北郷一刀の消失・前編

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2.魏都洛陽

 目を覚ますと、涙を流していた。
 寝台の上で体を起こし、濡れた頬に触れる。確かに濡れていることを確かめて、魏の覇王曹孟徳は儚げな笑みを浮かべた。
 部屋の入り口の気配を感じ取り、掛け布で軽く顔を拭う。
「あ、華琳様。起きていらっしゃいました? おはようございます。お湯持ってきましたー」
 言葉通り、湯気をたてる桶を手に持って部屋に入ってきたのは、親衛隊長の一人である季衣だ。
 昔のころころとした子供っぽさはすでになく、すらりと伸びた背は華琳の身長を追い抜き、季衣自身のあこがれの対象である夏侯惇――春蘭に近づこうとしている。
 背と同じように女性らしく成長した体つきを見ると、彼女の主である華琳は、ほんの少しだけうらやましく感じる。
 ほんの、少しだけ。
「おはよう、季衣」
 洗顔のための湯を持ってきてくれた彼女に朝の挨拶をして寝台から下り、身支度を調える。
 服を用意して差し出してくる手つきも、以前に比べてだいぶしなやかになった。元気さは相変わらずだが、それを動きには表さない術を、この親衛隊長は確かに学んでいた。
「あなたも、大きくなったわね、季衣」
「そ、そうですか? あははー」
 照れているのか、しきりに笑い声を上げる季衣に、ふと尋ねかける。
「成都攻略から……何年だったかしら、季衣?」
「ええっと、成都を落とした時って一度目のですか? 二度目のですか?」
 ああ、そうだった。
 成都は二度陥落したのだった。他ならぬ、この曹孟徳の手によって。
「一度目からだと?」
「えっと、八年です。二度目からだと三年ですね」
「そう。では、一刀が消えてから、もう八年か」
 言った途端、季衣の顔からはあらゆる表情が消え、その体は一切の動きを止めた。
 それは、魏の王宮で最大の禁忌。
 あらゆる重臣たちが避け、全ての側近たちが忘れ得ぬ名。
 三国が平定された時、すなわち第一次成都攻略戦が終わった夜に天へと帰って行った、天の御遣いこと北郷一刀。
 一刀はもういないわ。
 あの晩、そう告げた主の表情を、季衣は一生忘れることはないだろう。
 おそらく、それは家臣たる身ではけして見てはいけない顔。
 幼い頃からのつきあいである春蘭、秋蘭の夏侯姉妹以外は、まさに北郷一刀しか見たことのなかったであろうそれを見てもなお彼女に声をかけられる者など一人もいなかった。
 そして、戦乱の時を共に駆け抜けた男、彼女たちが愛した北郷一刀は禁忌となった。
 だから、その名前が出た途端硬直してしまうのはいたしかたないことだった。淡く微笑む華琳の姿を見て、ようやく、季衣は動くことができるようになる。
「そ、そうですね。兄ちゃんが……いなく、なって、ひっく、から」
 言葉を紡ぐにつれて涙声になるのは止めようがなかった。
 気づけば、華琳の腕の中に飛び込んでいる季衣。ふんわりと受け止められた腕にすがりつき、胸に顔を埋めて、わんわんと涙を流す。
「ごめんね、季衣」
 頭をなでる手はとても優しい。かけられる声もまた。
 けれど、季衣はそのせいで、余計に泣きたくなってしまうのだった。その手の持ち主もまた、心の中で涙を流していることを知っているから。
「これまで泣かせてあげられなくて」
 季衣は我慢できずに、華琳の体を強く抱きしめて、さらに声を上げ続けた。

「落ち着いた?」
 ひとしきり泣きわめいた後で、虚脱したように寝台に倒れ込んでいた季衣の視界に、ひょいっといった感じで現れる金髪の主人。季衣は、その時、自分が華琳の寝台を勝手に占領していることに気づいた。
「あ! す、すいません」
「いいのよ。ほら、朝食を持ってきてもらったし、食べましょう」
 彼女の言葉通り、いつの間にか卓には食事が山盛りだ。それに眼を輝かし、いそいそと椅子に座る季衣。未だに彼女の健啖家ぶりは衰えていないのだった。
「それにしても、急にどうしたんです? 華琳様」
 二人で食事に手をつけながら、口に美味しい餃子を運ぶ合間に尋ねる。あまり掘り返したくはないが、何事かあったのなら、聞いておかなければならない。
 それに対する華琳の答えは明確であり、謎めいてもいた。
「夢を見たの。夢を……ね」
 それ以上、彼女は何も言おうとせず、そんな時に話をするのが無意味と知っている季衣は黙り込んで食事に集中し、それでその話は終わりとなった。

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