北郷一刀の消失・前編

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3.帝都洛陽

「ん……?」
 竹簡に書き留める手を止め、翡翠色の髪をした少女は呆然としたように顔を上げた。
 普段はきつめに結ばれている口元が、何事か言いかけたようにゆるんでいる。
「えっと……」
 筆を置き、眉間をさする。
 その表情がみるみるうちに険しくなっていく。
 彼女自身にもさっぱりわからないのだが、いま、自分がなにを書いていたのか思い出せないのだ。
 そもそも、なんで自分はこんなところで、書き物をしているのだろう。
 見回せば、そこは彼女の執務室だ。うず高く積まれた書物と竹簡に囲まれた、彼女の城。
 洛陽の城内の一角、見慣れた風景……のはずだ。
 それを確認しても、なんだか現実から遊離したような感覚が取れず、仕方なく彼女は自問自答する。
 ボクは誰?
 ――漢の尚書令、賈駆。字は文和、真名は詠。
 いまはなにをしているところ?
 ――目下の懸案事項、反董卓連合の対処。
 よし、大丈夫。
「なんだったのかしら。めまい?」
 言いながら、座っていた椅子から立ち上がる。ゆっくりと体を伸ばすと、機嫌のいい猫のような声が漏れ出てしまう。
「うーん」
 少し歩くことにしようか。仲間たちに色々と話をしなければいけないというのもある。
 詠は髪と服を整え直し、墨と筆をしまって、廊下に出た。
 しばらく行ったところで、誰かを捜しているのかきょろきょろとあたりを見回している女性に行き当たる。
 胸に巻いたさらしと袴の上に羽織をひっかけただけという簡素な格好だが、その均整のとれた女性らしい体躯も相まって、なんとも言えない色香と迫力を醸し出しているその女性こそ、張文遠。
 彼女の仲間であり、頼れる武将だ。
「霞」
 その女性の真名を呼ぶと、ん? と少女のほうを向き、ほっとしたような表情になった。
「ああ、ちょうどよかったわ、賈駆っち。華雄が自分も出せってうるさいねん。どうにかしたって」
 とてとてと軽い歩調で寄ってきて、いきなり切り出す霞。詠はそれに呆れたように手を振って答えた。
「だめよ。あんな猪、関を守る将として派遣できるわけがないでしょ。月の護衛と洛陽の守備じゃ不足かとでも言ってやりなさい」
「いや、もちろん、華雄かて月っちや帝を護るんはそれはそれで栄誉に思ってると思うで。ただ、ほら、武人っちゅうのは戦いがあれば……」
 わかるやろ? と目線で訴えてくる霞。
 実際、彼女もうずうずしているのだろう。詠はそう当たりをつける。
 しかし、実際のところ、いまはまだ華雄や霞まで出す段階ではないのだ。それよりも、これ以上兵を集める時間がない以上、いま居る兵を鍛え上げてもらわないと困る。
「それはわかるわ。でも、決戦はまだ先。まずは恋たちに任せるべきよ。あちらも呂布と見れば本格的には来ないし、そんなところに行っても華雄だって望んだ活躍はできないでしょ」
「まあ……理屈はわかるんやけど……」
 名にし負う張文遠がもじもじと居心地悪そうに呟く姿を見て、詠は深くため息をつく。お手上げ、という風に手を広げ、次善の策を取ろうと頭を切り換えた。
「わかったわよ。ボクが直に説得するわ。ああ、あとあいつも呼んでおいて」
 そう言った途端、霞の目つきが鋭くなり、身を乗り出して耳打ちしてきた。
「開かれた場所で『あいつ』はあかんとちゃうか」
「はいはい。じゃあ、皇兄陛下をお呼びして」
「呼んだか?」
 背後から響く男の声に、詠は自分の心臓が跳ね上がるのを感じたように思った。
「うわっ! どっから出てくるのよ。おどろかさないで」
「はいはい。ツン子ちゃんは厳しいなあ」
 振り向いてみれば予想以上に近くに立っていた青年が、軽くいなす。その口調が詠にそっくりなことを、彼は気づいているのかいないのか。
「ツン子言うなっ」
 詠は少し背伸びして、男の額を指で弾く。ばちんっといい音がした。
「いだっ」
 額を押さえてうずくまろうとする青年は、真白く、きらきらと輝く衣服を身に纏っている。
 天から下されたというその衣服に袖を通せるのは、広い天下でもただ一人。前代の皇帝、廃帝弁こと弁皇子その人しかいない。
 現在では、至尊の座を下りた身ながら、皇兄陛下と尊称されることも多い。
 だが、そんな仰々しい肩書きと、彼女たちの前で痛みに悶絶している青年を結びつけるのはなかなかに難しい。
 彼はたしかにそれなりに整った顔立ちをしていたが、貴種の発する威厳や堅苦しさとはまるで無縁だったから。
 とはいえ、間違いなく彼は弁皇子であるのだ。
 ――少なくとも表向きは。
「ともかく行くわよ。ったく、なんでか知らないけど、あの猪武者、あんたの言うことなら少しは聞くんだから。ほら、はやく」
「え、どこ行くの? ちょ、ちょっと詠~」
 痛みから回復する間も与えられず、彼は袖を引っ張られ、歩き出すことを強制される。それに対する抗弁は端から無視された。
 ぎゃーぎゃーわーわーわめきつつ進む二人の後を追いながら、霞はにやにやと笑みを浮かべる。
 そうして、彼女は楽しそうに呟くのだった。
「相変わらず仲ええこっちゃ。あれで気づいとらんあたり、罪作りやなあ、かずっち」

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