江東の巻・第十三回:甘興覇、死を求めてかなわぬこと

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「はい、では、今日はここまでにしましょうか」
「ふぇー」
 亞莎に言われ、机につっぷした拍子に、うめきのような情けない声が喉から飛び出る。
「疲れましたか、一刀様」
「さすがにねー。十三編しか読んだことが無かったってのもあるけど」
 体を起こし、一つ息をつく。時間的に、もうしばらくすれば誰かが茶と菓子でも持ってきてくれるだろう。
 以前に月が解説してくれたように、呉孫子兵法は八二巻、図九巻が基本となる。
 呉にはさらに異本が伝わり、その巻数も変わってくる。ただし、まだそこまでは手を出せていない。
 いまのところ、本編をようやく無理なく読み進められるようになったというぐらいだ。
「華琳さんの注釈つきですよね。あれを読まれていらっしゃるので、根本理論の理解については問題ないと思います。ただ、応用や例については、古今の戦争の知識も必要となりますから……」
「ごめんな。いちいち原典に戻ってもらって」
 亞莎の言う通り、華琳が注釈をした十三編には、例示というものが無い。
 戦争や政争における勝ち負けはどのようにして導かれるのか。その原理を説明しているのだ。
 それに解説を加え、古今の戦の実例を付け加えたものが、八二巻本ということになる。そのため、根本理論の応用例や実際の指揮などを学ぼうと思うと、昔の戦争の記録などをあたる必要が出てくる。
 俺たちはせっかくなので、孫子学派の諸人が引用してきている様々な原本にまで戻って学ぶことにしていた。
 ただし、その原本というのが、わかりやすく書かれているものばかりではないので、これも解読していく必要がある。
 戦争を描いた詩から古代の戦況の再構築を試みるなんてこと、自分がやるはめになるとは思いもしなかった。
「いえ、私の勉強になりますから」
 やわらかく微笑んでくれる亞莎。
 この様子からして、本当にそう思ってくれているのだろう。
 彼女も、冥琳や穏といった先達に追いつこうと必死で学ぼうとしている。
 俺はこうして短い時間を共にしているだけだが、その時間に込められた彼女の真剣さと熱意はすさまじいものがあった。
「邪魔するぞ」
 声がかかり、扉が開く。
 お、今日は思春か。
 長い黒髪を垂らした彼女が、つかつかとまるで体の正中線をずらさずに近づいてくるのを見て、苦笑いを浮かべる。
 それは、明らかにメイドの動きではなかった。
「し、思春さん……」
 亞莎がさすがに声をあげた。
 思春は動揺することも無く、けれど視線をあわせること無く、俺たち二人の前に茶とお茶請けのごま団子を置いていく。
「亞莎よ。いま、ここにいる私は甘寧に非ず。わかっているだろう」
「あ……はい。すいません」
 それ以後は二人とも口をきくこと無く、なんとなく重たい空気の中、気にした風も無く思春が出て行った。
「思春さん、一刀様の侍女をなさっておられたのですね」
「うん。知らなかった?」
 雪蓮には知らせてあるのだけど。
 さすがに細かいところまで皆に話す必要は無いと思ったか。
「はい。もちろん、この館にいらっしゃるのは知っていましたが……」
「あ。といっても雑用ばかりさせているわけじゃないよ。メイドはあくまで隠れ蓑で」
 思春の立場を説明しようと亞莎に話しかけるが、当の彼女は俺の言葉がまるで耳に入っていない様子。
「亞莎?」
「いえ……申し訳ありません。思春さんに悪いことをしてしまいました。あそこで話しかけるべきではありませんでした。一刀様、謝っておいてはもらえませんか?」
 どうも、声をあげてしまったことを悔いていたようだ。
「うん。構わないよ」
「では、お戻りの折に改めて謝らせていただくとも」
 これにも頷く。亞莎としても、自分が襲撃されたことで思春が呉を追われるのは望まないだろう。
 彼女も思春もこの件に関しては被害者なのだから。
「なんにせよ、せっかく持ってきてくれたお茶とお菓子をいただこうか」
「あ、そうですね」
 そうして、俺たちは甘いごま団子をぱくつき、熱いお茶で喉を潤した。
「甘いですねぇ」
 目を細めて、幸せそうに笑顔を浮かべる少女。その顔を見ていると、こちらも自然と幸せな気分になってくる。
「うん、おいしいよね。考え事とかには、糖分は必要なんだよ。摂りすぎるとまずいけど……。っと、亞莎、一つ聞いていいかな」
「はい?」
 詠に言われていたことを思い出したのだ。
 ここで尋ねておくほうがいいだろう。
「俺たちも雪蓮たちとは別に襲撃犯を追っているんだ。亞莎自身にはなにか気にかかるようなこととかは、無いかな?」
 ぎゅっと眉を寄せる亞莎に気づき、慌てて言葉を続ける。
 よく考えてみれば、これは彼女自身に襲撃の理由を押しつけているような質問ともとれるわけで、失礼にあたりかねない。
「もちろん、無ければそれでいいんだ。あくまで確認だから。ごめんね。不快になったろう」
 頭を下げると、慌てたように声をかけられる。
「いいえ、一刀様。私も事件ははやく解決してほしいですから。私のことなど気になさらず。ああ、どうか、お顔をおあげ下さい」
「ん」
 姿勢を戻すと、ほっとしたような表情になる。しかし、彼女はその後すぐに真剣な顔になり、両手の長い袖で口元を覆うようにして話し始めた。
「ただ、一刀様たちと思春さん、それに私という組み合わせで、一つ思い出していました」
 一拍置いて、じっと俺を見つめてくる。
「あの視察旅行のことを」
「ああ……」
 言われてみて思い出す。彼女と思春、そして、真桜まで一触即発になったあの時のことか。結局、恋が仲裁してくれたんだよな。
「あれを見て、思春さんと私が対立していると誤解した者がいたかもしれない、などと……」
「ふむ」
 当事者の俺たちとしてみれば、笑い話にしかならないような、軽い諍いだ。
 しかし、将の立場を離れ、一般兵の目からあの光景を見ていれば、深刻な対立があったと考える可能性は否定できない。
 なにしろ、他国の武将までもが武器を持ち出し、あの伝説の飛将軍呂奉先が間に入ってやっと収まったのだから。
「いえ、もちろん、思春さんの部下を疑っているのではないのですが……」
 急にわたわたと手を振る亞莎。
 もちろん、彼女が悪意でもってこの話をしたのでないのはわかっている。
 だが、真剣に考え込んでいた軍師の顔と、年相応のいまの慌てぶり。
 その両方を見ていると、なんだか妙に安心するのだった。
「うん、ありがとう。こちらであたってみるよ。でも、このことは雪蓮たちにも報告しておいてくれるかな」
「はい、わかりました」
 さて……。
 俺は心の中で静かに呟く。
 出来れば、これがなんらかの手がかりとなってくれればいいのだが。

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江東の巻・第十三回:甘興覇、死を求めてかなわぬこと」への2件のフィードバック

  1. 3節と4節の落差がw
    ある意味どっちも墜としてますが(笑)
    リアルもお忙しそうですが、無理をなさらずに、
    ゆるりと更新お待ちしてます。(^人^)

    もし思春の夜襲決行が遅かって、亜莎の情事と鉢合わせしていたら・・・なんて。

    •  次の更新が少し遅れますが、その後はなんとかなるかと思います。年度末はなかなか……。
       とはいえ、他所で一度終わらせたものを再び自サイトで上げていくわけですし、出来る限り良くしていこうとは思っております。
       実際、ここまででも削ったシーンもあれば、書き直した部分もありますので……。
       せっかく読んでもらえるのですから楽しんでもらえるよう努めたいですね。

       一刀さんは相変わらずなわけですが……。
       一刀さんが呉の重鎮を堕とせば堕とすほど、蓮華さんの胃が痛くなっていく感じですw
       もし思春が決断を遅らせて鉢合わせしていたら、たぶん、血の雨ですねw
       このときに限っては、思春さんだけじゃなくて、亞莎も判断鈍って本能に任せてしまいそうですからw

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