
「要するにお姉ちゃんは、華琳はじめ魏の面々が計画的に他国の有力臣下にまで手を出すよう一刀をそそのかしてると言いたいの?」
「そこまで明確な方向付けかどうかはわからないわ。そもそも、そんなことして得があるものかしら?」
「他国との協調関係の構築なら別の手段でも構わないかと。むしろ色恋は問題がこじれやすいでしょう」
「一刀を鍛えるため、とか」
「華琳がそこまで不満に思う男を側に置く?」
 その言葉に、三人ともになにか思うところがあったのか、期せずしてうなる声が重なる。
 しばらくして思春がなにか思いついたように口を開いた。
「たとえば……」
 だが、その言葉はどんどんと扉を叩かれる音で中断させられた。彼女はそのまま立ち上がり、扉を開ける。その先に、顔を青ざめさせた稟が立っていた。
「奉孝殿」
「なにかあったの?」
 蓮華と小蓮の姉妹も扉に向かってくる。そこで、稟は息を一つ吸って、こう言うのだった。
「祭殿が起きてこられません」
 と。

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