北郷一刀の消失・前編

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1.東京

 もう今年も終わりか。
 街中に溢れるイルミネーションを見上げ、人通りの少ない街路を歩きながら、北郷一刀は独りごちる。
 いまはまだクリスマスの飾り付けだが、もう少しすれば新しい年を祝うものにマイナーチェンジすることだろう。いずれにしても華やかで、きらめいた夜は続く。
 そういえば、このところ星をあまり見ていない。
 彼は闇を退けるように輝く飾り物の星を見つめながら、そんなことを思う。東京の空は明るすぎて、星を見るのには向いていない。
「洛陽では……」
 思わず口にして、その内容よりも、吐いた息の白さに驚く一刀。周囲の誰も彼を注視していないことを確認し、彼は一人、頬に笑みを刻んだ。
 皮肉げに、寂しげに。
「馬鹿だな、俺は」
 さっきより、少し足をはやめる。その足取りにはどこか緊張がうかがえるようだった。
 吐いた言葉自体に、おかしな部分はない。なぜなら、彼は河南省洛陽市に行ったことがあるのだから。
 夢の世界ではなく、この現実で。
 それでも、気をつけないといけない。
 今度は心の中で呟く青年。
 変なことをぶつぶつ話していると会社の同僚に噂でもされたら大変なことだ。奇人扱いならまだいいが、精神に問題があると疑われたら一大事。
 現在でも日本社会では、精神の病に関しての風当たりが厳しい。出世できないくらいは彼もすでに覚悟しているものの、馘首されるのは困るのだ。
 そして、一刀がそうやって危惧するには根拠があった。
 彼には精神科への半年の入院歴があるのだ。
 しかも、それを偽装している。
 田舎のことでもあり、彼の親族の力によって、精神科ではなく肺結核で隔離されていたということにカモフラージュされたのだ。
 就職時、それが問題視されなかったのは幸いだった。現実、問題となるのは偽装のほうだろう。だが、一年間の大学休学期間の原因が精神科への入院だったと明らかだった場合、それなりの商社であるいまの会社に入れているのか、そのあたりは彼にもわからない。
 建前と実情が乖離しているのはいつものことだからだ。
 はたして、親族が彼のことを思ってくれていたのか、それとも一族の外聞そのものを気にしていたのかは、この際思い煩うべきことでもない。
 とはいえ、精査されればその程度のごまかしはすぐばれてしまうだろう。
 入社三年目の若造相手に会社がそこまでするかというとあやしいものだが、気をつけるに越したことはない。
 未だ不況の影は色濃く、無駄な従業員を雇っている余裕など、どんな大企業にもありはしないのだから。
「とはいえ……」
 彼は心の中で皮肉っぽく続ける。
 あの夢のおかげで、いろんな技能を身につけようとしていたのは、害にはならなかったことだよな、と。
 駅に近づき、さすがに人通りが増え始めたので、青年はペースダウンする。
 彼は、大学時代のほとんど――一回生後半からの、『結核』による休学時期を除く――を、学業とバイトと語学を含めた勉強に費やした。
 資格取得のための学校や語学学校に通うためにバイトで費用を捻出し、資金が続く限り、彼は手当たり次第に学んだ。
 おかげで中国語にも英語にも堪能になり、専門的なものから雑学まで、かなりの知識を得ることが出来た。
 まだまだ買い手市場だった就職を乗り切れたのは、それらの知識や経験のおかげだったと言っていい。勉強はしたものの、余計な資格を取っていなかったことも有利に働いたのは皮肉な話だ。
 必死でそれを得ようとしていた動機は、いまの彼からすれば馬鹿馬鹿しいとしか言いようがないもので……。
 あるいは、そんなことを考えていたからだろうか。
 駅の明かりの下に入った時、改札の向こうに一人の少女の姿を、彼は見た。
 栗色の髪、強い意志を感じさせる青の瞳。大きめの縁なし眼鏡をくいと上げる黒手袋のその仕草。
 なによりも、真剣でただひたすらに物事を見極めようとするようなその凛然とした表情。
 街を歩いていれば、目を引かずにはいられないような美少女が、そこにいた。
 だが、彼女を見ているのは、彼一人。
 彼一人、なのだ。
「お前は、幻影だ」
 コートの中の定期券を探すふりをして立ち止まり、少女が向けてくるひたむきな視線をにらみ返す。怒りとも悲しみともとれる真剣な表情を浮かべ、ぎりぎりと歯を食いしばる一刀。
「幻影、なんだ、稟」
 声になっているのかいないのか、本人もわからない呻きをその少女の姿に向ける。
 すると、一瞬、その顔に悲しそうな表情を浮かべると、少女の体は透け始め、ゆらゆらと陽炎のようになって消えていった。
 安心したように一つ息をつき、定期入れを取り出す。
「さて、さっさと帰るか」
 終電とは言わないが、いまから電車で帰ると、彼の住む地域のバスはそろそろ終わってしまう時間だ。ぐずぐずしている暇はない。
 彼はもう一度頭を振って先ほど見たものを振り払うと、駅の改札へ向かうのだった。

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