北郷一刀の消失・前編

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4.国難

 磨き上げられた硬木が敷き詰められた廊下に、規則正しく靴音が響く。
 夏のはじめとはいえ、王宮の奥深くには、その暑さも忍び込んでは来ない。ひんやりと静まりかえった中を、人の歩む音だけが響き渡る。
 せわしなくはなく、かといってのんびりといった風もなく、ごくごく几帳面に一定の間隔で、その音はいくつもの廊下を通り過ぎていく。
 そして、いくつかの扉をくぐり抜け、最後にひときわ大きな扉の前に至って、ぴたりと止んだ。
 その後、しばらくはなにも音を立てることなく、その少女は扉の前に立っていた。
 栗色の髪、強い意志を感じさせる青の瞳。大きめの縁なし眼鏡に触れる黒手袋に包まれた指は、少々力ない。
 なによりも、ひっしと前を見る鬼気迫る表情が、彼女の余裕のなさを表している。
 この曹魏を代表する三軍師の一人、郭嘉こと稟は自らを戒めるように、きゅっと唇をかみしめると大きく息を吸った。
 ふぅ……。
 小さく息を吐き、扉に手をかける。
 音も立てず開いていくというのに、気配を感じ取ったか、室内の人間の視線が来訪者へ突き刺さった。
 見つめる目は七人分。
 曹操の筆頭軍師桂花、同じく軍筆頭の春蘭、郷士軍の長である凪、呉から大使として派遣されている思春、これも蜀からの大使弓将紫苑、いまは名を変えているがかつては董卓と呼ばれた月、同じように名を変えて黄権を名乗る祭。
 全ての視線が、何かを求めるように彼女を射ている。
 だが、室内にある人影はそれだけではなかった。
 並べられた寝台に横たわるのは、曹魏の三軍師、残る一人である風、美羽と麗羽という二人の袁家の主、白馬長史こと白蓮に、月の親友であり西方の謀士と謳われる詠。さらには西涼の錦馬超こと翠。
 そして、この国の王にして、漢の丞相曹孟德こと華琳と、その盟友にして天の御遣い、北郷一刀。
 八人もの国家重鎮が揃って床についていた。
 もちろん、尋常な眠りではない。
 去ること三日前、涼州から帰ってきた美羽と七乃の主従をねぎらうために行われた宴の終わり頃に、八人は一斉に意識を失ったのだ。
 一人、二人なら酔って寝てしまったで済む話だが、これだけの人数が、しかもその中に曹魏の主が入っているとなればただ事では済まない。
 即座に医者が呼ばれたものの、呼ぶ医者呼ぶ医者が、全て同じ答えを返した。
「皆、眠っておられます。ただ、どうやっても起こすことが出来ません」
 と。
 そうして、出席者全員に箝口令が敷かれ、医者たちは王宮内に軟禁された。
 それから彼らは眠り続け、いかなる刺激――たとえば、桂花が一刀を踏んづけてみたり――によっても目を覚ますことはなかった。
「これだけ集めるなんて、なにかわかったの? 稟」
 猫耳頭巾の軍師が物憂げに問いかける。
 いまや、魏の国政を一手に引き受ける身となった桂花は、心労からか、純粋な疲労からか、かすかに青ざめた顔をしていた。
「ええ、少し。……それよりも、表の方はどうですか」
 一方で、主を含めた八人の昏睡を解く方法を探す役割を負い、書物の山の中に籠もっていた稟が確認する。
 この役割分担に桂花は当初難色を示していたが、華琳が居ない状況で筆頭軍師まで姿をくらませたでは宮廷が立ちゆかない。
 実際、政治経済ではなく、雑学と言えるような類の知識に関しては大陸中を旅して回った稟のほうが上で、その意味で、この配役は適任であったろう。
「なんとかやりくりしているわよ。死にそうだけど」
 死にそうというのは比喩でもなんでもない。
 主たる華琳、それを支える三軍師の二人がいない上、こういう時にそれらの穴を埋めるべき北郷一刀の仕事まで抱え込んでいるのだ。許容量を超えないほうがおかしい。
 実際に、桂花はいくつかの計画を一時停止せざるを得ないでいた。もちろん、そんなことを、他国の人間が居るこの場所で漏らす彼女ではない。
「北伐の軍は他の将軍たちで回している。蜀、呉勢は問題なかろう」
 こう答えるのは軍の代表である春蘭だ。彼女の視線はすでに稟を離れ、寝台の上の華琳に向かっている。
 ともすれば衝動的に揺り起こそうとする自分を押さえつけるように、体の前できつく腕を組んでいる姿は、普段の快活さを知っている面々からするとあまりに痛ましいものであった。
「呉は問題ないな」
 呉からの大使である思春が答える。
 壁に寄りかかり、首に巻いた布で表情を半ば隠している彼女は、部屋にいる全員を静かに観察し続けていた。
 呉は洛陽に駐在している三人ともが無事であった。
 かつて呉に所属していた祭もまた無事である。それをもって呉を疑う声は、未だ出ていない。
 だが、時間の問題であろうと思春自身は考えていた。
 魏は愚か者の集まりではないが、主を危険にさらされて、いつまで冷静でいられるものか。
 己の心情を殺してでも、暴発の時を見定める必要が、彼女にはあった。
「蒲公英ちゃんが長安から戻れば、もっと楽になるのですけれど。西涼の兵や、白馬義従は昔のよしみで私たちに従っていてくれますが、長引けば……」
 翠の寝台横に座っている紫苑が、蜀を代表して発言する。
 蜀もまた直接の被害は受けていないが、元々蜀にいた人間は三人も倒れている。
 そして、彼女の曖昧な語尾が示す不安は、その部屋にいる誰もが共有しているものだった。長安の鎮西府に出向いている蒲公英にはすでに使者を立てているが、帰京にはさらに日数を要することだろう。
 気まずい沈黙を払拭するように、凪が普段通りの落ち着いた声を上げる。
「市井は特に問題ありません。噂になっていることもないようです」
「まだ三日とはいえ、動揺が伝わっていないのは喜ぶべきことじゃな」
 宮中でも極秘とされていることだが、人の口に戸は立てられない。ひょんなことから世間に広まってしまうような事態は出来る限り避けたかった。そうした場合、まともに情報が伝わることはなく、より悪い形で噂は広がるものだからだ。
「ありがとうございます。では、私の報告に移りましょう」
 その言葉に、部屋の中の空気がぴぃんと張り詰める。
 皆の期待を込めた視線に怖じ気づくこともなく、彼女は懐から乾燥した草のようなものを取り出した。
「なんだ、それは」
「端的に言いますと、この香草が原因の一つかと」
 その言葉に息を呑む一同。その中で、一番早く反応したのは桂花だった。眉間に皺を寄せ、低い声で呟く。
「華琳様と北郷の毒味が両方とも見落としたの?」
 華琳の食事は、華琳自身か流琉、あるいは稀に月が作る場合以外は、常に親衛隊でもある流琉か季衣のどちらかが毒味をする。
 流琉は料理の知識で、季衣は食べる方の知識と動物的勘で毒をよく見分ける。彼女たちがいないときは、ずっと昔からしていたように春蘭か秋蘭がそれを行う。
 一方、北郷一刀の料理は彼つきのメイドが毒味をするのが通例であった。月は食事を作るのがもっぱらだが、詠は長年月の側に仕え、毒味にも慣れている。見分ける眼も確かなものだ。
 そのどちらもが見落とすなど、本来ありえないことである。
「へぅ~」
「月殿。あなたが責められているのではありませんよ。そもそも、単体では毒ではありませんから」
「どういうことかしら?」
「これは、呪術に用いられる薬草です。もちろん大量にとれば害になりますが、食事に混入されたくらいの量では、倒れたりはしません」
 疲れたように言葉を吐き出す稟に、凪が応じる。
「あの晩の料理に入っていたなら私たちも食べているわけですし、たしかにそれだけでは華琳様や隊長たちだけが倒れる理由になりませんね」
「ええ。つまり、この草を触媒に、現在昏倒しておられる方々に対してまじないが行われているということでしょう」
 部屋の中に、沈黙が落ちる。いま聞いた話をどう消化すればいいか戸惑っているのか、ほとんどの者が目配せをしあっていた。
「そのようなこと……ありえるのか?」
 思い切って訊いたのは春蘭。彼女の場合、その話を疑っているというよりは、それでどうなる、ということに興味があるようだった。
「実際に、それを信じている者たちはいます。そして、この状況を見れば……効果もあるということでしょう」
「少し詳しく話してくれる?」
「ええ。これは私と風、それに星の三人で、当時白蓮殿の支配下だった地域の北端あたりに行った折に聞いたまじないによく似ているんです。昔のことですし、断片的な話だったので、私も思い出すのにだいぶかかりました」
 そこで一度眼鏡を直し、彼女は続ける。
「簡単に言いますと、人を深い眠りに落とし、そのまま夢の中に封じ込める術です。そのうちに体は萎え、最終的には死に至ります。ただし、ゆっくりと」
 誰かがほぅと息をつき、皆の視線がそれぞれに眠る人々の顔に向く。
 まだ三日目ということもあって、病み衰えた様子はないが、それも時間の問題だろう。水を飲ませるのも、食事を摂らせるのも眠ったままのこの状態では、不自由がつきまとう。
「公孫賛殿がかつて治めていたあたりというと……烏桓か」
「たしかに北方の民の流れを汲んでいると思われます。烏桓に恨みをもたれている白蓮殿も被害者の一人であり、どうしても結びつけがちですが、といって烏桓がしかけたと断定するのは早計です。金で請け負う類の者もおりますから」
 思春の推論の言葉がそれ以上進まぬうちに釘を刺す稟。
 結論に飛びつきたいのはわかるが、この呪いの話にしてもまだ推測の段階なのだ。変なところに飛躍されても困る。
「本来は、風がもっと詳しいのですが。……正直、私は馬鹿馬鹿しい話だと思っていましたから、あまり詳しくは聞いていなかったのです」
 その言葉の端々に、悔しさがにじみ出る。そこに紫苑が音もなく近づいて、そのたおやかな手を肩にのせた。
「自分を責めるものではないですよ。星ちゃんはどうなのかしら?」
「……そうですね。いまはまず解決法を探さねば。星はあの折は烏桓に潜り込んでいたので、これについて聞いているとは思えませんが……。いえ、耳ざといあやつのことですから、噂くらいは聞いているかもしれません。質問してみましょう。それと、張三姉妹が、道術の中になにか対抗するものがないか調べてくれています」
「書庫はいくらでも使ってちょうだい。私は手一杯でとてもじゃないけど手伝えないわ」
 言った後で、桂花は少し考えるようにうつむいて、覚悟したように顔を引き締めた。
「筆頭軍師として、風の部屋を探ることを許します。なにか書きつけでもあるかもしれないし。起きたらぶつぶつ言われるでしょうけど、文句は私が引き受けるわ」
 稟が感謝するように頭を下げる。そこに勢い込んで春蘭が口を挟む。
「我々も聞き込みに回ろう。まじないを仕掛けたやつを探すのも手だろう?」
「いえ、軍を動かすのはまずいわ。それよりも町中をよく知る凪たちに任せるほうがいい。これまで通りにね」
「はい、お任せ下さい。春蘭様」
「む、むぅ」
「あんたは、軍をまとめてるだけでいいのよ。こういう時に軍に動揺されたらたまらないからね」
 でも、華琳様がぁ……と少々情けない声を上げた後で、他国の者がいることを思い出したのか、慌てて居住まいを正す春蘭。
 だが、そのことを笑う者はいなかった。
「……仕方あるまい」
 しゅんとした春蘭を他所に、皆がそれぞれに考えつくことを口にし始める。
「そうじゃ、華侘の居所は? 洛陽に顔を出す頃じゃろう。いや、まじないというなら医者の領分ではないかもしれんが、あの華佗なら……」
「そうね。この間はいなかったのだけれど。……探してみてくれる? 洛陽近くにいなかったら張姉妹を通じて漢中に聞けば、行き先の見当くらいつくでしょう」
「蜀、呉の大使方を通じて、このような症例についての話を蒐集してもらうよう各国に要請するのは?」
「ふむ。そのあたり、大丈夫でしょうか?」
「承った」
「わかりましたわ」
 そうして、いくつかの提案がなされ、役割分担が終わり、皆に解散の空気が流れ始めたところで、春蘭は視線を稟のほうへ向けた。
「ところで、稟よ」
「はい?」
「お前、この三日、寝ていないだろう。まずは休め」
 あら、と小さな声を上げたのは桂花だった。それを口に出すのか、という意味だろうが、それ以上は何も言わず、同じように稟を見つめていた。
「そういうわけには……」
「華琳様のことを思うのは私も同じだ。だが、お前にまで倒れられるわけにはいかん」
 そこで、隻眼の将軍は肩をすくめて見せる。
「そりゃあ、お前にわたしの体力があれば、四日でも五日でも徹夜できるだろうがな。こればかりはとりかえられんだろう?」
「そうよ、春蘭なんかと体を取り替えたら、頭の方まで引っ張られてだめになるわよ」
「そうそう、頭のほうも……って、おまえなぁっ」
 まぜっかえす桂花にくってかかる春蘭。その様を見て、稟は呆気にとられたようにしていたが、やがて小さく笑みを浮かべる。
「まあ、事実頭を働かせるためには眠りも必要じゃ。限界が来る前に体力を戻しておくのも肝要じゃと思うがいかに?」
「そうね。手分けできる部分は私たちもお手伝いするわ。阿喜ちゃんのお世話もね」
「我々に出来ることならなんでもお言いつけ下さい」
 口々に協力を申し出る面々に、最初は辛そうな顔を見せていた稟だったが、不意にまだじゃれている春蘭と桂花を見て、表情を変えた。
「ありがとうございます。悲壮ぶってもしかたありませんね。では、今日のところは阿喜の顔をみてから眠りをとることに……」
 そこまで言ったところで、唐突にぽすん、と軽い音がした。
 皆が音の出所に目をやれば、詠の寝台に寄りかかるようにして倒れ込んでいる月の姿があった。
「月ちゃん?」
 紫苑が駆け寄り、規則正しい息の調子を確認してから、体を抱き上げるようにして起こす。けれど、その間にも彼女の腕の中の月は一切の反応を示そうとしなかった。
「看病疲れ……?」
「いえ、違う……これは……」
 周りに集まった人々は、一様にぞわりと背筋がおののくのを感じずにはいられなかった。
「一番恐れていた事態です」
 詠の横に寝かされた月の体を子細に検分して、稟がそうして小さく震えた声を押し出したのはしばらく後のことだった。
 そして、彼女は告げたくもないことを、皆に告げねばならなかった。
「まじないが……感染し始めたようです」

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