北郷一刀の消失・前編

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7.金城

 一人の少女が、大きな屋敷の中を走る。太陽の光に透けるような茶の髪は後ろでまとめられ、彼女の体が躍動する度に、右へ左へ上へ下へと揺れ動く。その様はまるで颯爽と大地を走る馬の尾のようだった。
 すらりと伸びた足がしっかりと床を踏みしめ、飛ぶような一歩を生み出す。かなりの速度だというのに服が乱れることもなく、裾もそれほど翻ることがない。腰の重心がまっすぐに進む、すばらしい走りだった。
 だが、それを苦笑いで見つめる壮年の男がいた。とはいえ、苦みと笑みとどちらが強いかと問われれば誰もが後者だと断言するだろう。
「これ、翠。家の中でそのように」
「義父上」
 少女は流れるような動作で、その男の前に進む。歩調がゆるんだのは、注意されたからと言うよりは、目当ての相手に行き当たったからかもしれなかった。
「袁紹から遣いが来たんだ」
 ずばりと言い放ち、手に持っていた書簡を掲げてみせる。
 それにちらと目をやり、義父と呼ばれた男は笑みをおさめて、真剣な顔つきになった。
 義父と呼ばれたとおり、この男は少女の母――西涼を束ねる馬騰の再婚相手だ。翠の末の妹である馬鉄の血縁上の父親でもある。
 名を、北郷一刀。
 十五年前、天より降り来たったと言われるその男は、天の御遣いとして知られていた。
「……棟梁殿は、いまは眠っておられる」
 西涼の棟梁である翠の母は、このところ床に臥せることが多くなっていた。これまでも夫である一刀は馬騰の補佐役として働いてきたが、馬騰が病を得てからは余計にその役割が重くなっていた。
「うん、わかってる。まずは義父上と相談しようと思って」
 翠の返答は沈みがちだ。
 それでも気力を振り絞ったのか、言葉の最後はずいぶん元気なものだった。それを頼もしく思いながら、一刀は書簡を受け取り、目を通す。
「ふん……。反董卓連合、か」
 君側の奸、董卓討つべし。
 洛陽に入った董卓が無道の行いをしているとして袁紹が呼びかけた檄文を、北郷一刀は鼻で笑って見せた。
 だが、実際にその檄文は各地の有力者に送られており、それなりの効力を発揮するであろうことも、彼にもわかっていた。
「どうする? 涼州の諸侯としては、月たちに協力するよな?」
 翠も一刀も、もちろん馬騰本人も董卓として知られる少女のことを知っていた。董卓の根拠地は彼女たちがいまいる金城からそう遠くはない。そして、翠は董卓と真名を交換するほどの仲だった。
 だから、当然の反応として、こんな連合が出来るとしたら、それに対抗してこちらも軍を送ることになるだろう、というのが翠の言い分だった。
「協力、な」
 だが、一刀はそれに即座に同調はせず、一拍おいた。もう一度書簡を吟味するように目を落とし、静かな声で語り出す。
「たしかに同郷の者たちを攻めるというのは気分が良くない。そもそも董卓たちがここに書かれているような悪逆非道の行いなどする人間ではないのはよく知っているからな。しかしな、翠。協力といってもまっとうに援軍に行くだけが力になることでもないぞ」
「どういうことだ?」
「涼州としては、天子様が勝手なやつらに壟断されるのは困る。董卓たちならばそのようなことはするまいと洛陽に入るのを構いはしなかったが、今回連合を作った連中がどうなのかは、我々にはわからない」
「そんなこと知らなくても、やっつけてしまえば関係ないだろう」
 義理の娘の言葉に苦笑しつつも、一理はある、と一刀は思っていた。ただし、それは本当に対抗すべき相手ならばだ。有象無象の集まりに敵対することであえて相手の結束を強めてやる義理はない。
「それにしても相手を知らないというのは危険だぞ」
「……つまり?」
「いったんは反董卓連合に参加すると見せて、翠と蒲公英には諸侯の動向、その為人と度量を探りに行ってもらう。一方で俺と棟梁殿で軍を南下させ、長安をうかがう」
 連合のほうへはそれほど軍を出す必要はないだろう、と一刀は踏んでいた。
 なにしろ袁家の膨大な私兵がいるだろうし、涼州から関東まで長駆させようというのだ。兵が少ないと文句を言われる筋合いはなかろう。
「長安……」
「ああ。連合が洛陽まで達せないようなら諸侯なぞ構う必要はない。董卓たちを長安から支援し、涼州連合をもって反董卓連合をはねのける。だが、もし洛陽まで達するとなれば、その勢いは侮れない。その時は、長安を董卓たちと帝を迎えるための拠点として使う」
 複雑な表情を浮かべる翠に対して、一刀は淡々と言葉を連ねて行く。
「もしものことがあれば、翠。お前が月たちを救い出すんだ」
 もちろん、董卓たちがうまくやってくれれば、連合の軍を挟撃することも可能だろう。
「……そのために、連合の中に入れっていうのか。なんか……そういうのあたしは……」
「俺とて策を弄したいわけではない。あれが万全なら、堂々と正面から袁紹を討ち取る。だがな、翠」
 あるいは、この目の前の少女が、馬家の棟梁として独り立ちしてくれれば……とまで考えて、一刀は頭をふった。
 翠は十分によくやってくれている。いつまでも子供扱いをするのは不誠実というものだろう。
「うん、ごめん。義父上」
「いや、いい。それに、最後に決めるのは翠の母上だからな。どちらの意見も聞いてもらおう。ただし、持論を披露するのに興奮しすぎるのはなしだぞ?」
「わ、わかってるよぉ」
 二人はひとしきり笑いあう。その後、彼らは馬騰の判断に必要な意見を簡潔にまとめるべく話し合いを続けるのだった。

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