皇家の中で周家といえば、周瑜を祖とする七選帝皇家の一つを思い浮かべる人も多いだろう。しかし、周泰に始まる刀周家は、別の意味で名高い。
唯一、皇帝を弑し奉った家系として。
刀周家は、太祖太帝から直々に名刀『鬼切』と共に、名前の中の一文字を下賜され家名に冠することを許された、ある意味特別な家である。
しかし、皇帝を輩出することはなく、皇族会議では沈黙を守り続けた。
ただ、一武将として黙々と働く皇家というのが世上でも皇家群の間でも共通した印象であったという。
刀周家の刀周家たる所以は、第十三代皇帝の世になるまで、現れることはなかった。
十三代皇帝といえば、世にも名高き暴君、費帝である。
十代で帝位を継いだ理想に燃える青年皇帝は、三十代を過ぎる頃には、諡号でもわかる通り、乱費をほしいままにする愚帝に成り下がっていた。
幸いにも、この時代は内外に大きな動きはなく、皇帝が多少の贅沢をしても国家は揺るぐことはなかった。このことがかえって彼の歯止めを失わせ……(中略)……
ついに弾劾を決意した郭家の手により招集された皇家会議において、代表者全員を捕らえ投獄するという暴挙に出た費帝は、もはや己を止めるものはないと確信する。
その日、伝わるところによると彼は『田畑、塩田の私有を禁じ、未来永劫、あらゆる冨は皇帝のものとする』という正気とは思えない布告を出す予定だったとされる。
だが、それを宣言しようとした朝議の場において、費帝の首は飛んだ。
宮廷に押し入った刀周家一族三十人は、居並ぶ文武百官全てを誅戮し、最後に残された費帝に向けて、刀周家当主が伝来の鬼切を抜いた。
飾り紐で厳重に封印された、抜けぬはずの刀――鬼切。
刀周家の刀とは、皇帝を殺すことを許された証しであった。
後に鬼切の刀身に刻まれた文字――いまだ、明らかになっていない――を見た皇家一党はことごとく平伏したと言われる。
費帝を殺戮し、その遺体を七つに断ち割った後、彼女は第十四代皇帝へと登る。
その二十日後、彼女からの要請を受けた皇族会議において第十五代皇帝が選出されると自ら位を降り、以後、刀周家は再び地味な皇家へ逆戻りした。
しかし、彼らの成したことが忘れられるはずもなく、また彼らの使命が終わったわけでもなかった。
時代が下り、第二十三代懐帝の時に……(後略)