北郷朝五十皇家列伝・周家の項[周瑜]

 周瑜に発する周家は、七選帝皇家の一つとして、長い間帝国本土の政治の監視の任を帯びていた。
 しかし、費帝誅殺と、その後の義烈帝の即位、新帝擁立要求(詳しくは刀周家の項を参照のこと)に伴い、皇族会議において周家から第十五代明帝を出すことが決定される。
 これによって周家は選帝皇家の称号と権限を鳳家に譲ることとなった。

 このような事態は太祖太帝の時代から続く伝統的機構を崩すこととなり、相応の反発が予想された。しかしながら、時代の変化に対応するこの措置によって、様々な機構の見直しと刷新が行われ、結果的に帝国の命脈をのばし、明帝は中興の祖と呼ばれることに……(中略)……

 この時期、費帝の横暴に対して、西方の張家と、東方八家の楽家が動こうとし、明帝の即位を受けて取りやめていたことが、当時の史料の発見により判明している。
 いずれも各家の印章ではなく、普段はけして用いられることのない北郷の印章を用いた軍事行動であり、これをして、太祖太帝時代から中央腐敗に対する地方抑止の命が存在していた証しとされている。
 もし実際に、それらの命が各家に下されていたのだとすれば、それが濫用され、帝位簒奪が起きなかったことは奇跡的であるとも、太祖太帝とその配下たちの絶妙な抑止政策であるとも……(中略)……

 さて、周家は祖となる周瑜にしてからが逸話をさしはさまぬ史書においてすら美人であることを記されるほどであり、代々眉目秀麗な者が多かったとされる。
 その最高峰といえば、やはり周瑜の双子の娘たちであろう。

 長じて江東の二華と呼ばれ、大周、小周と称されたこの双子の美しさは、あの曹操をして、「世が世なら、この双子のために戦を起こしていたやもしれぬ」と言わせたほどである。

 曹操の子であり、母と同じく時代を代表する詩人となり、後に詩聖と称された曹植の最高傑作『洛神賦』は、曹植自身にとっては腹違いの姉となるこの双子のどちらかに捧げられたのではないか、という説は世上、古くから言われているものであるが、今のところそれを学問的に証明することはできておらず……(後略)

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